第2話 暴君の舌と、とろけるオムライス
「作れ。私が満足するものをな」
ガレリア帝国の第二皇子、ヴァレリウス殿下の命令は絶対的だった。
店内の空気は凍りつき、レオンハルト様が腰の剣を握る手に力を込めているのが分かる。
「……分かりました。少々お待ちください」
私はレオンハルト様の前にそっと水を置き、目配せで「大丈夫です」と伝えてから厨房へと下がった。
厨房に入ると、奥に隠れていたヴォルグさんとホルンが駆け寄ってきた。
「エリス! 大丈夫か!? あいつ、とんでもねぇこと言ってたぞ!」
「そうだよ! 関税とか取り潰しとか……ボク、噛みついてこようか!?」
ホルンが威嚇するように尻尾を逆立てている。
私は二人の頭を撫でて落ち着かせた。
「平気よ。ただの『お腹を空かせたお客様』だもの。それに、ここで逃げたらレオンの立場が悪くなるし、この国の物流が止まってしまうわ」
相手は美食の国、ガレリアの皇子。
中途半端な料理を出せば、本当に難癖をつけてくるだろう。
私が作るべきなのは、彼の傲慢な口を塞ぐほどの一皿だ。
「ヴォルグさん、三日間煮込んでいた『あれ』を使います」
「おお、ついに解禁か! 『ギガント・ボア』の骨髄スープ!」
私は冷蔵庫の奥から、茶褐色のソースが入った鍋を取り出した。
これは店の新メニューのために試作していた、特製のデミグラスソースだ。
魔物の骨と香味野菜を焼き、赤ワインで三日間煮詰めて漉したもの。
その味わいは、深淵のように深く、そして濃厚だ。
「よし、やるわよ」
私はエプロンの紐をキリリと締め直した。
◇
カウンター席では、重苦しい沈黙が続いていた。
ヴァレリウスは優雅に足を組み、指先でテーブルをコツコツと叩いている。
その横で、レオンハルトは不動の姿勢で彼を監視していた。
「……近衛騎士団長ともあろう者が、このような庶民の店に入り浸っているとはな。王国の騎士道も地に落ちたものだ」
ヴァレリウスが挑発するように口を開く。
レオンハルトは表情一つ変えずに答えた。
「騎士道とは、守るべきものを守ること。私にとって、この店とここの主は、何よりも守るべき存在ですので」
「ほう。ただの料理人に熱を上げているわけか。……まあいい。どうせすぐに化けの皮が剥がれる」
ヴァレリウスは鼻で笑い、厨房の方へ視線を向けた。
そこから漂ってきたのは、食欲を刺激する香ばしいバターの香りだった。
ジュウウウゥッ……!
厨房から、リズミカルな調理音が聞こえてくる。
食材を刻む音。フライパンを振る音。
それはまるで音楽のように心地よく、ヴァレリウスの耳を打った。
(……手際は悪くないようだな)
彼は内心で少しだけ評価を修正した。
だが、所詮は王国の田舎料理だ。帝国の洗練された宮廷料理に比べるべくもない。
そう高をくくっていた彼の鼻腔に、次なる香りが届いた。
甘酸っぱいトマトの香りと、それを包み込むような焦がし醤油の隠し味。
そして何より、得も言われぬ芳醇な「肉」の香り。
(なんだ? ただ焼いているだけではない……この奥行きのある香りは)
ヴァレリウスの眉がピクリと動く。
空腹を訴えていた彼の胃袋が、その香りに反応して小さく鳴った。
「お待たせいたしました」
厨房からエリスが出てくる。
その手には、湯気を立てる白い皿が握られていた。
コトッ。
目の前に置かれた料理を見て、ヴァレリウスは目を丸くし、そして失望のため息をついた。
「……なんだこれは」
皿の上にあったのは、赤く炒められたライスの上に鎮座する、黄色い卵の塊だった。
ラグビーボールのような楕円形をした、ただのオムレツ。
ソースも何もかかっていない。
「オムライスでございます」
「はっ、馬鹿にしているのか? こんな黄色い塊を食えと? 帝国の宮廷料理は見た目も芸術品だ。このような無骨な料理、家畜の餌にも劣る」
彼はフォークを手に取る気配すら見せない。
隣でレオンハルトが怒りに身を乗り出しそうになるが、エリスは動じなかった。
彼女は静かに微笑み、一本のナイフを取り出した。
「仕上げはこれからです。……よく見ていてくださいね」
エリスはナイフの切っ先を、ぷるぷると震えるオムレツの中央に当てた。
スッ。
抵抗なくナイフが入る。
そして。
パカッ……トロォォォ……。
ヴァレリウスの目が大きく見開かれた。
切り開かれたオムレツが左右に広がり、内側に閉じ込められていた半熟の卵が、雪崩のように溢れ出したのだ。
それはまるで、黄色い花が咲く瞬間のように美しく、ドラマチックな光景だった。
「なっ……!?」
さらにエリスは、手鍋から熱々のソースを回しかけた。
漆黒に近い、艶やかなデミグラスソース。
それが半熟卵の黄色と混ざり合い、鮮やかなコントラストを描き出す。
「『特製・とろけるタンポポ・オムライス』。どうぞ、熱いうちに」
立ち上る湯気。
バターと卵の甘い香り、そしてソースの深遠な香り。
視覚と嗅覚への二重の攻撃に、ヴァレリウスの喉がゴクリと鳴った。
「……ふん。小手先の芸だな」
彼は震える手でスプーンを持ち、卵とライス、そしてソースをすくい上げた。
口へと運ぶ。
パクッ。
静寂が訪れた。
ヴァレリウスの動きが止まった。
口に入れた瞬間、半熟卵が舌の上で解け、濃厚なコクが広がる。
使用されているのは、帝国の高級食材にも劣らない『コカトリス』の卵だ。火入れが完璧で、生臭さは皆無。ただひたすらに甘く、クリーミーだ。
そして、ライスだ。
ただのケチャップライスではない。
『ギガント・ボア』の肉の旨味と、飴色になるまで炒められたタマネギの甘みが凝縮されている。米一粒一粒がバターと旨味を纏い、パラリとほどける。
だが、何よりも衝撃的だったのはソースだった。
(なんだこのソースは……! 苦味と甘味、そして酸味が複雑に絡み合っている……!)
赤ワインの渋みと、肉の出汁の力強さ。
それが卵の優しさを引き締め、全体の味を高級料理へと昇華させている。
庶民の料理だと思っていたものが、口の中でオーケストラを奏でているのだ。
「……っ」
ヴァレリウスの手が止まらない。
一口、また一口。
頭では「庶民の料理だ」と否定しようとしているのに、本能が「もっとよこせ」と叫んでいる。
スプーンが皿に当たる音だけが、店内に響き渡る。
気がつけば、皿の上は空っぽになっていた。
「……」
ヴァレリウスは呆然と空の皿を見つめた。
最後に残ったソースまで、パンで拭って食べたいという衝動を、必死の理性で抑え込む。
満腹感と共に、体の中からポカポカとした温かさが湧き上がってくる。
それは、冷たく美しいだけの宮廷料理では決して得られない、心の充足感だった。
「いかがでしたか、殿下」
エリスの静かな問いかけに、彼はハッとして顔を上げた。
目の前には、勝ち誇るでもなく、ただ料理人として客の反応を待つ彼女の姿があった。
その瞳は、眼鏡の奥で誠実に輝いている。
ヴァレリウスはナプキンで口元を拭い、咳払いをした。
「……まあまあ、だな」
素直ではない言葉。
だが、その頬が僅かに紅潮しているのを、レオンハルトは見逃さなかった。
「王国の田舎料理にしては、悪くない。特にこのソース……手間がかかっていることは認めてやろう」
「ありがとうございます。三日間、寝ずに火を見ていましたから」
エリスがにっこりと笑う。
その笑顔を見て、ヴァレリウスの胸がドキンと跳ねた。
美味い料理を作る腕。媚びない態度。そして、この温かい笑顔。
(惜しい……)
ヴァレリウスの中に、ある感情が芽生えた。
それは独占欲だ。
この才能を、こんな薄暗い路地裏に埋もれさせておくのは、世界の損失だ。
彼は立ち上がり、エリスに歩み寄った。
そして、その手を取ろうと――した瞬間、黒い影が割って入った。
「……気安く触れないでいただきたい」
レオンハルトが、エリスを背に隠して立ちはだかる。
その瞳は、絶対零度の冷気を放っていた。
「どけ、騎士団長。私はこの女に話がある」
「お断りします。彼女は仕事上がりで疲れていますので」
火花が散るような睨み合い。
ヴァレリウスはフンと鼻を鳴らし、エリスに向かって宣言した。
「エリスと言ったな。……お前、私の専属料理人になれ」
「え?」
「王国などという狭い世界にいる器ではない。帝国に来れば、世界中の最高級食材を使わせてやる。『ドラゴン・ミート』でも『世界樹の果実』でも、お前の望むままに用意しよう。報酬も、今の十倍……いや、百倍出してやる」
それは、料理人にとって破格の提案だった。
未知の食材、無限の予算。
かつての私なら、心が揺らいだかもしれない。
けれど。
「……光栄なお話ですが」
私はレオンハルト様の背中から顔を出し、はっきりと答えた。
「お断りいたします」
「何だと? 条件が不満か?」
「いいえ。私はこの店が好きなんです。この街の人たちが、私の料理を食べて笑顔になってくれる。それが私の報酬ですから」
それに。
私はレオンハルト様の腕にそっと手を添えた。
「私はここで、大切な人と一緒に生きていくと決めましたから」
その言葉に、レオンハルト様の肩が震えた。
彼は感動を噛み締めるように、私の手を上から強く握り返してくれた。
見せつけられたヴァレリウスは、不快そうに顔を歪めた。
「……愚かな。愛だの情だので、才能を腐らせるとは」
彼はマントを翻し、出口へと向かった。
だが、ドアノブに手をかけたところで立ち止まり、振り返った。
「勘違いするなよ。私は諦めたわけではない」
その紫の瞳が、妖しく光った。
「今日の料理は評価してやる。関税の引き上げは待ってやろう。……だが、私の舌を満足させた責任は取ってもらうぞ」
「責任、ですか?」
「ああ。近いうちにまた来る。それまでに考えておくことだ。……帝国の『真の美食』を知った時、お前がその薄汚い店に満足していられるかな?」
意味深な言葉を残し、彼は夜の闇へと消えていった。
カラン……。
ドアベルの余韻が消えた後、店内には重い空気が残った。
「……何なんだ、あいつは」
レオンハルト様が悔しそうに拳を握りしめた。
愛する人を侮辱され、奪おうとされた怒りが収まらないようだ。
「レオン、大丈夫ですよ。私はどこにも行きません」
「エリス……」
「それに、少し楽しみでもあります」
私は自分の手を見つめた。
帝国には、私の知らない食材や技術がある。
彼の言葉は脅しだったけれど、料理人としての探究心を刺激されたのも事実だ。
「もっと美味しくならなきゃ。……どんな美食家も、唸らせて降参させるくらいに」
私の決意を聞いて、レオンハルト様は苦笑し、そして優しく私の頭を撫でた。
「頼もしいな、私の婚約者は。……だが、あまり無茶はしないでくれ。私が心配で死んでしまう」
「ふふ、善処します」
嵐は去った。
だが、それはこれから始まる、国を巻き込んだ「料理戦争」の序章に過ぎなかったことを、私たちはまだ知らなかった。
翌日。
店には、ヴァレリウス殿下からの「予約」が入った。
しかも、ただの食事ではない。
『帝国の宮廷料理人との親睦会』という名目の、明らかな挑戦状だった。




