第2話 味のない国
王国の最北端にそびえ立つ『嘆きの壁』。
雲をも突き抜けるその巨大な山脈を越えた先には、一面の銀世界が広がっていた。
「……寒いですね」
私はマントの襟をかき合わせ、白い息を吐いた。
ここが、人間が決して足を踏み入れてはならない禁断の地、魔族領だ。
空は鉛色に淀み、太陽は薄い膜の向こうで力なく輝いているだけ。
肌を刺すような冷気が、防寒着の隙間から容赦なく入り込んでくる。
「エリス、大丈夫か? 身体強化の魔法をかけようか?」
「平気ですよ、レオン。カイロ代わりの『ホット・ストーン』を持っていますから」
私は懐に入れた温石を握りしめた。
背中のホルンは、レオンハルト様の分厚いマントの中で守られ、今は安定した寝息を立てている。
ひとまず、最悪の峠は越えたようだ。
「へっ、とんでもねぇ場所だな。生き物の気配がまるでしねぇ」
ヴォルグさんが巨大な包丁を杖代わりにして雪道を歩く。
その視線の先、雪原の向こうに、黒い石造りの城壁が見えてきた。
「あれが、魔族の街か……」
私たちは顔を見合わせた。
いよいよだ。
敵意を持たれるかもしれない。攻撃されるかもしれない。
でも、ホルンを救う手がかりは、あの街にある。
「行こう。……警戒は怠るなよ」
レオンハルト様が剣の柄に手をかけ、私たちはその城門へと足を踏み入れた。
◇
街の中に入って最初に感じたのは、奇妙なほどの「無臭」だった。
王国の街なら、昼時にはパンが焼ける匂いや、スープを煮込む香りが漂っているものだ。
しかし、ここには何もない。
生活臭すら希薄で、ただ冷たく乾燥した風が吹き抜けているだけ。
街を行き交う魔族たちは、青白い肌に角や翼を持ち、人間とは明らかに違う姿をしていた。
彼らは皆、無表情で、どこか機械的に動いている。
「おい、エリス。あれを見ろ」
ヴォルグさんが小声で囁いた。
通りのベンチで、一人の魔族の男が食事――らしきものをとっていた。
彼が手に持っているのは、レンガのような灰色をした四角いブロックだ。
ガリッ、ボリッ。
彼はそれを無造作にかじり、水で流し込んでいる。
表情は一つも動かない。まるで、砂を噛んでいるようだ。
「……あれが、ご飯?」
「粘土細工に見えるが……」
レオンハルト様も眉をひそめる。
その時、ブロックを食べていた魔族が、ふとこちらに顔を向けた。
そして、鼻をクンクンと動かした。
「……?」
彼の瞳孔が開き、焦点が私たちに――正確には、私たちが背負っているリュックに釘付けになった。
「……いい匂いがする」
彼が掠れた声で呟いた。
「なんだ、この匂いは……?」
彼だけではない。
周囲にいた魔族たちが、次々と足を止め、私たちの方を向き始めた。
無表情だった彼らの顔に、困惑と、そして飢えた獣のような色が浮かぶ。
「まずいな。囲まれるぞ」
レオンハルト様が私を背に隠す。
次の瞬間、石畳を蹴る音と共に、武装した一団が現れた。
漆黒の鎧に身を包んだ、魔王軍の兵士たちだ。
「貴様ら! 何者だ!」
隊長らしき大柄な魔族が、槍を突きつけてきた。
牛のような角が生え、鼻からは荒い息を噴き出している。
「人間か? どうやって結界を抜けた! スパイだな!」
「待て! 我々は争いに来たわけではない!」
レオンハルト様が叫ぶが、兵士たちは殺気立っている。
しかし、奇妙なことに、彼らはすぐに襲いかかってこない。
槍を構えつつも、鼻をひくつかせ、落ち着きなく視線を泳がせているのだ。
「隊長……こいつらから、妙な匂いがします」
「ああ……なんだこれは。嗅いだだけで、口の中に水が溜まる……」
「この匂い、危険です! 思考が乱されます!」
彼らは私たちのリュックから漏れ出る、スパイスや食材の残り香に反応しているのだ。
食事という概念が希薄な彼らにとって、それは未知の刺激なのだろう。
「ええい、黙れ! 怪しい術を使うに違いない! 捕らえろ!」
隊長が号令をかける。
レオンハルト様が抜刀しようとした、その時。
「待ってください! 貴方たち、お腹が空いているんじゃありませんか?」
私が大声で叫ぶと、隊長の動きがピタリと止まった。
「……は?」
「そのブロックみたいなもの……食べていて楽しいですか? 体は温まりますか?」
私は一歩前に出た。
レオンハルト様が止めようとするが、私は首を振って制した。
言葉で通じないなら、いつもの手を使うしかない。
「私たちは料理人です。貴方たちに毒を盛るつもりも、害を与えるつもりもありません。……ただ、寒そうにしている人を見ると、放っておけないだけです」
私はリュックを下ろし、その場で魔導コンロを展開した。
殺気立つ兵士たちの目の前で、堂々と調理器具を並べる。
「な、何を始める気だ! 武器か!?」
「いいえ、厨房です」
私はニッコリと笑った。
「寒い時は、温かい汁物が一番です。……少し時間をください。貴方たちが食べたことのない『最高のご馳走』を作ってみせますから」
◇
「ご馳走だと? ふざけるな!」
隊長は激昂したが、ヴォルグさんが立ちはだかり、無言の圧力で彼を牽制した。
その隙に、私は調理を開始する。
今日作るのは、極寒の地で冷え切った体を芯から温め、ガツンとした旨味で脳髄を揺さぶる一杯。
『特製・熱々豚骨味噌ラーメン』だ。
まずはスープ作り。
通常なら豚骨スープは何時間も煮込む必要があるが、私には魔法がある。
「『圧力』!」
寸胴鍋に、道中で狩った『フロスト・ボア(氷猪)』の骨と水を入れ、風魔法で内部気圧を極限まで高める。
さらに、火力を最大に。
骨の髄液が一瞬で溶け出し、スープは白濁した濃厚な色へと変わる。
そこに合わせるのは、聖教国で大活躍した『特製合わせ味噌』に、すりおろしたニンニク、生姜、そして香ばしい『すりごま』をたっぷり混ぜた味噌ダレだ。
ジュワッ……!
味噌ダレをラードで炒め、そこに豚骨スープを一気に注ぐ。
爆発的に広がる香り。
獣の脂の甘い匂いと、焦がし味噌の芳醇な香り、そしてニンニクの食欲をそそる刺激臭。
「な、なんだッ!? この暴力的な匂いは!」
「鼻が……鼻が喜んでいる!?」
兵士たちがどよめく。
無機質だった街の空気が、一気に色づいていくようだ。
「麺、行きます!」
王都から持参した、コシの強い『イエロー・ウィート』の縮れ麺を茹でる。
茹で上がった麺を湯切りし、丼へ。
その上から、熱々の濃厚味噌スープを注ぐ。
トッピングは豪華に。
とろとろに煮込んだ『ボア肉のチャーシュー』。
甘い『ゴールデン・コーン』と『バター』。
シャキシャキの『もやし』と、刻んだ『ネギ』。
仕上げに、黒胡椒をぱらり。
完成だ。
「お待たせしました! 『極寒の地で食べる、至高の豚骨味噌バターコーンラーメン』です!」
ドンッ、と置かれた丼から、猛烈な湯気が立ち上る。
バターがスープの熱でとろりと溶け出し、味噌と混ざり合って黄金色の油膜を作っている。
「さあ、隊長さん。毒見を兼ねて、どうぞ」
私は箸を差し出した。
隊長は警戒していたが、本能には勝てなかった。
彼の喉仏が、大きく上下した。
「……くっ、誘惑魔法か……! いいだろう、我が屈強な胃袋で消化してやる!」
彼は意を決して箸を受け取り、見よう見まねで麺を持ち上げた。
黄色い縮れ麺に、濃厚なスープが絡みついている。
フーフーと息を吹きかけ、口へと運ぶ。
ズルッ、ズルズルッ……。
静寂な街に、麺をすする音が響き渡った。
「……ッ!!」
隊長の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。
熱い。
口の中が火傷しそうなくらい熱い。
だが、その熱さが心地よい。
豚骨のクリーミーなコクと、味噌の塩気、そしてニンニクのパンチが、舌の上で暴れまわる。
溶けたバターがまろやかさを加え、コーンの甘みが弾ける。
「な、なんだこれは……!?」
隊長の手が止まらない。
麺を飲み込むと、胃袋がカッと熱くなった。
今まであの灰色のブロックしか入れてこなかった胃が、歓喜の産声を上げている。
全身の血流が良くなり、指先までポカポカとしてくる。
「うまい……! うまいぞおおおおっ!!」
彼は丼を両手で持ち上げ、スープを直接飲み干した。
「この汁……! ただのお湯ではない! 命のエキスだ!」
完食。
一滴も残さず飲み干した彼は、呆然と空の丼を見つめ、そしてハラハラと涙を流した。
「俺は……今まで何を食っていたんだ……」
「隊長!? 泣いているのですか!?」
「俺にも食わせてください!」
部下の兵士たちが雪崩れ込んできた。
「はいはい、並んで! みんなの分もありますから!」
ヴォルグさんが麺を茹で、私がスープを注ぐ。
レオンハルト様も苦笑しながら、列の整理を手伝ってくれた。
「熱っ! うめぇ!」
「体が燃えるようだ!」
「母ちゃんに食わせてやりてぇ……!」
厳めしい魔族の兵士たちが、ラーメンを前にして子供のように泣き、笑っている。
その光景を見て、私は確信した。
どんな種族でも、美味しいものは美味しいのだ。
「……信じられん」
涙を拭い、正気を取り戻した隊長が、私に向かって膝をついた。
それは最敬礼の姿勢だった。
「人間よ……いや、食の女神よ。無礼を働いたことを詫びる」
「女神だなんて。ただの料理人ですよ」
「いや、これは奇跡だ。我々魔族は、長らく『食』をただの栄養補給としか考えてこなかった。……だが、貴女の料理は、忘れていた魂の熱さを思い出させてくれた」
隊長は立ち上がり、部下たちに号令をかけた。
「総員、武器を収めよ! この方々は我々の敵ではない! ……賓客として、魔王城へ案内する!」
「魔王城へ?」
「ああ。我が主、魔王ゼスト様もまた、食に興味を失い、心を閉ざしておられる。……貴女ならば、あるいは王のお心をも溶かせるかもしれん」
魔王ゼスト。
この極寒の地を統べる王。
彼が食に興味を失っている?
背中のホルンが、身じろぎをした。
懐の黒い種籾が、ドクンと強く脈打った気がした。
「行きましょう、エリス」
レオンハルト様が私の肩に手を置いた。
「魔王に会えば、ホルンのことも、この国のことも分かるはずだ」
「ええ。それに、お腹を空かせた王様がいるなら、放っておけませんから」
こうして、私たちは魔王軍の護衛(という名のラーメン信者たち)に囲まれ、魔王城へと向かうことになった。
灰色の街に、ラーメンの残り香と、微かな希望の熱気が漂っていた。
一方その頃。
魔王城の玉座の間では、一人の男が退屈そうに頬杖をついていた。
「……不味い」
彼――魔王ゼストは、手にした栄養ブロックを床に投げ捨てた。
「何も味がしない。砂を食っているようだ。……ああ、どこかに俺様の舌を満足させるものはいないのか」
彼の瞳は深く沈み、絶望的なほどの虚無を宿していた。
彼が失ったのは、単なる食欲だけではない。
「生きる喜び」そのものだった。
最強の魔王にして、最悪の拒食症患者。
私の次なるお客様は、一筋縄ではいかない予感がしていた。




