第2話 清貧という名の飢餓
「我々はガレリア帝国および王国からの特使だ。道を空けろ」
レオンハルト様が低い声で告げると、聖教国の騎士たちは一瞬怯んだように後ずさった。
大陸最強と謳われる「黒狼」の覇気は、国境を越えても健在だ。
しかし、彼らの中心にいた一人の男だけは、鋭い眼光でレオンハルト様を睨み返してきた。
「特使だと? そのような不浄な匂いを纏った者たちがか」
男は、白銀の鎧に赤いマントを羽織っていた。
整った顔立ちだが、頬はこけ、目の下には濃い隈がある。
彼もまた、飢えているのだ。
「私は聖騎士団長のガロード。この街の治安と、枢機卿猊下の命による『清めの儀式』を守る者だ」
ガロードと名乗った騎士は、痩せ細った腕で長剣の柄を握りしめた。
「現在、この街は『大断食』の最中にある。食という俗世の欲を断ち、魂を浄化しているのだ。他国の者が土足で踏み入り、食料などという穢れを持ち込むことは許さん」
「穢れ、だと?」
レオンハルト様の眉がピクリと跳ねる。
その背後で、ヴォルグさんが巨大な包丁を肩に担ぎ直した。
「おいおい、騎士様よ。後ろを見てみろ。あんたが守ってる民衆が、今にも倒れそうじゃねぇか」
ヴォルグさんが顎で示した先。
広場の隅では、痩せこけた子供たちが力なく座り込み、母親らしき女性が祈るように手を合わせている。
彼らの目は虚ろで、生きる気力すら失われかけている。
「あれが浄化された姿か? 俺には、ただの餓死寸前に見えるがな」
「黙れ!」
ガロードが叫んだ。
「これは試練なのだ! 肉体の苦痛を乗り越えた先に、真の救済がある! それを邪魔する悪魔の誘惑には屈しない!」
彼の瞳には、狂信に近い光が宿っていた。
話が通じない。
彼らは本気で、飢えることが正しいと信じ込まされているのだ。
「……行くぞ、エリス」
レオンハルト様が私の肩を引き寄せた。
「ここで剣を抜くのは簡単だが、それでは彼らを『殉教者』にしてしまうだけだ」
「ええ……そうですね」
私は広場の中央、燃え盛る炎の中で灰になっていく食材たちを睨みつけた。
カボチャが、小麦が、干し肉が。
黒い煙となって空へ消えていく。
(許せない)
料理人として、これほどの冒涜はない。
でも、力ずくで止めれば、私たちはただの侵略者になってしまう。
「場所を変えましょう。……作戦変更です」
私たちは騎士たちの包囲を押し返すように堂々と歩き、広場の端、風上にあたる場所に陣取った。
◇
「エリス、どうするつもりだ?」
荷馬車から調理器具を下ろしながら、ヴォルグさんが尋ねる。
ホルンは怯えて私のエプロンにしがみついている。
「正面突破がダメなら、搦め手を使います」
私は大鍋を取り出し、簡易かまどにセットした。
「彼らは『食べることは罪』だと教え込まれています。言葉で説得しても無駄です。だから……」
私はリュックから、乾燥させた『コカトリス』の骨と、干し野菜を取り出した。
コカトリスは猛毒を持つ魔物だが、適切に処理された骨から取れる出汁は、黄金色に輝き、滋養強壮に劇的な効果がある。
「本能に訴えかけます。生物として抗えない、『食欲』という本能に」
「なるほど、匂い攻めか」
レオンハルト様がニヤリと笑った。
彼は手慣れた様子で薪を割り、火を起こす。
調理開始だ。
まずは、鍋にたっぷりの水とコカトリスの骨、そして臭み消しの『サン・ジンジャー(太陽生姜)』を入れて強火にかける。
この生姜は、食べた者の体を芯から温める効果がある。
グツグツ……。
湯気と共に、濃厚な鶏ガラの香りが立ち上り始めた。
まだ味付けもしていないのに、その香りは強烈だ。
断食で感覚が研ぎ澄まされている彼らにとって、この匂いは暴力に近いだろう。
「うっ……」
遠巻きに監視していた聖騎士の一人が、喉をゴクリと鳴らしたのが見えた。
「まだまだよ」
私は鍋から骨を取り出し、そこへ洗った『パールライス』を投入する。
さらに、細かく刻んだ『冬人参』と『薬膳大根』を入れる。
消化に良く、弱った胃腸を優しく動かすための食材だ。
コトコト、コトコト。
お米がスープを吸い、ふっくらと膨らんでいく。
鍋の中は黄金色のスープとお米が混ざり合い、とろりとした粥へと変化していく。
仕上げに、味の決め手を入れる。
瓶に入った『岩塩』と、ほんの少しの『黒しずく(醤油)』。
ジュワッ……。
醤油が熱い粥に垂らされた瞬間、焦げたような香ばしい香りが爆発的に広がった。
「な、なんだこの匂いは!」
「たまらない……腹が、勝手に……」
広場にいた民衆たちが、ふらふらと立ち上がった。
彼らの視線は、虚ろな祈りから、私たちの鍋へと釘付けになっている。
「仕上げです!」
私は最後に、溶き卵を回し入れ、刻んだ『ヒーリング・ネギ』を散らした。
鮮やかな黄色と緑が、黄金色の粥に彩りを添える。
『特製・コカトリス出汁の回復薬膳粥』の完成だ。
「さあ、みなさん! 薬ですよ!」
私はお玉で鍋を叩き、声を張り上げた。
「これは食事ではありません! 体を温める『薬』です! 断食の辛さを和らげるためのスープですから、罪にはなりませんよ!」
詭弁だ。
でも、極限状態の人には、食べるための「言い訳」が必要なのだ。
「く、薬……?」
「そうだ、薬なら……神もお許しになるはず……」
一人の男性が、よろめきながら近づいてきた。
その後ろに、子供の手を引いた母親が続く。
「待て! 近づくな!」
ガロード団長が立ちはだかった。
彼は必死の形相で叫んだ。
「それは悪魔の罠だ! その匂いに惑わされるな! 一口でも食べれば、お前たちの修行は無に帰すぞ!」
しかし、彼の声には以前ほどの力がない。
なぜなら、彼自身の腹が、盛大に「グゥゥゥゥ」と鳴り響いてしまったからだ。
「団長、でも……子供が……」
部下の騎士も、槍を持つ手が震えている。
目の前には、湯気を立てる黄金色の粥。
鼻腔をくすぐる鶏出汁と醤油の香り。
それは、死にかけていた彼らの生存本能を、強烈に揺さぶっていた。
その時。
一人の少女が、ガロードの横をすり抜けて走り出した。
「もういや! おなかすいたの!」
「あっ、こら!」
少女は私の前まで来ると、転ぶようにして鍋を見上げた。
ガリガリに痩せ、目は窪んでいる。
私はすぐにお椀に粥をよそい、ふうふうと冷ましてから差し出した。
「熱いから気をつけてね」
「……うん!」
少女は震える手でお椀を受け取り、スプーンですくって口に入れた。
パクッ。
「……!」
少女の目が大きく見開かれた。
とろりとしたお米が、舌の上で優しく解ける。
コカトリスの濃厚な旨味が、乾いた体に染み渡っていく。
生姜の温かさが胃袋から広がり、指先まで血が巡るのが分かる。
「おいしい……っ! ママ、これ、すごくおいしいよ!」
少女の頬に、みるみるうちに赤みが戻った。
その笑顔は、どんな高潔な説教よりも雄弁だった。
「ああ……」
それを見た母親が、泣き崩れながら駆け寄ってきた。
もう、誰も止められなかった。
「私にもください!」
「俺にもだ! もう限界だ!」
「薬だ、これは薬なんだ!」
民衆が雪崩を打って押し寄せた。
ヴォルグさんとホルンが、手際よくお椀を配っていく。
「並んで! みんなの分はあるから!」
「慌てて食べると喉に詰まるぞ! ゆっくり噛むんだ!」
広場は一瞬にして、巨大な野外食堂へと変わった。
あちこちから「美味い」「生き返る」という声と、啜り泣く音が聞こえる。
灰色の絶望に包まれていた街に、料理の湯気と共に「生気」が戻っていく。
「……馬鹿な」
ガロード団長は、呆然と立ち尽くしていた。
彼が守ろうとしていた秩序が、たった一杯の粥によって崩壊したのだ。
「これが……穢れだと言うのか……?」
彼の目の前で、粥を食べた老人が、杖なしで立ち上がり、空に向かって感謝の祈りを捧げていた。
苦痛に耐える顔ではなく、満ち足りた笑顔で。
私はお椀を一つ持ち、ガロードの前に歩み寄った。
「団長さん」
「……くっ」
「貴方も食べてください。民を守る騎士が倒れてしまっては、誰も守れませんよ」
私は粥を突き出した。
香りが、彼の鼻先をくすぐる。
拒絶しようとする理性と、渇望する身体。
「私は……枢機卿猊下の命を……」
「猊下の命と、貴方の命。どちらが大切ですか?」
レオンハルト様が横から口を挟んだ。
「それに、部下たちを見てみろ」
ガロードが振り返ると、部下の聖騎士たちも、剣を置いて民衆と一緒に粥を啜っていた。
「うめぇ」「体が熱い」と涙を流しながら。
「……負けた、のか」
ガロードは膝をつき、震える手で私からお椀を受け取った。
そして、一口啜った。
「……ッ」
彼もまた、涙を流した。
美味い。
ただひたすらに、美味い。
これが罪なわけがない。これは「命」そのものだ。
「……温かいな」
彼が絞り出すように言った言葉は、敗北宣言であり、人間への回帰だった。
こうして、私たちは「匂い」という武器で、最初の砦を突破した。
街の人々は食事を取り戻し、私たちを受け入れてくれた。
だが、これで終わりではない。
広場の奥、街一番の高台にある大聖堂のバルコニーから、冷たい視線が注がれていることに、私は気づいていた。
「……おのれ、不浄な料理人め」
イグニス枢機卿。
赤い法衣を纏ったその男は、手にしたワイングラスを握りつぶさんばかりに震わせていた。
その背後には、山のように積まれた果物や肉――民から奪った食料の残骸が見え隠れしている。
「聖女ルミアまで汚染されてはたまらん。……『聖域』を閉ざせ」
彼の命令により、街の奥にあるダンジョンへの道が、重厚な扉によって閉ざされようとしていた。
そこには、ホルンの仲間の手がかりと、ルミアを救うための食材が眠っているはずなのに。
戦いは、まだ始まったばかりだ。




