第1話 聖教国からのSOS
王都の朝は早い。
特に、レストラン『騎士の休息』の朝は、香ばしい匂いと共に始まる。
「おはよう、エリス。……今日も良い匂いだ」
厨房の勝手口から顔を出したのは、私の婚約者であり、国最強の騎士団長レオンハルト様だ。
彼は公務前の日課として、こうして朝食を食べに――いや、私の顔を見に来てくれる。
「おはようございます、レオン。ちょうど焼き上がったところですよ」
私はオーブンから熱々の鉄鍋を取り出した。
今日の日替わりモーニングは、『ゴールデン・コーンの焼きリゾット』だ。
『ムームー牛』の濃厚なミルクとバターで炊き上げたリゾットの上に、甘みの強い『ゴールデン・コーン』をたっぷりと乗せ、チーズを散らして焼き上げたもの。
表面のチーズが狐色に焦げ、パチパチと音を立てている。
「熱いので気をつけてくださいね」
カウンターに置くと、レオンは嬉しそうにスプーンを手に取った。
「いただくよ」
サクッ、トロッ。
香ばしい焦げ目を崩すと、中から真っ白なミルクのリゾットが湯気と共に現れる。
彼はそれを一口食べると、ほう、と幸せそうな息を吐いた。
「……美味い。コーンの甘みが、朝の体に優しく染み渡るようだ」
「よかった。これなら、今日の会議も頑張れますね?」
「ああ。君の料理がある限り、どんな難題も怖くはないさ」
彼は微笑んで、私の手元にあるコーヒー(カッファ)を受け取った。
平和だ。
帝国のヴァレリウス殿下との料理対決、そして地下水路での異端審問官との戦いから数ヶ月。
店はかつてないほど繁盛し、元ライバルのイザベラさんも、今では頼もしいスタッフとして働いてくれている。
リスの獣人族の少年、ホルンもすっかり元気になり、看板息子として人気者だ。
この穏やかな日々が、ずっと続けばいい。
そう思っていた。
カランカラン。
開店前のドアベルが、急かすように鳴り響いた。
「……店主のエリス殿はおられるか!」
入ってきたのは、王宮の伝令官だった。
その表情は焦燥に満ちており、手には封蝋のされた手紙が握られている。
「私ですが……どうなさいました?」
「緊急の連絡です! ガレリア帝国のヴァレリウス殿下から、至急の親書が届いております。それと、我が国の国境警備隊からも!」
「ヴァレリウス殿下から?」
レオンがスプーンを置き、騎士団長の顔に戻った。
嫌な予感がする。あの美食家の皇子が、わざわざ急ぎの手紙を送ってくるなんて、ただ事ではない。
私は手紙を受け取り、封を切った。
そこには、流麗な文字でこう書かれていた。
『親愛なるエリスへ。
前置きは省く。すぐに東の国境へ向かえ。
隣国・聖教国の辺境都市で、奇妙な病が流行している。
民が次々と衰弱し、倒れているのだが……治療に当たっていた聖教国の「聖女」ルミアまでもが、病に伏したらしい。
これはただの疫病ではない。「食」に関わる呪いだ。
私の舌を満足させたお前なら、何とかできるかもしれん。
……急げ。美味い飯が食えなくなる世界など、私は御免だからな』
「食に関わる呪い……?」
私が呟くと、伝令官が補足した。
「実は、国境警備隊からの報告も同様です。聖教国側の街から、ガリガリに痩せ細った難民が逃げてきているとか。彼らは口を揃えて言うそうです。『食べることは罪だ』と」
「食べることは、罪?」
その言葉に、私は背筋が寒くなった。
食事は命の源だ。それを罪だなんて。
「……ホルン」
厨房の奥で野菜を洗っていたホルンが、ビクリと肩を震わせた。
彼は鼻をひくつかせ、怯えたようにこちらを見ている。
「どうしたの? ホルン」
「……匂いがする」
ホルンが私のそばに駆け寄り、ヴァレリウス殿下の手紙を嗅いだ。
そして、青ざめた顔で言った。
「この手紙についた匂い……ボクの村を焼いた人たちと同じ匂いがする。それと……ボクの仲間たちの匂いも」
「仲間の?」
「うん。地下水路で助けられなかった、他の獣人たちの匂いが混じってる。……エリス、あそこで何か酷いことが起きてるよ」
ホルンの故郷を奪った聖教国。
そこで起きている「食べない病」。
そして、聖女のダウン。
点と点が繋がっていく。
これは病気じゃない。人為的な、あるいはもっと悪意のある何かだ。
「……行かなきゃ」
私はエプロンの紐を強く握りしめた。
料理人として、「食べられない」苦しみを放ってはおけない。
それに、ホルンの仲間がいるかもしれないなら、尚更だ。
「エリス」
レオンが立ち上がり、私の肩を抱いた。
「私も行こう。聖教国との国境付近は治安が悪い。君一人を行かせるわけにはいかない」
「レオン……でも、お仕事は?」
「王都の守りは副団長に任せる。それに、これは『国境の危機管理』だ。騎士団長が出向く名目は立つ」
頼もしい言葉に、私は頷いた。
「俺も行くぜ」
厨房の奥から、ヴォルグさんが巨大な包丁を肩に担いで現れた。
「ヴォルグさん? でも、王宮の料理長が……」
「へっ、陛下には『未知の食材の視察』ってことで休暇をもらってきた。聖教国には手つかずのダンジョンがあるって噂だからな。それに……」
彼はニヤリと笑い、ホルンの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「うちの可愛い店員が震えてるんだ。落とし前つけに行かねぇとな」
「ヴォルグおじちゃん……」
ホルンが涙ぐむ。
「私も行きます!」
「ボクも!」
イザベラさんとホルンも手を挙げた。
でも、私は首を横に振った。
「イザベラさんは、ここでお店を守ってください。私たちがいない間、常連さんたちのお腹を満たせるのは貴女だけです」
「……エリス師匠」
イザベラさんは悔しそうに唇を噛んだが、すぐに真剣な眼差しで頷いた。
「分かりましたわ。この店は『騎士の休息』。皆様が帰ってくる場所ですもの。私が責任を持って守り抜いてみせます」
彼女なら大丈夫だ。
今の彼女の料理には、もう温かい心がある。
「ホルンは……一緒に行こうか」
「えっ、いいの? ボク、怖いけど……でも、行きたい!」
「うん。鼻の利く君が必要なの。それに、もし仲間がいるなら、君の声が一番届くはずだから」
こうして、遠征メンバーが決まった。
私、レオン、ヴォルグさん、そしてホルン。
少数精鋭の『出張料理部隊』だ。
「準備をしましょう。向こうで何が食べられるか分からないから、保存食と調味料をたっぷりと」
「ああ。私は装備を整えてくる」
閉店の札を掲げた店内で、私たちは慌ただしく旅支度を始めた。
リュックには、乾燥させた『妖精キノコ』や、粉末にした『コンソメ』、そして私の宝物である『黒しずく(醤油)』の瓶を詰め込む。
聖教国は「清貧」を教義とする国だ。
美食を否定する彼らに、私の料理が通用するかどうかは分からない。
でも。
「食べることは罪なんかじゃない。……生きることの喜びよ」
私は心の中で繰り返した。
痩せ細った人々に、笑顔を取り戻す。
そして、歪んだ教義の裏に隠された真実を暴く。
新たな戦場は、聖なる祈りと飢餓が渦巻く国境の街。
私の武器はフライパン。弾薬は食材。
いざ、出陣の時だ。
数日後。
私たちは馬車を飛ばし、東の国境へと到着した。
そこで見た光景は、想像を絶するものだった。
街を覆う重苦しい空気。
通りを行き交う人々は皆、骸骨のように痩せ細り、うつろな目をしている。
そして、街の中央広場には、巨大な祭壇が築かれ、一人の男が声を張り上げていた。
「断食こそが救済である! 食欲という欲を捨て、清らかな体で神の声を聴くのだ!」
赤い法衣を纏ったその男――イグニス枢機卿の足元には、山積みになった食材が「不浄なもの」として焼かれようとしていた。
「……なんてことを」
野菜が、肉が、パンが。
誰かの命を繋ぐはずのものが、灰にされようとしている。
私は怒りで震えた。
「おい、そこの旅人たち!」
私たちの馬車を見咎めた聖騎士たちが、槍を向けて近づいてきた。
「この街は現在、枢機卿猊下の命により『清めの期間』に入っている。不浄な他国の者は立ち去れ!」
「不浄ですって?」
私が馬車から降りようとすると、レオンが手で制し、先に地面に降り立った。
黒いマントを翻し、鋭い眼光で騎士たちを見据える。
「我々はガレリア帝国および王国からの特使だ。……道を空けろ」
一触即発の空気。
聖教国編の幕開けは、歓迎とは程遠い、敵意に満ちたものだった。




