第8話 怯える獣人と、約束のビーフシチュー
雨は、翌日になっても止む気配がなかった。
王都の石畳を叩く雨音が、店内の静寂を際立たせている。
『騎士の休息』のランチタイム前。
いつもなら仕込みの活気で溢れている厨房も、今日はどこか重苦しい空気に包まれていた。
「……うう……」
カウンターの隅で、ホルンが膝を抱えて震えている。
昨日の『異端審問官』の訪問以来、彼は怯えて一歩も外に出ようとしない。
あのいつも元気に揺れていた茶色の尻尾は、力なく垂れ下がっていた。
「ホルン。……何か温かいものを飲みますか?」
イザベラが、不器用ながらも心配そうにホットミルクを差し出す。
かつては「家畜」と見下していた彼女だが、同じ厨房で働く仲間として、小さな獣人のことを気にかけているようだ。
「ありがとう……イザベラお姉ちゃん」
ホルンはカップを受け取ったが、一口啜るのがやっとのようだった。
私はエプロンを締め、調理台に向かった。
こんな時こそ、料理人の出番だ。
不安で冷え切った心を溶かすには、とびきり温かくて、安心できる料理が必要だ。
「よし。今日は『特製ビーフシチュー』にするわ」
私は冷蔵庫から、赤身の肉塊を取り出した。
『ロックカウ』のスネ肉だ。
筋肉質で硬いが、煮込めば驚くほど柔らかくなる部位。
今の私たちに必要なのは、この「じっくり煮込む時間」かもしれない。
肉を大きめの角切りにし、塩胡椒を振る。
フライパンで表面を焼き付け、肉の旨味を閉じ込める。
ジューッという音が、沈んだ空気を少しだけ払拭する。
大鍋に、焼いた肉と、炒めたタマネギ、ニンジン、セロリを投入する。
そこへ注ぐのは、たっぷりの赤ワインと、少しの『黒しずく(醤油)』。
そして、店の命であるデミグラスソース。
「美味しくなあれ、美味しくなあれ」
私は呪文のように唱えながら、アクを丁寧にすくう。
弱火でコトコト。
時間をかければかけるほど、肉の繊維はほどけ、野菜の甘みがソースに溶け込んでいく。
一時間、二時間。
厨房の中に、濃厚で芳醇な香りが充満し始めた。
ワインの酸味が飛び、まろやかなコクへと変わる香り。
それは、誰もが子供の頃に憧れた、ご馳走の匂いだ。
「……いい匂い」
ホルンが鼻をひくつかせた。
私は鍋から小皿に少し取り分け、ふうふうと冷ましてから彼の前に置いた。
「味見係をお願いできる? ホルンの鼻は世界一だもの」
ホルンはおずおずとスプーンを口に入れた。
「……!」
彼の目がパッと見開かれた。
ホロホロに崩れる牛肉。
噛む必要なんてない。舌の上で繊維が解け、濃厚なソースと共に喉を通り過ぎていく。
野菜の甘みが優しく体を温め、お腹の底から力が湧いてくるようだ。
「……美味しい。すごく、温かいよ」
「よかった。これなら、元気が出る?」
私が頭を撫でると、ホルンは涙ぐみながら、ぽつりと言った。
「……エリス。ボクね、みんなに隠してることがあるんだ」
厨房の手が止まった。
ヴォルグさんも、イザベラも、そして非番で見回りに来ていたレオンハルト様も、彼を見つめる。
「ボクの村はね、ずっと昔から『世界樹』の若木を守る一族だったんだ」
ホルンが語り始めたのは、衝撃的な事実だった。
「ボクたちは、木の実や樹液を食べて暮らしていたから、体に魔力が溜まりやすいんだって。だから、鼻も利くし、美味しい食材を見つけるのも得意なんだけど……」
彼は震える手で自分の腕を抱いた。
「聖教国の人たちは、ボクたちのことを『不浄な獣』って呼ぶんだ。でも、同時に『神の食材』だとも思ってる」
「……食材、だと?」
レオンハルト様の声が低く響く。
「うん。ボクたちの肉を食べると、不老不死になれるとか、神に近づけるとか……そんな迷信があるんだ。だから、村のみんなは捕まって、連れて行かれて……ボクだけが逃げ出したんだ」
あまりに残酷な話に、私は言葉を失った。
異端審問官が探していた『神の食材』。
それは、特別な野菜や魚のことではなかった。
ホルン自身のことだったのだ。
「そんな……なんて野蛮な」
イザベラが口元を押さえて青ざめる。
ヴォルグさんは、無言で包丁をまな板に突き立てた。怒りで手が震えている。
「怖かったよね。……話してくれてありがとう」
私はホルンを抱きしめた。
小さな体は、まだ小刻みに震えている。
こんな小さな子が、食われる恐怖に怯えて生きてきたなんて。
「許さん」
レオンハルト様が立ち上がった。
その全身から、かつてないほどの激しい怒気が立ち上っている。
「料理とは、人を幸せにするものだ。命を奪い、貪るための口実にするなど……断じて許せん!」
彼はホルンの前に膝をつき、その小さな肩に手を置いた。
「ホルン。君は食材なんかじゃない。この店の立派な店員であり、私たちの家族だ」
「……レオンお兄ちゃん……」
「私が守る。近衛騎士団の名にかけて、指一本触れさせはしない」
その言葉に、ホルンの目から大粒の涙が溢れ出した。
彼はレオンハルト様の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。
カランカラン。
その時、ドアベルが鳴った。
全員が身構える。
またあの神官か?
「……なんだ、ずいぶんと湿っぽいな。雨のせいか?」
入ってきたのは、灰色のローブではなく、上質なマントを羽織った銀髪の青年だった。
ガレリア帝国のヴァレリウス殿下だ。
彼は濡れたマントを従者に渡すと、いつもの傲慢な調子で席についた。
「殿下? なぜここに」
「なんだその顔は。客が来て悪いか? ……と言いたいところだが、今日は飯を食いに来たわけではない」
ヴァレリウス殿下は、真剣な眼差しで私とレオンハルト様を見た。
「情報を持ってきた。……聖教国の動きについてだ」
「情報?」
「ああ。我が帝国の諜報部からの報告だ。聖教国の『異端審問局』が、王都の地下水路に拠点を築いているらしい」
地下水路。王都の地下に広がる、複雑に入り組んだ迷宮だ。
そこに潜伏しているというのか。
「奴らの狙いは、来週行われる『収穫祭』だ。祭りの喧騒に紛れて、ターゲットを拉致し、本国へ移送する計画らしい」
ヴァレリウス殿下は、チラリとホルンを見た。
「ターゲットが誰かは、言わなくても分かるな?」
「……なぜ、それを私たちに?」
レオンハルト様が問うと、殿下はフンと鼻を鳴らした。
「勘違いするな。私は聖教国が嫌いなのだ。奴らは『神への供物』と称して、食材を粗末にする。美味いものを食う資格のない連中だ」
彼はテーブルを指先で叩いた。
「それに、エリス。お前は私の『お気に入り』だ。私の許可なく、大事な店員を奪われるのは癪に障る」
なんて自分勝手で、頼もしい理屈だろう。
敵だったはずの帝国皇子が、今は強力な味方に見える。
「ありがとうございます、殿下」
「礼は、この事態が片付いてから聞こう。……それで? どうするつもりだ、騎士団長」
ヴァレリウス殿下の問いかけに、レオンハルト様は剣の柄を握りしめ、静かに答えた。
「迎え撃つ。……いや、こちらから仕掛ける」
「なに?」
「収穫祭まで待っていては、ホルンはずっと恐怖に震えたままだ。奴らが地下にいるなら、こちらから乗り込んで叩き潰す」
レオンハルト様は私を見た。
「エリス。危険な賭けになるかもしれない。だが、この街の安全と、ホルンの未来を守るには、これしかない」
「……はい」
私は頷いた。
守られるだけじゃない。私たちは戦う料理人だ。
「私も行きます。地下水路での戦いなら、食事の補給が必要でしょう?」
「なっ、君まで来るのか!?」
「当たり前です。ホルンは私の可愛い弟分ですから」
それに、と私は付け加えた。
「聖教国の人たちにも、教えてあげなくちゃいけません。本当の『神の食材』なんてない。あるのは、愛情を込めて作った『神のご飯』だけだってことを」
私の言葉に、ヴァレリウス殿下がニヤリと笑った。
「面白い。ならば私も手を貸そう。帝国の魔導師団を数名、貸してやってもいいぞ」
「俺も行くぜ! 元冒険者の血が騒ぐ!」
ヴォルグさんが包丁を構え、イザベラも震えながらも立ち上がった。
「わ、私も……足手まといにはなりませんわ!」
チーム『騎士の休息』、結成だ。
狙うは地下水路。
美味しいビーフシチューでお腹を満たしたら、いざ、カチコミの時間だ。
「よし、みんな! まずは腹ごしらえよ! シチューのおかわり、たくさんあるから!」
「「「いただきます!!」」」
雨音をかき消すような元気な声が、店内に響き渡った。
鍋の中のシチューは、戦いに向かう戦士たちの体を、芯から温めてくれていた。




