第3話 氷の料理姫と、熱情のハンバーグ
「本日貸切」の札が掲げられた『騎士の休息』の店内には、張り詰めたような緊張感が漂っていた。
「……来たわね」
窓の外、路地に停まった豪奢な馬車を見て、私はエプロンの紐をギュッと握りしめた。
昨夜、ヴァレリウス殿下から届いた書状には、『帝国の食文化を教授してやる』という傲慢な文言と共に、今夜の来店が予告されていた。
「大丈夫だ、エリス。何かあれば私が斬る」
「いや、斬っちゃダメですからね、レオン」
カウンター席で待機しているレオンハルト様が、剣の柄に手をかけたまま物騒なことを言う。
彼は今日、非番返上で「店員のフリをして」店に居座っていた。黒い軍服ではなく、白いシャツにエプロン姿だが、隠しきれない騎士団長のオーラが漏れ出ている。
カランカラン。
ドアが開くと同時に、店内の空気が一気に冷えた気がした。
「ごきげんよう。ここが噂の……ずいぶんと狭苦しいお店ですこと」
入ってきたのは、ヴァレリウス殿下……ではなく、一人の女性だった。
透き通るような銀髪を高く結い上げ、氷のように冷ややかな青い瞳を持つ美女。
身に纏っているのは、純白の料理人服だが、その仕立てはドレスのように優雅で、胸元には帝国の紋章が輝いている。
彼女の後ろから、愉しげな笑みを浮かべたヴァレリウス殿下が続いて入ってきた。
「紹介しよう。彼女はイザベラ。我がガレリア帝国の宮廷料理長を務める天才だ。『氷の料理姫』といえば、その名は知っているだろう?」
「……初めまして。店主のエリスです」
私が頭を下げると、イザベラは扇で口元を隠し、値踏みするように私を見下ろした。
「あら、あなたが? 殿下が興味を持たれたというから、どのような方かと思えば……油と煤の匂いが染みついた、いかにも『庶民の料理番』という感じですわね」
いきなりの先制パンチだ。
レオンハルト様の眉がピクリと跳ねる。
「……私の婚約者を愚弄するか」
「あら、事実を申し上げたまでですわ。料理とは芸術。作る者の品格が、そのまま皿の上に現れるものですから」
イザベラはツカツカと厨房の方へ歩み寄り、調理台を指先でなぞった。
埃一つないはずだが、彼女は顔をしかめる。
「火を使う料理ばかりだから、空気が淀んでいますわ。それに、使っている食材……豚肉にジャガイモ、タマネギ? ふふ、まるで家畜の餌場ですわね」
彼女の言葉に、奥で控えていたヴォルグさんとホルンが悔しそうに拳を握るのが見えた。
私も、静かに怒りの炎を燃やした。
私の大切な食材と、仲間たちが守ってきた厨房を、そこまで言うなんて。
「……それで、今日は何をしにいらしたのですか? わざわざ『家畜の餌場』まで」
私が言い返すと、ヴァレリウス殿下がパンと手を叩いた。
「余興だよ、エリス。イザベラが『王国の料理など見る価値もない』と言うのでな。お前たちの実力を見比べさせてもらおうと思って連れてきた」
彼はカウンターの特等席に座り、残酷なゲームを楽しむ子供のように笑った。
「テーマは自由だ。イザベラ、まずは手本を見せてやれ。帝国の『真の美食』というやつをな」
「承知いたしました、殿下。……少し場所をお借りしますわよ、庶民さん」
イザベラは私の横を通り過ぎ、持参した銀色のケースを開いた。
中から取り出したのは、見たこともない透明な魚の切り身だった。
「これは『クリスタル・トラウト』。北方の氷海にのみ生息する、幻の魚ですわ」
彼女はナイフを取り出した。
その手際の鮮やかさは、認めざるを得ないほど美しかった。
迷いのない包丁捌き。薄く、向こう側が透けるほどにスライスされた身が、皿の上に花びらのように並べられていく。
そして、彼女は右手をかざした。
「『氷結』」
彼女の掌から冷気が溢れ出し、皿全体を包み込む。
魔法だ。しかも、かなり高度な制御技術。
魚の身が一瞬で締められ、皿の上に氷の結晶が花のように咲き乱れる。
「完成ですわ。『クリスタル・トラウトの氷花造り ~魔力の輝きを添えて~』」
出された皿は、まさに宝石箱だった。
照明を受けてキラキラと輝く氷と、透き通る魚の身。
ため息が出るほど美しい。
「どうぞ、殿下」
ヴァレリウス殿下は優雅に一切れを口に運んだ。
「……ふむ。相変わらず見事だ。口の中で氷が砕け、魚の脂が体温で溶け出す。冷たさと甘みのコントラストが素晴らしい」
「恐れ入ります」
イザベラは勝ち誇った顔で私を見た。
「さあ、召し上がってみて? これが『洗練』というものですわ」
促されて、私とレオンハルト様も試食させてもらう。
口に入れると、シャリッとした食感の後に、濃厚な脂が広がった。
確かに美味しい。鮮度も抜群だし、魔法による冷やし加減も絶妙だ。
けれど。
「……冷たい」
私がポツリと漏らすと、イザベラは眉をひそめた。
「当たり前でしょう? 冷菜ですもの」
「いいえ、温度のことではありません。……料理に『心』が感じられないのです」
ただ、素材を切って冷やしただけ。
食べる人の体を温めようとか、疲れを癒そうとか、そういう想いが欠けている。
綺麗だけれど、どこか寂しい味だ。
「なっ……! 私の芸術を、心がないですって!?」
「ええ。では、私の番ですね」
私は自分の持ち場に戻った。
作るものは決まっている。
彼女が「家畜の餌」と馬鹿にした食材を使って、最高に温かくて、最高に茶色い料理を作ってやる。
「ホルン、挽肉の準備を!」
「はいっ!」
取り出したのは、昨日仕込んだ『ギガント・ポーク』と『ムームー牛』の合挽き肉だ。
炒めたタマネギ、パン粉、牛乳、卵、そしてナツメグなどのスパイスを混ぜ合わせる。
手の体温で脂が溶けないよう、素早く、かつ力強く練り上げる。
ペチッ、ペチッ、ペチッ。
空気を抜く音が厨房に響く。
イザベラが鼻で笑う。
「あら、ただのハンバーグ? そんな子供騙しな料理で対抗するつもり?」
「子供騙しかどうか、食べてから判断してください」
私は熱したフライパンに、小判型に整えた肉ダネを置いた。
ジュウウウウウッ……!!
低い重低音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いが立ち上る。
イザベラの料理にはなかった「香り」の攻撃だ。
表面を強火で焼き固め、肉汁を閉じ込める。
裏返して弱火にし、蓋をして蒸し焼きにする。
その間に、隣のコンロでソースを仕上げる。
昨日ヴァレリウス殿下も食べた、あの特製デミグラスソースだ。
さらに今日は、隠し味に『焦がし味噌』を加える。
これでコクと深みが倍増するのだ。
「仕上げよ!」
蓋を開けると、ふっくらと膨らんだハンバーグが姿を現した。
そこへ、たっぷりの『ゴールデン・チーズ』を乗せ、再び蓋をする。
予熱でチーズがとろりと溶け出すのを待つ。
完成だ。
「お待たせしました。『肉汁溢れる・特製煮込みチーズハンバーグ』です」
ドン、とテーブルに置かれたのは、イザベラの料理とは対照的な一皿だった。
茶色いソース、茶色い焦げ目、そして黄色いチーズ。
見た目の華やかさは皆無だ。
だが、グツグツと煮立つソースの音と、立ち上る湯気、そして暴力的なまでの「旨そうな匂い」が、その場を支配した。
「……ふん。見た目は泥団子ですわね」
イザベラは顔をしかめたが、その視線は溶けたチーズに釘付けになっていた。
ヴァレリウス殿下は、ニヤリと笑ってナイフを入れた。
プチュッ。
ナイフを入れた瞬間、ハンバーグの中から透明な肉汁が噴水のように溢れ出し、ソースと混ざり合った。
チーズが糸を引きながら肉に絡みつく。
「いただきます」
殿下が一口食べる。
その瞬間、彼の美貌が崩れた。
「……っ!」
熱い。美味い。濃い。
噛むたびに溢れる肉の旨味。
それを濃厚なデミグラスソースと、まろやかなチーズが包み込む。
イザベラの料理が「頭で理解する美味しさ」なら、エリスの料理は「本能に直接訴えかける美味しさ」だ。
「くっ……昨日のオムライス以上の衝撃だ。この味噌の風味……なんと卑怯な!」
殿下の箸が止まらない。
それを見て、イザベラが信じられないという顔をした。
「殿下……? まさか、そのような脂っこい塊を美味しいと?」
「イザベラ、お前も食べてみろ。食えば分かる」
促され、イザベラは恐る恐る小さな欠片を口に入れた。
「……!」
彼女の青い瞳が見開かれた。
悔しいけれど、美味しい。
舌が、脳が、この濃厚な味を求めてしまう。
彼女が普段作っている繊細な味付けとは対極にある、力強い「命」の味。
「……ど、どうせ塩と脂の味ですわ! こんなの下品です!」
彼女は顔を真っ赤にしてフォークを置いた。
だが、その皿の上のハンバーグは半分以上なくなっていた。
「……勝負あり、だな」
レオンハルト様が静かに呟いた。
味の優劣ではない。
どちらが「食欲を満たしたか」という点において、エリスの圧勝だった。
ヴァレリウス殿下は、最後のソースまでパンで拭って食べ終えると、満足げに息を吐いた。
「認めてやろう、エリス。お前の料理は、確かに私の心を動かした」
「ありがとうございます」
「だが……」
殿下の瞳から、笑みが消えた。
鋭い紫の瞳が、私を射抜く。
「王国の食材と技術でこれだ。もし、イザベラが本気で、最高の食材を使って勝負を挑んだら? お前は勝てるか?」
「……え?」
「今のはただの余興だ。本番はこれから用意する」
殿下は立ち上がり、宣言した。
「一週間後。王宮広場にて、正式な料理対決を行おう。テーマ食材は、帝国が誇る至高の魚『ドラゴン・サーモン』だ」
ドラゴン・サーモン。
名前だけは聞いたことがある。
凶暴な水竜の一種で、その身はとろけるように甘く、魔力を帯びているという伝説の食材だ。
「お前が勝てば、関税の話は撤回しよう。この店にも二度と手出しはしない」
「……もし、負けたら?」
「その時は、お前は私のものだ。帝国の宮廷料理人として、一生私のためだけに料理を作ってもらう」
それは、実質的な「人生」を賭けた勝負だった。
レオンハルト様が色めき立つ。
「ふざけるな! そんな勝負、受ける必要はない!」
「断れば、関税は三割……いや、五割引き上げようか? 王国の民が飢えることになるが、それでもいいのかな?」
卑怯だ。
国の命運を人質に取るなんて。
私が断れば、レオンハルト様の立場も、この国の経済も危うくなる。
私はレオンハルト様の前に出た。
震える手を、エプロンの後ろで隠して。
「……受けます」
「エリス!?」
「その勝負、私が買います。ただし、食材の調達は公正にお願いしますね」
私が睨みつけると、イザベラが冷ややかに笑った。
「威勢だけはいいですわね。でも、庶民のあなたが『ドラゴン・サーモン』なんて扱えるかしら? あれは選ばれた料理人にしか捌けない、特別な食材ですのよ」
「楽しみにしておけ。……行くぞ、イザベラ」
ヴァレリウス殿下とイザベラは、嵐のように去っていった。
残された店内には、重苦しい沈黙と、冷めてしまったハンバーグの香りだけが漂っていた。
「……すまない、エリス。私の力が足りないばかりに」
レオンハルト様が、悔しそうにテーブルを叩いた。
私は首を横に振った。
「いいえ、レオン。これは料理人の戦いですから」
そう言ったものの、私の背筋には冷たい汗が流れていた。
ドラゴン・サーモンなんて見たこともない。
しかも相手は、氷魔法を操る天才料理人。
勝てるのだろうか。
いいえ、勝たなきゃいけない。
この店と、レオンとの未来を守るために。
その時、隅で震えていたホルンが、小さな声で呟いた。
「……ドラゴン・サーモン……」
「ホルン? どうしたの?」
「……匂いがする。嫌な匂い……ボクの村を焼いた人たちが持っていた、あの魚の匂い……」
ホルンの瞳には、怯えの色が浮かんでいた。
この勝負、ただの料理対決では終わらないかもしれない。
帝国の影には、もっと深い闇が潜んでいるような気がした。




