第7話 元宮廷料理人の受難と、懐かしのナポリタン
「……キーッ! なんですの、この芋は! 私のナイフを受け付けませんわ!」
朝の厨房に、ヒステリックな叫び声が響いた。
声の主は、元帝国宮廷料理長、現在は『騎士の休息』の見習い店員となったイザベラだ。
彼女は今、山積みの『ロックポテト』と格闘していた。
しかし、彼女の足元には、剥かれた皮よりも分厚い「身」の部分が無惨に転がっている。
「あらあら、イザベラさん。それじゃあ食べる部分がなくなっちゃいますよ」
「うっ……! だって、この芋、岩みたいにゴツゴツしていて……宮廷の野菜はもっと形が整っていましたもの!」
イザベラが涙目で抗議する。
彼女は天才的な包丁捌きを持っているはずだが、それはあくまで「整えられた高級食材」を美しくカットするための技術。
泥だらけで不揃いな庶民の野菜を、無駄なく扱う技術は持っていなかったのだ。
「食材は命です。形が悪くても、味は最高なんですよ」
私は彼女の手からナイフと芋を受け取った。
デコボコした表面に刃を沿わせ、薄く、長く皮を剥いていく。
くるくると螺旋状に剥かれた皮が途切れることなく伸びていく。
「……っ」
イザベラが悔しそうに唇を噛んだ。
技術の差ではない。「食材への愛」の差だということを、彼女も薄々気づいているのだろう。
「はい、お手本はここまで。今日のランチの仕込み、終わらせてくださいね」
「……はい、師匠」
彼女は不服そうに、しかし以前のような反抗的な態度は見せず、再び芋と向き合い始めた。
その横顔は、まだプライドが高そうだが、どこか憑き物が落ちたように真剣だった。
「ふふ、頑張れ後輩!」
先輩風を吹かせたホルンが、厨房の隅からニシシと笑った。
◇
ランチタイム。
今日の王都はあいにくの雨模様だったが、店内はいつものように賑わっていた。
「いらっしゃいませ!」
イザベラがぎこちない笑顔で接客をしている。
まだ「いらっしゃいませ」と言うたびに顔を赤くしているが、常連の騎士たちからは「お、新入りの美人さんだ」「頑張れよ」と温かい声をかけられている。
「エリス、オーダー入ったぞ。『鉄板ナポリタン』三つだ!」
「はい、ただいま!」
ヴォルグさんの声に合わせて、私はフライパンを握った。
今日のランチメニューは、雨の日の憂鬱を吹き飛ばすような、濃い味付けのパスタだ。
使うのは、『ロング・ウィート』という小麦から作った太めの麺。
これを一度茹でてから、水で締めて一晩寝かせてある。
こうすることで、麺がもちもちとした食感になり、ソースとよく絡むのだ。
具材はシンプルに。
薄切りにしたタマネギと、『フォレスト・ピーマン』、そして『リトル・ボア』の肉で作った赤いソーセージ。
フライパンに油を引き、具材を炒める。
火が通ったら、麺を投入。
そして、味の決め手となるのは――。
「ケチャップ、いきます!」
『サンライズ・トマト』をじっくり煮詰めて作った自家製ケチャップを、たっぷりと回し入れる。
ジュワァアアアッ……!!
甘酸っぱい香りが爆発的に広がる。
ここで重要なのは、ケチャップを入れてからもしっかりと炒めること。
酸味を飛ばし、トマトの甘みと旨味を凝縮させるのだ。
「仕上げに、バターと『ムームー乳』を少々!」
これでまろやかさとコクが出る。
熱々に熱した鉄板の上に、溶き卵を薄く流し入れ、その上にパスタを山盛りにする。
ジュウウウウゥッ……!
卵が半熟に焼け、パスタの熱気と混ざり合う。
最後に粉チーズとパセリを振れば完成だ。
「イザベラさん、配膳お願い!」
「は、はい!」
イザベラが鉄板を受け取る。
その瞬間、彼女は鼻をひくつかせた。
「……なんなのです、このジャンクな香りは」
彼女は小声で呟いた。
宮廷料理では、ケチャップのような調味料は「子供の食べ物」として敬遠される。
それをパスタに絡め、あろうことか鉄板に乗せるなんて、彼女の美学には反するのだろう。
だが、客席に運んだ瞬間。
「うおお! これこれ! この焦げた匂いがたまらねぇ!」
「卵を絡めて食うのが最高なんだよな!」
騎士たちが歓声を上げ、フォークで豪快にパスタを巻き取った。
口の周りをオレンジ色に染めながら、幸せそうに頬張る。
「……信じられませんわ」
厨房に戻ってきたイザベラは、呆然としていた。
「あんな……洗練されていない料理を、どうしてみんなあんなに笑顔で……」
「食べてみますか? まかないの分、ありますよ」
私は小皿に取り分けたナポリタンを差し出した。
イザベラは躊躇していたが、意を決してフォークを刺した。
もちもちの太麺に、ケチャップがねっとりと絡んでいる。
パクッ。
「……!」
彼女の目が丸くなった。
甘い。酸っぱい。そして、どこか懐かしい。
高級な味ではない。複雑な技法も使われていない。
けれど、口に入れた瞬間、心が「美味しい」と反応してしまう。
ソーセージの脂の旨味、炒めたケチャップの香ばしさ、そして半熟卵の優しさ。
「……悔しいですけれど」
彼女はフォークを置かず、二口目を口に運んだ。
「……美味しいですわ。庶民の味というのも、悪くありませんわね」
彼女が少しだけ素直な感想を漏らした、その時だった。
カランカラン……。
雨音に混じって、ドアベルが鳴った。
ランチタイムのピークは過ぎている。
遅めのお客様だろうか?
「いらっしゃいませー……」
ホルンが元気よく出迎えようとして、その場に凍りついた。
「……ホルン?」
異変に気づいた私が顔を上げると、入り口には一人の人物が立っていた。
雨に濡れた灰色のローブ。
フードを深く被り、顔は見えない。
だが、その胸元には、赤色の刺繍で『蛇と十字』の紋章が刻まれていた。
大陸東方を支配する宗教国家、『聖教国』の神官服だ。
「……良い匂いですね」
フードの奥から、穏やかだが抑揚のない声が聞こえた。
男性の声だ。
「雨宿りを兼ねて、食事をさせて頂けますか?」
「あ、はい……どうぞ」
私はとっさに笑顔を作り、席へ案内した。
聖教国の人間が、こんな王都の路地裏に?
ホルンを見ると、彼はカウンターの下に隠れてガタガタと震えていた。
彼の村を焼いたのは、確か……。
(落ち着いて。ただのお客様かもしれない)
私は厨房に戻り、ヴォルグさんに目配せをした。
彼も不穏な気配を感じ取ったのか、包丁を置く位置を少し手前に変え、いつでも動ける体勢をとった。
「ご注文は、何になさいますか?」
私が水を置くと、男はフードを少しだけ上げた。
現れたのは、糸のように細い目をした、青白い肌の青年だった。
優男に見えるが、纏っている空気が異質だ。
まるで、そこに誰もいないような、希薄な存在感。
「そうですね……。この店で一番、生命力を感じる料理をお願いします」
「……生命力、ですか?」
「ええ。私は『神の恵み』を探して旅をしておりましてね。元気の良い食材には目がないのです」
彼の細い目が、スッと厨房の奥――ホルンが隠れているあたりに向けられた気がした。
私の背筋に冷たいものが走る。
「……分かりました。当店の名物『鉄板ナポリタン』をお持ちします」
「楽しみにしていますよ」
私は厨房に戻り、急いでナポリタンを作った。
手が少し震える。
あの男、何かがおかしい。
料理人としての勘が、「危険だ」と警鐘を鳴らしている。
(レオンは……今日は王宮での会議でいない)
自分たちで何とかするしかない。
私は出来上がったナポリタンを、イザベラではなく自分で運んだ。
「お待たせいたしました」
男の前に鉄板を置く。
ジュウジュウという音が、雨音にかき消されそうになるほど、店内は静まり返っていた。
「ほう……これはまた、赤いですね」
男はフォークを手に取り、パスタを一口食べた。
表情は変わらない。
「……ふむ。トマトの酸味、豚肉の脂、小麦の風味。悪くありません」
彼は淡々と食べ進め、あっという間に完食した。
そして、ナプキンで口を拭うと、不意に私に問いかけた。
「ところで店主さん。この店には、変わった従業員はいませんか?」
「……と、仰いますと?」
「例えば……獣の耳を持った、可愛らしい子供とか」
心臓が跳ねた。
やっぱり、ホルンを狙っている。
「……いいえ。当店は人手不足でして、私と料理長、そして見習いの女性だけです」
私は精一杯の作り笑いで答えた。
嘘を見抜かれないように、必死で平然を装う。
男はしばらく私をじっと見つめていたが、やがて「そうですか」と微笑んだ。
「私の勘違いだったようです。……微かに、『神の食材』の匂いがした気がしたのですが」
彼は席を立ち、代金の銀貨をテーブルに置いた。
「ごちそうさまでした。また来ますよ」
男はローブを翻し、雨の中へと消えていった。
ドアが閉まった瞬間、私はその場にへたり込んだ。
「エ、エリス!」
「大丈夫か、エリス嬢ちゃん!」
ヴォルグさんが駆け寄ってくる。
カウンターの下から、ホルンが涙目で這い出してきた。
「……あいつだ……」
ホルンが震える声で言った。
「ボクの村に来た……『異端審問官』の匂いだ……」
異端審問官。
聖教国において、教義に反する者や、彼らが『不浄』と定める存在を狩る実行部隊。
そして、彼らが探している『神の食材』とは……。
「ホルン、君は一体……」
私が問いかけようとした時、裏口の扉が開いた。
帰ってきたのは、ずぶ濡れになったレオンハルト様だった。
「……エリス、無事か!?」
「レオン!?」
「街で聖教国の神官を見かけた。胸騒ぎがして……」
彼は私の無事を確認すると、安堵の息を吐き、そして厳しい顔で言った。
「どうやら、厄介な連中が王都に入り込んでいるらしい。……エリス、しばらくの間、夜の外出は控えてくれ」
「レオン、あの人たち、ホルンのことを……」
私が事情を話すと、レオンハルト様の表情が一層険しくなった。
「……やはりか。聖教国が最近、『獣人狩り』を行っているという噂は聞いていたが、まさか王都まで手が伸びているとは」
彼はホルンの頭を撫で、私を強く抱きしめた。
「守るぞ。この店も、仲間も。……料理対決の次は、宗教国家との戦争になりそうだがな」
彼の腕の中で、私は頷いた。
イザベラとの勝負に勝ったと思ったら、今度はもっと強大な敵が現れた。
でも、怖がってばかりはいられない。
美味しいご飯を守るためなら、私は神様とだって戦ってみせる。
「……まずは、温かいスープでも飲みましょうか。みんな、顔色が悪いわ」
私は立ち上がった。
不安な時こそ、美味しいものを食べる。
それが『騎士の休息』の鉄則だ。
雨はまだ止まない。
王都の空に、不穏な灰色の雲が渦巻いていた。




