第9話 聖女の覚醒と、奇跡の七草リゾット
夜明け前の聖教国。
私たちは、捕縛したイグニス枢機卿を引きずりながら、街の大聖堂へと戻ってきた。
「離せ! 私は枢機卿だぞ! こんな扱いをして、タダで済むと思っているのか!」
イグニスは粘液まみれの法衣を振り乱し、喚き散らしている。
しかし、その声に応える者はいない。
彼を守っていた聖騎士たちは、ガロード団長の指揮のもと、すでに私たちの味方になっていたからだ。
「黙れ、イグニス」
ガロードさんが冷徹な声で言い放つ。
「貴様の悪事は、聖女ルミア様の前ですべて明らかにされる。それまで大人しくしていろ」
「聖女だと? ふん、あの小娘か。どうせ衰弱して死にかけているだろう。証言などできるものか!」
イグニスが下卑た笑いを浮かべる。
確かに、私たちがダンジョンに向かう前、ルミアさんはクリスタル・ゼリーで少し回復したとはいえ、まだベッドから起き上がれる状態ではなかった。
「……大丈夫です」
私はリュックの中身――黄金に輝く『エリクサー・ライス』の種籾を確かめ、強く頷いた。
「このお米があれば、ルミアさんは必ず元気になります。そして、貴方の嘘を暴く『光』になるはずです」
◇
大聖堂の厨房。
以前は枢機卿の美食を作るために使われていた豪華な設備を、私が占拠していた。
「時間がないわ。夜が明けるまでに、ルミアさんに食べさせないと」
私はエプロンを締め、調理台に向かった。
レオンハルト様とヴォルグさんが入り口を見張り、ホルンとイザベラさんが手伝ってくれる。
作る料理は決めていた。
病み上がりの体に優しく、かつ『エリクサー・ライス』の爆発的な生命力を最大限に吸収できる料理。
そして、この国の「清貧」という教えに寄り添いながらも、それを正しい方向へ導くような一皿。
「『七草のリゾット』を作ります」
本来ならお正月明けに食べる日本の『七草粥』だが、ここでは洋風にアレンジする。
具材は、ダンジョンから持ち帰った薬効のある七種類の野菜とハーブだ。
『ヒーリング・ネギ』『クリスタル・スピナッチ(ほうれん草)』『ホワイト・ラディッシュ(大根)』『ダンジョン・セリ』……。
どれも、デトックス効果や滋養強壮に優れた食材ばかり。
「まずは、『エリクサー・ライス』を研ぎます」
水に触れた瞬間、米粒が淡い光を放つ。
普通の米なら白く濁る研ぎ汁が、この米だと金粉を混ぜたように輝いている。
鍋に『ムームー牛』のバターを溶かし、洗った米を透き通るまで炒める。
そこへ、先日作った『コカトリスの出汁』を少しずつ加えていく。
ジュワァァァ……。
香ばしい音と共に、米が出汁を吸い込んでいく。
『エリクサー・ライス』は生命力が強いため、加熱しても煮崩れず、一粒一粒がしっかりと存在感を保っている。
「ここで、刻んだ七草を投入!」
鮮やかな緑色の野菜たちが、黄金色の粥に彩りを添える。
野菜の青い香りが、バターのコクと混ざり合い、爽やかで優しい香りに変わる。
仕上げに、隠し味の『パルメザン・チーズ』を少しと、塩で味を調える。
米の甘みが強いため、調味料は最小限でいい。
「完成よ。……『聖女のための、奇跡の七草リゾット』」
出来上がったリゾットは、器の中で自ら発光していた。
それは魔力的な光ではなく、命そのものが放つ温かい輝きだった。
◇
最上階、『清めの塔』。
ルミアさんの部屋に入ると、彼女は浅い呼吸を繰り返しながら眠っていた。
顔色はまだ白い。長期間の栄養失調は、ゼリー一つでは完治しきれないのだ。
「ルミア様……」
ガロードさんが痛ましげに眉を寄せる。
私はベッドサイドにリゾットを置き、彼女の肩を優しく揺すった。
「ルミアさん、朝ごはんですよ」
彼女の瞼が、ゆっくりと震えて開いた。
アメジストの瞳が、私を捉える。
「……エリス、さん……? いい匂い……」
「ええ。貴女を元気にする、魔法のご飯を作ってきました」
私はスプーンでリゾットをすくい、ふうふうと冷ました。
湯気の中に、七草の爽やかな香りと、お米の甘い香りが漂う。
「さあ、あーん」
ルミアさんは、私を信じて口を開けた。
パクッ。
その瞬間。
「……んッ!」
彼女の喉が鳴った。
噛みしめると、『エリクサー・ライス』から溢れ出した生命のエネルギーが、電流のように全身を駆け巡ったのだ。
野菜のシャキシャキとした食感と、バターのコク、そして出汁の旨味。
それらが一つになり、枯渇していた彼女の細胞一つ一つを叩き起こしていく。
「あつい……体が、熱い……」
「大丈夫、それは生きる力です。もっと食べて」
私は二口、三口と運んだ。
最初は弱々しかった彼女の咀嚼が、次第に力強くなっていく。
スプーンを持つ私の手を、彼女自身の手が掴み、もっと欲しいと求めてくる。
そして、最後の一口を食べ終えた時。
カッッッ!!!!
ルミアさんの体から、目も眩むような純白の光が溢れ出した。
部屋全体が光に包まれる。
「うおっ、なんだ!?」
「ま、眩しい!」
光が収まると、そこには信じられない光景があった。
ベッドの上に、一人の少女が座っていた。
透けるようだった肌は健康的な桜色に染まり、パサついていた金髪は、陽光のように艶やかに輝いている。
瞳には強い意志の光が宿り、全身から溢れ出る魔力は、以前とは比べ物にならないほど澄んでいた。
「……力が、戻ってきたわ。ううん、前よりもずっと強く」
ルミアさんは自分の手を見つめ、そして私を見て、花が咲くような笑顔を見せた。
「ありがとう、エリスさん。……私、もう迷いません」
彼女はベッドから軽やかに降り立った。
その足取りはしっかりとしており、もう誰の支えも必要としていなかった。
「行きましょう。民が待っています」
◇
朝。
大聖堂前の広場には、何千人もの民衆が集まっていた。
「枢機卿が捕まったらしい」「聖騎士団が反乱を起こした」という噂を聞きつけ、不安と混乱が広がっているのだ。
彼らは皆、まだ断食の影響で痩せ細り、疲弊していた。
「静まれ! 静まるのだ!」
大聖堂のバルコニーに引き出されたイグニス枢機卿が、縄で縛られながらも往生際悪く叫んだ。
「これは悪魔の仕業だ! 異国の料理人たちが私を襲い、聖女を人質にとったのだ! 民よ、騙されるな! 聖騎士団は洗脳されている!」
彼の嘘に、民衆がざわめく。
「悪魔だって?」
「やっぱり、あの美味しい粥は罠だったのか……?」
長年の洗脳は根深い。
イグニスの言葉に、動揺が広がり始める。
「そうだ! 奴らを捕らえろ! 神の怒りを恐れぬか!」
イグニスが勝ち誇ったように笑った、その時だった。
「――おやめなさい」
凛とした、鈴を転がすような声が広場に響き渡った。
それは、魔法拡声器を使わずとも、全員の心に直接届くような澄んだ声だった。
バルコニーの扉が開き、ルミアさんが姿を現した。
朝日を背に浴びて輝くその姿は、まさに『聖女』そのものだった。
しかも、以前のような儚げな姿ではない。
生命力に満ち溢れ、圧倒的な存在感を放っている。
「せ、聖女様……?」
「あんなにお元気そうな姿、初めて見たぞ……」
民衆が息を呑む。
イグニスが目を剥いて後ずさった。
「ば、馬鹿な……。貴様、死にかけていたはず……」
「ええ。死にかけていました。貴方が私から『食事』を奪ったせいで」
ルミアさんは静かに、しかし力強く告げた。
「民よ、聞きなさい。……イグニス枢機卿は、嘘をついていました」
彼女は隣に立つ私と、私の手にある『エリクサー・ライス』の稲穂を示した。
「食べることは、罪ではありません。神は私たちに、この大地の実りを与えてくださいました。それを美味しくいただき、命を養うことこそが、神への最大の感謝なのです」
「なっ……何を言うか! それは教義に反する!」
イグニスが喚くが、ルミアさんは彼を一瞥もしなかった。
「見てください。この黄金の稲穂を。これは私たちの国の地下、聖域に眠っていた『神の恵み』です。イグニス枢機卿はこれを独占し、私たちを飢えさせ、自分だけがその恩恵を受けていたのです!」
「う、嘘だ! 証拠はあるのか!」
「証拠なら、貴方のその体よ」
ルミアさんが指差した先。
イグニスの肥え太った腹。それは、ガリガリに痩せ細った民衆とはあまりにも対照的だった。
そして、ガロードさんがバルコニーから、イグニスの隠し倉庫から押収した高級食材の山をばら撒いた。
ハム、ワイン、干し肉、果物。
「あっ……あれは俺たちが収めた税じゃないか!」
「俺たちには食べるなと言っておいて、自分だけ……!」
民衆の目に、疑問が怒りへと変わっていく。
「違う! これは儀式のための……!」
「往生際が悪いぞ、イグニス」
レオンハルト様が剣の柄でイグニスの背中を押し、彼を民衆の前に晒した。
「審判の時だ」
ルミアさんが両手を広げた。
その瞬間、彼女の体から溢れ出した光が、シャワーのように広場全体へと降り注いだ。
「『聖なる癒やし(ホーリー・ヒール)』――!」
それは、彼女が『エリクサー・ライス』を食べて得た、膨大な魔力をすべて還元する奇跡の魔法だった。
光の雨を浴びた民衆たちの顔色が、みるみるうちに戻っていく。
こけていた頬に肉が戻り、濁っていた目に光が宿る。
空腹による苦痛が消え去り、代わりに温かい活力が湧いてくる。
「おお……体が軽い!」
「痛くない……お腹が空いたけど、苦しくない!」
奇跡だ。
数千人の飢餓を一瞬で癒やす、本物の聖女の奇跡。
「これが……食事の力……」
ルミアさんは光の中で微笑んだ。
彼女自身が美味しいご飯で満たされたからこそ、そのエネルギーを他者に分け与えることができたのだ。
「民よ! 今日より『断食』の掟を撤回します! 食べてください! 笑ってください! それが神の望みです!」
「うおおおおおおおおっ!!」
「聖女様万歳! ご飯万歳!」
広場は歓喜の渦に包まれた。
人々は抱き合い、涙を流し、そしてイグニスに向けて軽蔑の視線を送った。
「連れて行け」
ガロードさんの命令で、聖騎士たちがイグニスを拘束した。
もはや誰も彼を擁護する者はいなかった。
彼は「私の米だぁぁぁ!」と浅ましい悲鳴を上げながら、地下牢へと引きずられていった。
◇
騒動が落ち着いた午後。
大聖堂のバルコニーで、私はルミアさんと並んで街を見下ろしていた。
街のあちこちから、炊き出しの煙が上がっている。
ヴォルグさんとホルンが、押収した食材を使って大宴会の準備をしているのだ。
「エリスさん」
「はい」
「私、今まで『聖女』という役割が重荷でした。でも今は……この力を使って、みんなを幸せにしたいと思えます」
ルミアさんは、太陽のように明るい笑顔を私に向けた。
「貴女の料理が、私に『生きる意味』を教えてくれました。……あのリゾットの味、一生忘れません」
「ふふ、いつでも作りますよ。またお店に来てくださいね」
「はい! 必ず行きます!」
そこへ、レオンハルト様がやってきた。
「エリス、そろそろ宴の始まりだそうだ。主役がいないと始まらないぞ」
「あら、主役はルミアさんですよ」
「いや、世界を救った料理人もだ」
彼は私の手を取り、エスコートした。
「行こう。君の作った平和の味を、みんなで噛み締める時間だ」
広場では、私が持ち込んだ『黒しずく』と『エリクサー・ライス』を使った、特大のおにぎりパーティーが始まろうとしていた。
聖騎士も、元異端審問官も、民衆も、みんな一緒になって大きな口を開けている。
「さあ、私も腕を振るわなきゃ!」
私はエプロンを締め直した。
聖教国の長い夜が明け、今、最高に美味しい朝が始まったのだ。
しかし、その宴の片隅で。
ホルンだけが、楽しげな喧騒から離れ、北の空――魔族領の方角をじっと見つめていた。
「……ホルン?」
「……うん、なんでもないよ、エリス!」
彼は明るく振り返ったが、その手には、ダンジョンの奥で見つけた『黒く焦げた種籾』が握られていた。
それは、『エリクサー・ライス』とは似て非なる、禍々しい気配を放っていた。
平和な宴の裏で、次なる冒険への伏線は、すでに撒かれていたのだった。




