第9話 憩いのお茶
モモがパルラス行きの魔法列車に乗っていた頃。
アレヴターウェンは、脇目も振らず目の前のソファにぼふっと倒れこんだ。
王立美術館の見事な庭園を臨む一室にアレヴターウェンの姿はあった。
この部屋は貴賓室となっていて、麗人族との会合の後はここで鋭気を養うことにしていたのである。
彼の艶やかな深緑の髪も、今はどことなく元気がない。重力が重かった。体がどこまでも沈み込んでゆく感覚に彼は身を任せ、静かに息を吐くと少しだけ疲れが抜けた気がした。
会談に一段落は着いたものの、まだ仕事は残っている。
会談に使われる共通語は堅苦しくて話しにくい。
文語はより多くの意味を伝え、口語は曖昧な表現を持たない。外交において多くの国が採用している言語である。
その上に話す相手があの麗人族とあっては、さすがのアレヴターウェンも頭がおかしくなりそうだった。
「家に帰りたい……」
思わずそうボヤいてしまうぐらいに。
相手の狙いが分からない以上、言動すべてに気を張るより他になく、肉体と精神に疲労ばかりが積み重なっていた。
アレヴターウェンは、トキタスアを守護するというお役目を果たし続ける必要があるのだ。
”何も背負わず、何にも縛られず生きるとはどのような心地だろう”と、しばしば彼は思うことがあったが、その度に胸に刻まれた国章が疼いた。そして彼は焼き印にやさしく語りかけるのだ──安心するといい。望んだこともないさ、と。
アレヴターウェンは柔らかなソファに身を預けたまま、脳内で情報の取りまとめを行う。……まあ、その半分以上は愚痴となって口から出てしまうものではあったが。
「秩序ルールと煩いクセに、都合の良いように簡単に変えて。こっちは時間外労働で無駄な出費が出てるんだよ。些末なことでどうたらと……」
足をバタつかせたり、髪を掻き毟ってみたり、無駄とはわかっていながらも遣る瀬ない。
「幸せになるために戦うな。立場をわきまえろ。置かれた場所で言われたように生きろ。傲慢にも程がある勘弁してくれ。もういやだ……」
麗人族の自然主義協会への対応は、事前にアレヴターウェンがラグドール商会からもらっていた情報通りだった。ラグドールというコネの多い一大商会の血を引く母親には全く頭が下がる思いである。
生きていたなら礼も言えただろうが、戦火に消えた人に今更希望など抱くアレヴターウェンではなかった。
会合の中でも、今まで幾度も聞いた麗人族の言葉を思い出す。
彼らは理かなにかを読み上げるようにこう唱えるのだ。
『すべての人類はイリニポトスによって管理されるべきなのです』
……まったく、ふざけている。ふざけている。
子供のころにあった戦争は終わった。利害損得、個人の価値観。そんなものは二の次で、皆が皆生きるために必死で戦った、あの時代。何をすればどうすれば自分の夢は叶うのだろうと、足がかりすら見えなかったその昔。
苦しんで、泣いて、血の上にやってきたこの時代を、俺は本当に歩むことができているだろうか。時代を掴んで先を読み、動かしていくことはできているのだろうか。
嘆き、悲しみ、傷ついて、死んでいった人々の価値を形作ることができているのだろうか。
「……いいや、自分だけで大切なものすべてを守ることが出来るのなら、そもそも国などいらない」
そう呟いてアレヴターウェンはとりとめのない思考に一旦区切りをつける。
……ところで、この部屋にいるのは彼だけではない。
独白のような愚痴をただ静かに聞き流す、グリーンベール地方領主秘書官の1人、レレルがいた。
上司が扉を開いて戻ってきた瞬間、その都度レレルは空気が浄化された心地がするのであった。それどころか視界が明るくなった気さえした。この部屋にある芸術と言える素晴らしい調度品も、自らの上司ほど輝くことはないと彼女は確信している。
レレルはいつ終わるとも知れない麗人族との会合の間ずっとこの部屋に控えていた。上司であるアレヴターウェンに、家に帰った方がいいと言われていても。
その理由は彼女が仕事に誇りを持っていたからだ。レレルが自ら誇る誇り──それは、”アレヴターウェンにお茶を淹れること”だった。
「レレル、お茶を頼む」
「はい、では今回は渋めでお出ししますね」
レレル、彼女は人の機嫌や感情に敏感で“その場その時その人に合わせたお茶を出せる”という特技があった。まだ年は若いが、その特技をアレヴターウェンに見込まれて秘書官の1人に選ばれたのだ。
秘書官は領主の傍で連絡や雑務を担う側近のお役目であり、レレルの大抜擢はしばらく領内の噂の的だった。
しばらくの後、ティーカップへとくとく注がれるお茶から芳香が部屋一杯にやさしく広がった。
アレヴターウェンはようやっと体を起こして、ティーカップへと手を伸ばす。
一服して一息つくと部屋は憩いの場となった。お茶を出したレレルは、そのままアレヴターウェンの向かいに座る。アレヴターウェンが近しい者との雑談を好むためだ。
アレヴターウェンは、このように良い意味で適当な距離感が取れるレレルを重宝していた。
「いつもありがとう、仕事中はレレルのお茶だけが癒しだよ。その内、俺の喉はこのお茶しか受け付けなくなるな」
その言葉に、レレルはくすくすと笑った。
「あら。アレヴ様はいつもそうおっしゃって、わたくしがお休みを心陰りに思うようにしたいのですか?」
「心外だな。レレル、俺が嘘を言っていると思っていたのか」
「嘘をおっしゃっていないのが問題なんですよ。もうほら、今のうちにしっかりと休息を取ってくださいな。アレヴ様が体調を崩してでもしたら、わたくしウィリ様やノイ様に見せる顔がございませんよ」
”ノイ”、その名にアレヴターウェンは眉を寄せる。
「ノイ、ノイか。その名を聞くだけでうるさい小言が聞こえてきそうだ。この間俺が昼寝をしていたらわざわざ起こしにやって来て」
「それはアレヴ様が床でお眠りになっていたからでしょう。それも領事館の目立つところで……。誰も声をかけられなくて、仕方なくノイ様を呼んだそうじゃないですか」
「別にいいじゃないか、昼寝ぐらい。屋根があるんだから……疲れてたんだよ」
「本当に気を付けてくださいよ、アレヴ様は人気者なんですからね」
「ははは! それは立場があるからさ、じゃなきゃこんな人殺しに誰も声などかけない」
そう口にしながら、話をそらすようにアレヴターウェンは身じろぎをする。
そしてアレヴターウェンが上着の内ポケットから取り出したのは、手のひらサイズの共通語辞典。トキタスア国内で共通語はほぼ使わないため、このような外交の場では必需の品であった。
「ああ! やっぱり、こっちの意味か。何か変だと思ったんだ、口語と文語で違うだなんて、まったく」
「通訳者を付けられないというのは不利なものですね」
「こればかりはね、相手がアレだから。通訳の方に話し掛けられるよりマシと思うしかないな。彼らときたら、わざと翻訳の難しい言葉ばかりを使うんだ」
友人のように親しげに会話をするアレヴターウェンにレレルが文句を紡ぐことはない。アレヴターウェンはこちらが心配になるぐらい人との距離が近いのだと、彼女は知っていた。
「共通語ならばノイ様に教われてはいかがですか?」
「ノイに教えを請うなんて……まさか、レレル。そう言えって言われたか」
レレルは思わず笑みがこぼした。この上司は、従兄のノイを過剰に意識している節がある。まるで親の庇護を煙たがる子供のように。
「いいえ、わたくしの私見ですよ」
「ホントに?」
「ホントですってば。あ、アレヴ様。お茶のおかわりはいかがですか?」
「じゃあ、お菓子も出そう。食べ過ぎだって言われるけど……ないしょだよ、レレル」
アレヴターウェンはちょっとしたことで、花咲くように微笑むのだ。そして、領民こそが誇りだと言う。
そう口にできる彼だからこそ、レレルたち領民にとってアレヴターウェンは誇りであった。
「ともかく、彼らが無事に帰ってくれて良かった」
「あの、アレヴ様。そういえばイリニポトスってどうしてあんなに偉そうなんですかね? 結局なにがしたいんでしょう?」
歓談は、ぱくぱくと消費されるお茶菓子と共に穏やかに流れる。
「彼らは、"彼らの考える理想の人類社会"を目指しているんだ。人間には実現できないから、自分たちが導いてやるとね。つまりは人間を低脳で下等と見做して、端から馬鹿にしているんだよ」
「あらまあ、それじゃあ誰も着いていきませんよねえ」
「そう。誰もが平和で飯は食えない。なにより、飯を食うだけでは生きているとはいえない。それだけのことが彼らにはわからないのさ」
自分のティーカップの底に溜まった砂糖を見つけて、アレヴターウェンは小さな幸せを感じる。
「それと一番の問題は、彼らは彼ら以外を尊重しないということだよ。彼らの言う共生というのは搾取でしかない。だから世界中で嫌われている。どうせなら、人類共通の悪役にでもなればいいのに……なってもくれない」
レレルは、アレヴターウェンに対して上司以上の敬愛を抱いていた。
彼は自分が何を考えて何をどのように行おうとしているのか、それを人に真摯に曝け出して話すことを躊躇しない。誰の意見でも聞き入れる度量を持ち、多角的な視点でモノを見て考えられる、聡明で勇敢な人だと。
この方の世界感に取り込まれたらもう離れられない。関わって惹かれずにいられる人間がいるだろうか?
彼女は自答する。いるわけがないと。
”我らは如何にして我らを守るのか”、その答えをこの人は無条件に与えてくれる。この人だけが私たちを絶対に守ってくれるのだから。
その上、”俺は臆病者だから、命を預けられない人間を部下にしたことはない”だなんて殺し文句を平気で言ってのける。
トキタスア国内において、グリーンベール家の治めるグリーンベール地方領軍はもっとも統率力のある軍だ。そしてその領軍を構成する軍人の中には、王家を排してグリーンベール家を国の中枢としようだなんて声も珍しくない。グリーンベール地方においてアレヴターウェンの権威はそれほどまでに至上であった。
支持をされすぎて困るだなんて統治者は後にも先にもこのお方ぐらいだろうとレレルは考える。
それほど民に慕われているにも関わらず、このアレヴターウェンという人は傲ることがなく、いつだって公平だ。
しかし、過激な領民は困りものだ。このお方が担うお役目の邪魔はしないでほしいのに。
アレヴ様はトキタスアの頂点に立つだなんて、そんなつまらないものを目指してはいないのだから。
そんな盲目の信頼を知ってか知らずか。
おいしいお茶でくつろぐアレヴターウェンは、部屋に飾られた掛け軸に目を留める。”外交努力”と達筆で書かれたその書は、冗談の類いなのかどうなのか。
「誠実な人間に外交は務まらないし、不道徳な人間には向いていない──か、少なくとも俺はノイよりマシな人材ということだな」
ノイに勝てるトコなんてなかなかないと彼は言うが、それは間違っていると多くの人が知っている。アレヴターウェンにしかできないことをいくつも、彼は成し遂げてきた実績があった。
その時だった。不意に、それが零れ落ちた。
「会いたいよ、ウィリ」
レレルは、その言葉に痛ましそうな表情を浮かべる。
アレヴターウェンは普段から、一段落仕事を終えてやっと弟を想うことができる。私事を職務中に持ち込めるほど自分が器用な人間ではないと知っているために、一切を心から切り離しておかねばならならないのだ。
麗人族に従っている体を保ったまま、目的を通さねばならないのはたいへんなストレスであったが、実は最大のストレスは最愛の弟に触れられないことだった。
熱くなりそうな目頭をアレヴターウェンは必死で堪える。家に帰ったなら、あの子は真っ先に駆け寄ってきてくれるだろう。
そして俺を見て、心の底から嬉しそうに、かわいらしく微笑んでくれるのだ。
ウィリディスの小さな心臓は、間違いなく、アレヴターウェンのことまで生かしていた。
”もう一日でもあの子を感じない日があったのなら、間違いなく自分の心は死ぬ”と、アレヴターウェンは思った。
自分が自分ではなく、ウィリディスとずっと共に居られるなにかであればと。願わないときはない。
アレヴターウェンが生きているのはまさしくその為であって、それだけが自らの役目、そして生への動力源だった。
「レレル……ウィリに会いたいよ」
「そうですね、"冷たい人たち"には早く帰ってもらって、家に帰りましょう。ウィリ様もお待ちになっていますよ」
整然と、戸惑いなく麗人族の蔑称を口にしたレレルに、アレヴターウェンは困った顔をした。
「強制はできないが、蔑称を使うのは良くない。油断を招く習慣だ。此方が嗤っている間に相手は力を付けている。油断こそが最大の敵だよ」
「だって、あの人たちアレヴ様に失礼じゃないですか。大嫌いですよ」
大嫌いって──と、アレヴターウェンが苦笑して返事をしようとしたその時、部屋の扉が勢いよく吹っ飛んだ。
そう、吹っ飛んだ。
アレヴターウェンはレレルを背に庇い、瞬時に迎撃姿勢へと移行した。
鋭い視線を向け、入ってきた相手を認識して──目を見開いた。
瓦礫と煙の中から、まず姿を見せたのは扉を破壊した女性、グリーンベール地方領主補佐官のルットラ。そして──。
「ユカ!」
「驚くのはぼくが来たことか? いつも体調不良ってわけではないよ」
アレヴターウェンが声をかけたのは隈の深い細身の男性、レレルと同じくグリーンベール地方領主秘書官のユカである。顔色のせいだけでなく、彼はどこか陰鬱な雰囲気を纏っていた。形の良い耳たぶに小さなピアスがひとつ嵌められている。
彼らの登場にレレルは飛び上がって驚いた。
「ルットラ様! ユカ様! どうしてこちらに!?」
そんな彼女を差し置いても、ずけずけとルットラはアレヴターウェンに近づいていく。余裕なく、随分と急いている様子だ。
「アレヴ、テオエラじいから急報が入った」




