第6話 敗者の涙と、再出発のクリームシチュー
王宮広場での激闘から数時間後。
日が暮れて夜の帳が下りる頃、私の店『騎士の休息』は、ささやかな祝勝会の会場となっていた。
「勝利に……乾杯っ!!」
「「「うおおおおおおっ!!」」」
店内に野太い歓声が響き渡る。
集まったのは、食材調達に命をかけてくれたレオンハルト様率いる近衛騎士たち、そしてヴォルグさんとホルンだ。
彼らはジョッキを片手に、互いの健闘を称え合っている。
「いやぁ、団長のあの最後の一撃、凄かったですねぇ!」
「エリス嬢ちゃんのカツレツを食べた時の、あの帝国皇子の顔! 傑作だったな!」
皆が笑顔で盛り上がる中、私は厨房で「あるもの」と格闘していた。
昼間の対決で余った、『天然・ドラゴン・サーモン』のアラ(頭や骨の部分)と、端切れの身だ。
「最高級の食材だもの。骨の髄まで美味しく食べ尽くさなきゃね」
大鍋に、焼いたサーモンのアラと、たっぷりの香味野菜を入れて煮込む。
白濁したスープからは、濃厚な魚介の出汁の香りが立ち上る。
そこへ、『ムームー牛』のミルクと、小麦粉をバターで炒めたルーを溶かし入れる。
具材は、乱切りにした『ロックポテト』と、香り高い『妖精キノコ』、そして甘みの強い『冬キャベツ』。
最後に、サーモンの身をゴロゴロと投入する。
グツグツ、コトコト。
とろみがつき、真っ白だったスープが、サーモンの脂でほんのり茜色に染まっていく。
仕上げに黒胡椒を挽き、パセリを散らす。
「お待たせしました! 『ドラゴン・サーモンの具だくさんクリームシチュー』です!」
私が大鍋をホールに運ぶと、歓談していた男たちの目が釘付けになった。
「うおっ、シチューか! 温まるやつだ!」
「匂いだけで分かる、これ絶対濃い!」
各自が深皿に盛り付け、スプーンで口へ運ぶ。
「はふっ、あつっ……うめぇえええ!!」
騎士の一人が天を仰いだ。
とろりとしたスープは、サーモンの旨味とミルクのコクが凝縮されている。
ホクホクのロックポテトが口の中で崩れ、甘いキャベツがシャキシャキとアクセントを加える。
そして主役のサーモン。煮込んでもパサつくことなく、トロトロに脂が乗っている。
「疲れた体に染み渡る……」
「昼のカツレツも凄かったけど、やっぱりエリスの料理はこの『ほッとする味』が最強だよな」
皆が幸せそうに頬を緩める。
その中心で、レオンハルト様もシチューを味わい、優しく私に微笑みかけた。
「……美味い。命が洗われるようだ」
「レオン、本当にお疲れ様でした。貴方が獲ってきてくれなかったら、この味は出せませんでした」
私たちが視線を交わし、温かい空気が流れた、その時だった。
カランカラン……。
ドアベルが、どこか力なく鳴った。
貸切にしているはずの店の入り口に、人影が立つ。
「……邪魔するぞ」
現れたのは、ガレリア帝国の第二皇子、ヴァレリウス殿下だった。
しかし、昼間のような威圧感はない。
そして、彼の背後には、うつむいたまま動かない女性――イザベラの姿があった。
「殿下……?」
レオンハルト様が瞬時に立ち上がり、私を庇うように前に出る。
騎士たちが一斉に警戒態勢をとるが、ヴァレリウス殿下は両手を上げて降参のポーズをとった。
「そう殺気立つな。今日は喧嘩を売りに来たわけではない」
彼は店内を見渡し、誰も座っていないテーブル席に目を向けた。
「……約束通り、負けを認めに来たのだ。関税の引き上げは撤回する。この店への干渉もしない。誓約書も持ってきた」
彼は懐から羊皮紙を取り出し、テーブルに置いた。
その潔さに、レオンハルト様も剣から手を離す。
「……感謝します、殿下」
「礼には及ばん。美食を愛する者として、美味い料理を作った者に敬意を払うのは当然だ」
ヴァレリウス殿下は、そこで視線を後ろに向けた。
そこには、純白の料理服を泥で汚し、髪も乱れたイザベラが、虚ろな目で立ち尽くしていた。
「入れ、イザベラ」
「……」
彼女は幽霊のようにふらりと店に入ってきた。
その顔には、かつての傲慢さは微塵もない。あるのは絶望だけだ。
「さて、エリス。この女のことだが」
ヴァレリウス殿下は冷ややかな目でイザベラを見下ろした。
「解雇した」
「えっ?」
「私の宮廷料理人として、不適格だと判断した。見た目ばかりで中身のない料理など、今の私の舌には耐えられん。帝国に連れ帰る価値もない」
突き放すような言葉。
イザベラの肩がビクリと震えた。
「そ、そんな……殿下……私は……」
「黙れ。負けた料理人に発言権などない」
殿下は残酷なまでに淡々と言い放った。
「彼女は今日から追放処分だ。帝国への帰国も許さん。……まあ、路地裏で野垂れ死のうが知ったことではないがな」
それが、敗者への「ざまぁ」と言わんばかりの末路だった。
全てを持っていた天才料理人が、一夜にして全てを失い、異国の地で捨てられる。
自業自得とはいえ、あまりにも無慈悲だ。
「……あんまりです」
私は思わず声を上げていた。
「エリス?」
「確かに彼女は嫌な奴でした。私の料理を餌と呼び、食材を買い占めました。でも……」
私はイザベラの前に立った。
彼女は焦点の合わない目で私を見ている。
その体は細く震えていて、顔色は青白い。
料理人として、いや、一人の人間として、空腹で凍えている人を放っておけない。
「……お腹、空いていませんか?」
私の問いかけに、イザベラはハッとして私を見た。
プライドが高い彼女のことだ。拒絶するかもしれない。
そう思ったが、彼女の腹の虫が、正直にグゥと鳴いた。
昼間、自分の料理に手を付けず、ショックで何も食べていないのだろう。
「座ってください。……ちょうど、シチューが余っているんです」
私は彼女を無理やり椅子に座らせた。
そして、熱々のクリームシチューをたっぷりと皿に盛り、スプーンと共に置いた。
「……な、なぜ……」
イザベラが掠れた声で呟く。
「私はあなたを侮辱したのよ……。なのに、なぜ施しなんて……」
「施しじゃありません。料理人が、お腹を空かせた人にご飯を出す。当たり前のことでしょう?」
私は笑って言った。
「それに、冷たいままだと味気ないでしょう? 温かいうちに食べてください」
イザベラは震える手でスプーンを握った。
湯気が顔にかかる。
昼間、自分が否定した「温かい料理」の香り。
彼女は一口、スープを啜った。
「……ッ」
その瞬間、彼女の大きな瞳から、ポロポロと涙が溢れ出した。
温かい。
ただひたすらに、温かい。
凍りついていた心と体が、内側から溶かされていくようだ。
野菜の甘み、サーモンの旨味、ミルクの優しさ。
かつて自分が料理を目指した頃、誰かに「美味しい」と言ってもらいたくて作っていた、原点の味がそこにあった。
「う……うぅ……っ! ごめんなさい……ごめんなさい……ッ!」
彼女は泣きじゃくりながら、シチューを口に運んだ。
涙がスープに混ざるのも構わず、夢中で食べた。
「綺麗」じゃなくていい。「美味しい」と思えることが、こんなに救いになるなんて。
その様子を見ていたヴァレリウス殿下が、ふっと鼻で笑った。
「……ほう。氷の姫も、溶ければただの小娘か」
彼は立ち上がり、私に向かって言った。
「エリス。その女の処遇は、お前に任せる。煮るなり焼くなり、好きにしろ」
「えっ、私がですか?」
「ああ。私はもう興味がない。……だが、もしお前がその女を再生させることができれば、それもまた一興かもしれん」
殿下は最後に、厨房の大鍋をチラリと見た。
「……ちなみに、そのシチューとやらは、まだ残っているのか?」
「ええ、ありますよ」
「ならば、一杯もらおうか。……勘違いするなよ、毒見だ」
結局、殿下もシチューを平らげ、「悪くない」と素直じゃない感想を残して帰っていった。
嵐のような皇子だったが、彼なりにエリスの料理への未練を断ち切りに来たのかもしれない。
◇
閉店後の店内。
イザベラは完食した皿の前で、呆然としていた。
「……私、これからどうすれば……」
「行く当ては?」
「ありませんわ……。帝国には戻れない。お金も……」
彼女はうなだれた。
技術はある。でも、今の彼女には「心」がない。
このまま放り出せば、本当に野垂れ死ぬか、悪い人間に利用されるだけだろう。
私はため息をつき、ヴォルグさんと顔を見合わせた。
ヴォルグさんは「やれやれ」という顔で肩をすくめ、レオンハルト様は不満そうに眉を寄せている。
でも、私の決意は固まっていた。
「イザベラさん」
「……はい」
「うちで働きますか?」
その言葉に、全員が驚いた。
イザベラ本人が一番驚愕している。
「なっ……正気ですの!? 私は敵でしたのよ!?」
「ええ、知っています。でも、あなたの包丁捌きや、食材を見る目は本物でした。技術は一流です」
私は彼女の目を見て言った。
「ただ、足りないものがあるだけ。……ここで一から、『食べる人のための料理』を学び直してみませんか?」
「……学ぶ……私が、あなたから……?」
屈辱かもしれない。
天才と呼ばれた彼女が、庶民の店で下働きをするなんて。
でも、彼女は私のシチューの温かさを知ってしまった。
彼女は唇を噛み締め、そして深く頭を下げた。
「……お願いします。ここで、働かせてください」
「はい。ただし、扱いは見習いですからね。まずは皿洗いと、ジャガイモの皮剥きからです」
「……はい!」
かつての「氷の料理姫」は消え、一人の「料理人見習い」が誕生した瞬間だった。
ヴォルグさんが「へっ、厳しく仕込んでやるから覚悟しな」と笑い、ホルンが「ボクが先輩だね!」と胸を張る。
こうして、『騎士の休息』に、また一人、訳ありの仲間が増えることになった。
◇
深夜。
イザベラを空き部屋(屋根裏部屋)に案内し、片付けを終えた私は、ようやく一息ついた。
店内には、私とレオンハルト様の二人だけ。
「……君はお人好しすぎる」
レオンハルト様が、私の後ろから抱きしめてきた。
その腕には力がこもっている。
「あんな女、放っておけばいいものを」
「でも、料理を愛する心を取り戻せたら、きっといい料理人になりますよ。それに……」
私は背中の温もりに身を委ねた。
「誰かを蹴落とすより、美味しいご飯で仲間になっちゃう方が、私たちらしいでしょう?」
「……はあ。君には敵わないな」
彼は私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「だが、約束してくれ。あまり無理はしないでほしい。君が遠くへ行ってしまいそうで、時々怖くなる」
「行きませんよ。私はずっと、レオンのそばにいます」
「ああ……。明日の朝も、その次も、君の作った味噌スープが飲みたい」
「ふふ、プロポーズですか?」
「……そうだと言ったら?」
甘い沈黙。
私たちは月明かりの下、静かに口づけを交わした。
帝国の脅威は去り、店には新しい風が吹こうとしている。
私たちの幸せな毎日は、これからも続いていくはずだった。
◇
しかし、その平穏な夜の裏側で、不穏な影が動き出していた。
店の裏口で、ゴミ出しをしていたホルン。
彼は、夜風に乗って漂ってきた「ある匂い」に、ビクリと耳を立てた。
「……この匂い……」
焦げたような、薬草のような、独特の香り。
それは、昼間のイザベラの魚から感じたものとは違う。
もっと濃くて、禍々しい匂い。
ホルンは路地の暗がりに目を凝らした。
街灯の光が届かない闇の奥。
そこに、白いローブを纏った人物が佇んでいた。
その胸には、赤い十字と蛇が絡み合った紋章――『聖教国』のシンボルが刻まれている。
「……見つけたぞ。『神の食材』を嗅ぎ分ける獣……」
白いローブの人物が、低い声で呟いた気がした。
「ひっ……!」
ホルンは恐怖で尻尾を膨らませ、慌てて店の中へと逃げ込んだ。
「どうしたの、ホルン?」
「う、ううん! なんでもない! 猫がいたけ!」
彼は震えながら嘘をついた。
あの紋章は、彼の故郷の森を焼き払い、家族を奪った集団のものだったからだ。
「聖教国」――大陸で最も強大な宗教国家。
彼らが求める「神の食材」とは何なのか。
そして、なぜホルンを狙うのか。




