第3話 魔王と、幻のプリン
「ここが、魔王城……」
私が息を呑んで見上げた先には、黒曜石を削り出して作ったような巨大な城がそびえ立っていた。
空は相変わらず鉛色で、ちらつく雪が城の尖塔を白く染めている。
美しくはあるが、そこには生物的な温かみが一切感じられなかった。
「エリス、離れるなよ」
レオンハルト様が私の腰を引き寄せ、警戒を強める。
私たちは今、先ほどラーメンで手懐けた……いえ、和解した魔王軍の小隊に案内され、城の長い回廊を歩いていた。
「安心してください。俺たちがついている限り、他の兵には手出しさせません」
ラーメン隊長(と心の中で呼んでいる)が、胸を張って先導する。
彼の体からは、まだ微かに味噌とニンニクの香ばしい匂いが漂っていて、すれ違う他の魔族たちが「なんだこの匂いは?」と驚いた顔で振り返っていた。
「へっ、魔王の城って言うからどんな恐ろしい場所かと思ったが……。どいつもこいつも顔色が悪いな」
ヴォルグさんが辺りを見回して呟く。
確かに、城内ですれ違うメイドや兵士たちは皆、無表情で痩せていた。
彼らの手には、あの灰色の「栄養ブロック」が握られている。
歩きながら無造作にかじり、ただの燃料補給のように飲み込む姿は、見ていて胸が痛くなる光景だった。
「……食べることは、生きる喜びなのに」
私の背中で、高熱にうなされているホルンが小さく身じろぎした。
懐の黒い種籾が、ドクンと脈打つ。
この城のどこかに、ホルンを救う鍵があるはずだ。
そして、その鍵を握るのは、この国を統べる王――魔王ゼスト。
「着きました。この扉の奥が『玉座の間』です」
隊長が巨大な鉄の扉の前で立ち止まった。
重々しい音が響き、扉がゆっくりと開かれる。
そこには、広大な空間と、底冷えするような静寂が広がっていた。
◇
ホールの最奥。
一段高くなった台座の上に、漆黒の玉座があった。
そこに座っていたのは、一人の男だった。
「……遅い」
その声は低く、地響きのように空気を震わせた。
「偵察に出た部隊が戻ったかと思えば……人間を連れ帰るとはな。どういうつもりだ」
彼が顔を上げる。
透き通るような蒼白の肌に、燃えるような紅蓮の瞳。
額からは捻じれた二本の角が伸び、背中にはコウモリのような黒い翼が畳まれている。
圧倒的な美貌と、魔力を兼ね備えた存在。
魔王ゼスト。
しかし、その体は玉座に沈み込むように細く、頬はこけていた。
瞳には強い光があるものの、その奥には深い疲労と退屈が見て取れる。
「ゼスト様! この者たちは敵ではありません! 素晴らしい『技術』を持つ客人です!」
隊長が膝をついて報告する。
ゼストはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「技術だと? 人間ごときがか」
「はい! 彼女たちの作る『食事』は、我々の魂を震わせました! ゼスト様の長年の憂いも、彼女ならば晴らせるかもしれません!」
「食事……?」
その単語を聞いた瞬間、ゼストの眉間に深い皺が刻まれた。
彼は苛立ちを隠そうともせず、手元にあった皿を払いのけた。
皿に乗っていた栄養ブロックが、カランと音を立てて床に転がる。
「下らん。食事など、生命活動を維持するための作業に過ぎん。……砂を噛むような時間を、これ以上俺様に強いる気か」
「砂を噛むよう……?」
私が思わず声を漏らすと、ゼストの紅蓮の瞳が私を射抜いた。
「ほう。それが、噂の人間か」
彼は玉座から立ち上がることなく、指先だけで私を示した。
「見るからに弱々しい。だが……妙な匂いがするな。甘く、焦げたような……」
「エリスです。一介の料理人です」
私は一歩前に出た。レオンハルト様が止めようとするが、私は目で制した。
「魔王様。貴方、お腹が空いているのではありませんか?」
「は?」
「痩せすぎています。それに、その肌の乾燥……栄養が偏っている証拠です」
私がズバリと言うと、周囲の護衛兵たちがざわめいた。
魔王に対して「栄養不足」などと指摘する人間は、前代未聞だろう。
「……ふん。面白いことを言う」
ゼストは自嘲気味に笑った。
「空腹? ああ、腹は減っているかもしれん。だが、食欲がないのだ。……この世の全てのものが、俺様にとっては無味乾燥なガラクタでしかない」
彼は虚ろな目で天井を仰いだ。
「貴様、料理人と言ったな。……ならば、俺様を満足させてみろ」
「え?」
「俺様の舌を喜ばせることができたなら、貴様らの不法侵入は見逃してやろう。望みの褒美もくれてやる。……だが」
彼の目が妖しく光った。
「もし俺様を失望させたなら……その場で氷像にして、城の飾りに加えてやる」
生死をかけた料理勝負。
第2部のヴァレリウス殿下も無茶を言ったが、この魔王様はもっと深刻だ。
彼の言葉からは、「期待」よりも「諦め」の色が濃く感じられる。
「受けます」
私は即答した。
褒美なんてどうでもいい。ただ、目の前にいる「食べる喜び」を失った人を放っておけない。
それに、彼を満足させれば、ホルンのことを聞くチャンスが生まれる。
「エリス、大丈夫か? 相手は魔王だぞ」
「平気ですよ、レオン。お腹を空かせた人に悪い人はいません……たぶん」
私はリュックを下ろし、魔導コンロを展開した。
広くて冷たい玉座の間が、私の厨房になる。
(何を作ろうか……)
私はゼストの様子を観察した。
痩せこけた体。荒れた肌。そして、漂う倦怠感。
今の彼に、いきなり脂っこい肉料理や、消化の悪いものは毒だ。
まずは胃腸を驚かせず、かつ、脳に直接「美味しい」という快楽を届けるもの。
そして、彼の言葉の端々に感じた、微かな甘えのような響き。
もしかしたら、彼は――。
「……甘いもの、お好きでしたか?」
私が尋ねると、ゼストは一瞬きょとんとして、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……昔の話だ。今は何を食べても同じだがな」
当たりだ。
隠れ甘党。しかも、今は食べられない反動で、体が糖分を渇望しているはず。
「決めました。……とびきり優しくて、甘いものを作ります」
私は食材を取り出した。
聖教国で手に入れた『コカトリスの卵』。
『ムームー牛』の特濃ミルク。
そして、精製された純白の『スノー・シュガー』。
シンプル・イズ・ベスト。
素材の力だけで勝負する、王道スイーツ。
『極上・なめらかカスタードプリン』だ。
まずはカラメル作り。
小鍋に砂糖と少量の水を入れ、火にかける。
ふつふつと泡立ち、色が狐色から褐色へと変わる瞬間を見逃さない。
焦がしすぎれば苦くなる。
早すぎればコクが出ない。
ギリギリのラインで火を止め、お湯を少し加えて色止めをする。
ジュワッ!
甘く、ほろ苦い香りが広がる。
ゼストの鼻がピクリと動いた。
次にプリン液。
卵黄だけを贅沢に使い、砂糖と混ぜる。
温めたミルクには、香り付けの『バニラ・ビーンズ(魔界産)』を入れる。
これを卵液に少しずつ加え、丁寧に混ぜ合わせる。
「ヴォルグさん、漉し器をお願い!」
「おうよ!」
ヴォルグさんが持った布で、卵液を二度漉す。
これで絹のようになめらかな口当たりになる。
耐熱容器にカラメルを敷き、プリン液を注ぐ。
あとは蒸すだけ。
魔導コンロの火力を弱火に保ち、じっくりと熱を通す。
「す」が入らないように、優しく、優しく。
十分後。
鍋の蓋を開けると、甘い蒸気と共に、ぷるぷると揺れる黄金色の宝石が現れた。
氷魔法で急速冷却し、皿の上にひっくり返す。
プッチン。
プルルンッ。
「完成です。……『魔王様に捧げる、極上なめらかプリン』」
琥珀色のカラメルソースを纏ったプリンは、照明を受けて艶やかに輝いている。
その揺れ方は、あまりにも魅惑的だ。
「……ほう」
ゼストが身を乗り出した。
その瞳に、僅かに興味の色が宿る。
「見た目は悪くない。……香りも、懐かしいな」
私は皿を捧げ持ち、玉座の階段を登った。
レオンハルト様が緊張して剣に手をかけるが、ゼストは私しか見ていない。
「どうぞ」
スプーンを渡す。
ゼストは震える手でそれを受け取り、プリンをすくった。
スプーンが入る感触だけで、その柔らかさが伝わる。
彼はゆっくりと口へ運んだ。
パクッ。
静寂。
玉座の間にいる全員が、魔王の反応を固唾を呑んで見守る。
舌の上でプリンが崩れる。
濃厚な卵のコク。
ミルクの優しい風味。
バニラの妖艶な香り。
そして、ほろ苦いカラメルが全体を引き締める。
食感は完璧だった。
今まで作った中でも、最高傑作と言っていい出来栄えだ。
しかし。
カラン……。
ゼストの手から、スプーンが滑り落ちた。
彼の表情は、喜びでも、怒りでもなかった。
深い、深い、絶望だった。
「……やはり、か」
彼が乾いた声で呟いた。
「美味しい……はずなのだろう。柔らかくて、冷たくて、喉越しもいい」
彼は自分の喉元を押さえた。
「だが……味がしない」
「えっ……?」
「甘みも、苦味も、何も感じない。……まるで、冷たい泥を飲み込んでいるようだ」
嘘でしょう?
あんなに濃厚な卵と砂糖を使ったのに。
味がしないなんて、ありえない。
「そ、そんな……。もう少し食べてみてください! 下のカラメルと混ぜれば……」
「無駄だ!!」
ゼストが叫び、皿を払い落とした。
ガシャーン!!
私の自信作だったプリンが、床に飛び散り、無残な姿になる。
「ひっ……!」
「エリス!」
レオンハルト様が駆け上がり、私を庇う。
ゼストは玉座で頭を抱え、震えていた。
「なぜだ……なぜ俺様には味が分からない! 匂いはするのに、食感はあるのに……舌に乗せた瞬間、全てが虚無に変わる!」
彼は私を睨みつけた。その瞳には涙が滲んでいた。
「期待させるな……。甘い匂いで、俺様を弄ぶな……!」
魔力の暴走。
彼を中心にして、黒い瘴気が渦巻き始める。
城全体が震動し、窓ガラスにヒビが入る。
「ゼスト様、お鎮まりください!」
「殺される! 逃げろ!」
兵士たちがパニックになる。
レオンハルト様が防御障壁を展開するが、魔王の力は桁違いだ。
「……味覚障害、いえ、呪い?」
私はレオンハルト様の背中で、冷静に分析していた。
ただの好き嫌いや病気じゃない。
彼の魔力そのものが、味覚を拒絶しているような感覚。
まるで、何者かによって「食の喜び」を封印されているような。
「エリス、ここは退くぞ! 話が通じる状態じゃない!」
「でも……!」
その時。
玉座の間の扉が、再び大きく開かれた。
「――おやめなさい、陛下! みっともない!」
凛とした、しかし冷徹な女性の声が響き渡った。
瘴気を切り裂いて入ってきたのは、蛇の下半身を持つ妖艶な魔族――ラミアの女性だった。
彼女は軍服のようなきっちりとした衣装を身にまとい、片眼鏡を光らせている。
「メ、メルジーナ将軍!」
兵士たちが叫ぶ。
彼女こそが、魔王軍の補給を一手に担う『効率の女将軍』メルジーナだ。
彼女は暴走するゼストの前に立ち、無造作に何かを投げつけた。
それは、あの灰色の「栄養ブロック」だった。
「陛下。血糖値が低下して情緒不安定になっているのです。……さあ、これを摂取してください」
「……メルジーナ……」
「味などという不確定な要素に惑わされるから、そうなるのです。食事とは栄養摂取。それ以上でも以下でもありません」
彼女は冷ややかな目で、床に散らばったプリンの残骸を見下ろした。
そして、ヒールの先でそれを踏み潰した。
「……汚らわしい。人間風情が、陛下に毒を盛ろうとは」
「毒じゃないわ! それはプリンよ!」
私が抗議すると、彼女は私を虫でも見るような目で見下ろした。
「同じことです。栄養効率の悪い、快楽物質の塊。……衛兵! この侵入者たちを地下牢へ!」
「なっ、待て! 俺たちは客として……」
「黙りなさい、下等生物」
メルジーナが指を鳴らすと、床から魔法陣が浮かび上がった。
転移の罠だ。
「しまっ……エリス、捕まれ!」
レオンハルト様が私とホルンを抱き寄せる。
ヴォルグさんも集まるが、足元が光に包まれる。
「陛下に必要なのは効率的な管理です。……貴様らのような『不純物』は排除します」
メルジーナの冷酷な宣告と共に、私たちは光の中に飲み込まれた。
最後に見たのは、栄養ブロックをかじりながら、虚ろな目で玉座に沈み込む魔王ゼストの姿だった。
◇
ドサッ。
硬い石畳の上に放り出された。
冷たく、湿った空気。鉄格子の向こうには、薄暗い廊下が続いている。
「……地下牢、か」
レオンハルト様がすぐに起き上がり、周囲を警戒する。
私とホルン、そしてヴォルグさんも無事だ。
武器や調理器具も没収されていないのが不幸中の幸いか。
「ちくしょう、あの女将軍! 俺のプリンを踏みやがって!」
ヴォルグさんが悔しそうに壁を蹴る。
私も、悔しさで唇を噛んだ。
私のプリンが通用しなかった。
いや、料理以前の問題だ。ゼストの舌は、呪いによって完全に封じられている。
「……味がないって、どんな気持ちなんだろう」
ホルンが、熱に浮かされながら呟いた。
「ボク、お腹すいたけど……何を食べても砂だったら、悲しくて泣いちゃうよ」
「そうね……。それは、地獄と同じだわ」
私は握り拳を作った。
魔王ゼストは、最強の力と引き換えに、孤独な地獄にいる。
そして、それを「効率」という言葉で管理しようとするメルジーナ。
このままじゃ終われない。
料理人のプライドにかけて、あの魔王に「美味しい」と言わせてやる。
そして、ホルンの呪いを解く手がかりを掴むんだ。
「出ましょう。こんな所で腐っている暇はありません」
「どうやって出る? 鍵は頑丈だぞ」
レオンハルト様が鉄格子を揺らす。
私はリュックの中身を確認した。
食材はまだある。そして、ここは魔族の城の地下。
きっと、お腹を空かせた見張り番がいるはずだ。
「いつもの手で行きます。……牢獄の中から、飯テロ開始よ!」
私は魔導コンロに火を点けた。
暗い地下牢に、希望の火が灯る。
反撃の狼煙は、香ばしい匂いと共に上がるのだ。




