第4話 効率厨の女将軍
冷たく湿った石畳の上で、私は魔導コンロの火力を最大にしていた。
ここは魔王城の地下牢。
普通なら絶望して震える場所だけれど、料理人にとっては「換気が悪いだけの個室」でしかない。
「おい、エリス。本当にここでやるのか?」
鉄格子の向こうを見張りながら、ヴォルグさんが苦笑いする。
レオンハルト様は、私の背中でぐったりしているホルンを優しく撫でながら、呆れたように、でも信頼のこもった目で私を見ていた。
「やりますよ。看守さんたち、さっきからチラチラこっちを見ていますから」
私はニヤリと笑った。
牢屋の前を行き交う魔族の兵士たち。彼らの手には、例の灰色の『栄養ブロック』が握られている。
味気ない食事をしている時に、強烈に食欲をそそる匂いが漂ってきたら、どうなるか。
聖教国で実証済みだ。
「今日のメニューは、『肉汁爆弾・羽根つき餃子』です!」
私はボウルの中で、粗挽きにした『フロスト・ボア(氷猪)』の肉と、刻んだ『ダンジョン・ニラ』、そして『ドワーフ・ガーリック』を練り合わせた。
調味料は、『黒しずく(醤油)』とごま油、少しの砂糖。
粘りが出るまで手早く混ぜる。
次に、小麦粉を練って作った皮に、肉ダネを包む。
ヒダを作りながら、キュッと閉じる。
この作業は無心になれるから好きだ。
「焼きます!」
熱したフライパンに油を引き、餃子を円形に並べる。
ジュウウウウッ……!
底面に焼き色がついたら、小麦粉を溶いた水を流し入れ、蓋をする。
ジューーーーーッ!!!
水蒸気と共に、ニンニクとニラの強烈なパンチのある香りが、地下牢の澱んだ空気を切り裂いて拡散する。
それは、空腹の獣にとって抗えない誘惑の香りだ。
「な、なんだこの匂いは……!?」
「鼻が……鼻が痛いほど美味そうだ!」
見張りの兵士たちが、鉄格子にへばりついてきた。
彼らの目は血走り、口元からは涎が垂れている。
手元の栄養ブロックなど、もう石ころにしか見えていないだろう。
「仕上げよ!」
パチパチという音に変わったところで蓋を取る。
水分が飛び、羽根(パリパリの膜)ができている。
皿をかぶせて、ひっくり返す。
バサッ!
見事な黄金色の円盤が現れた。
香ばしい焦げ目と、艶やかな皮。
「さあ、看守さんたち。お味見はいかが?」
私が鉄格子の隙間から皿を差し出すと、兵士たちは我先にと手を伸ばした。
「く、食わせろおおお!」
バリッ! ジュワッ!
「熱っ! でも……うめぇええええ!!」
パリパリの羽根を砕くと、モチモチの皮の中から、熱々の肉汁が鉄砲水のように噴き出す。
ニンニクの香りが鼻を抜け、肉の旨味が舌を蹂躙する。
味のないブロックしか食べてこなかった彼らにとって、この刺激は劇薬だ。
「こんな美味いもの、初めてだ……!」
「もう一個! 頼む、もう一個くれ!」
「お代わりなら、鍵を開けてくれたら焼きますよ?」
私が悪魔の囁きをすると、兵士は迷うことなく腰の鍵束に手を伸ばした。
チョロい。いや、食欲とはそれほど偉大なのだ。
ガチャリ。
重い鉄格子が開かれた、その時だった。
「――何をしているのですか、貴様ら」
廊下の奥から、絶対零度の声が響いた。
兵士たちがビクリと硬直する。
「メ、メルジーナ将軍!?」
現れたのは、蛇の下半身を引きずり、冷徹な瞳を光らせたラミアの女将軍、メルジーナだった。
彼女は片眼鏡の位置を直し、床に座り込んで餃子を貪る部下たちを冷ややかに見下ろした。
「勤務中の飲食、および囚人への利敵行為。……軍法会議ものですね」
「ひっ、お許しください!」
「で、でも将軍! この料理、凄いんです! 食うと力が湧いてきて……」
「黙りなさい」
メルジーナが一喝すると、兵士たちは震え上がって蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
残されたのは、半開きの鉄格子と、私たち、そして湯気を立てる餃子の皿だけ。
メルジーナは、ゆらりと私の前まで進んできた。
その視線が、私の料理に向けられる。
「……またしても、これですか」
彼女はハンカチで鼻を覆い、露骨に不快感を示した。
「ニンニクに油……強烈な刺激臭で脳を麻痺させ、中毒性を引き起こす。貴女のやっていることは、料理ではなく薬物による洗脳と同じです」
「失礼なことを言わないでください」
私はフライパンを置き、彼女と対峙した。
「これは『生きる活力』です。貴女の部下たちを見てみなさい。さっきまで死んだような目をしていた彼らが、今はあんなに生き生きとしている」
「一時的な興奮状態に過ぎません」
メルジーナは無表情で切り捨てた。
「食事に必要なのは『効率』です。我が軍が開発した『完全栄養ブロック』は、必要なカロリー、ビタミン、魔力を完璧なバランスで配合してある。摂取にかかる時間もわずか数秒。……貴女のように、わざわざ時間をかけて調理し、食べるなど、リソースの無駄遣いです」
「無駄遣い……」
「ええ。それに、味覚などという不確定な要素は、兵士の選り好みを助長し、統率を乱す原因になる。だから私は、軍から『味』を排除したのです」
彼女の言葉には、揺るぎない信念があった。
彼女なりに、魔王軍を強くしようと考えてのことなのだろう。
でも、それは決定的に間違っている。
「……だから、魔王様はあんなに弱ってしまったのですね」
私が指摘すると、メルジーナの顔色が変わった。
蛇の瞳孔が細く収縮する。
「……何だと?」
「栄養素だけじゃ、心は満たされません。貴女が『効率』を追求して味を排除したせいで、ゼスト様は『食べる楽しみ』を奪われ、生きる気力を失ってしまった。……貴女が、魔王様を殺しかけているのよ」
「貴様ッ……!」
メルジーナの長い尻尾が鞭のようにしなり、床を叩き割った。
殺気が膨れ上がる。
レオンハルト様が剣を抜き、ヴォルグさんがフライパンを構える。
「訂正しなさい、人間。……私は誰よりも陛下(ゼスト様)の健康を案じている。陛下の強大な魔力を維持するには、高濃度の栄養が必要なのです!」
「だったら、証明してあげるわ」
私は一歩前に出た。
「私の料理と、貴女のブロック。どっちが兵士を強くするか、勝負しましょう」
「……勝負、だと?」
「ええ。兵士の士気を上げる食事対決です。私が勝ったら、私たちを解放し、魔王様への再謁見を認めなさい。そして、ホルンの治療にも協力してもらうわ」
メルジーナは鼻で笑った。
「馬鹿げている。数値上、私のブロックが優れているのは明白です」
「数値じゃ測れないものがあるって、教えてあげる。……それとも、逃げるんですか? 『効率的』な女将軍様が」
私が挑発すると、彼女のこめかみに青筋が浮かんだ。
プライドの高い彼女が、この挑発に乗らないはずがない。
「……いいでしょう。その無駄な自信、データと実績で粉砕してあげます」
メルジーナは冷酷な笑みを浮かべた。
「場所は城の中庭。対象は、我が軍の精鋭部隊百名。……彼らの士気をより高めた方の勝ちとします」
「望むところです」
「ただし」
彼女の目が妖しく光った。
「貴女が負けた時は、その生意気な舌を切り落とし、一生栄養ブロックを作る工場で働いてもらいますよ」
交渉成立だ。
鉄格子が完全に開かれる。
私たちは自由を手に入れたが、それは処刑台への片道切符かもしれない。
「エリス、大丈夫か? 相手は軍の補給を握るトップだぞ」
レオンハルト様が心配そうに耳打ちする。
私は彼の腕の中にいるホルンを見た。
ホルンの熱は引いていない。一刻も早く、治療法を見つけなければならない。
「大丈夫です。それに……勝算はあります」
私はメルジーナの背中を睨んだ。
彼女は「栄養」のことしか考えていない。
でも、極寒のこの地で兵士たちが本当に求めているのは、数値上のカロリーじゃない。
冷え切った心を溶かす「熱」と、明日を生きるための「刺激」だ。
「……それにしても、食材が足りないな」
ヴォルグさんがリュックの中身を確認して渋い顔をする。
百人前の料理を作るには、手持ちの食材では全く足りない。
特に、魔王様の呪いすら突き破るような、強烈なインパクトのある食材が。
「ボク……知ってるよ……」
レオンハルト様の背中で、ホルンが掠れた声を出した。
「ホルン!?」
「……おばあちゃん……。ボクのおばあちゃんの畑に……『黒いお米』と、『赤い悪魔』がある……」
「おばあちゃん? 赤い悪魔?」
「うん……。この種が……呼んでるんだ……」
ホルンが握りしめていた黒い種籾が、今まで以上に強く光り輝いた。
その光は、城壁の外、遠く離れた山奥を指している。
「そこに行けば、勝てる食材があるのね?」
ホルンは小さく頷き、またぐったりと目を閉じた。
「決まりですね」
私はメルジーナに向き直った。
「対決の前に、食材調達の時間をください。最高の料理を作るには、最高の準備が必要ですから」
「……フン。精々あがくことです。逃亡しようなどと考えないように、監視はつけますよ」
メルジーナは了承した。
彼女にとって、私たちが何をしようが、栄養ブロックの優位性は揺るがないと信じているのだ。
「行こう、レオン、ヴォルグさん。……ホルンの故郷へ」
私たちは一時的な解放を勝ち取った。
目指すは魔界の辺境。
そこには、魔王の味覚を取り戻し、ホルンを救い、そして石頭の女将軍を黙らせる「激辛の切り札」が待っているはずだ。
「待っててね、メルジーナ。貴女の効率論なんて、私のフライパンでひっくり返してやるから!」
私は拳を握りしめ、冷たい風が吹く中庭へと足を踏み出した。
餃子の残り香が、勝利への予感のように漂っていた。




