第2話 天に羽ばたく小鳥のように
ウィリディスはパチリと目を開けた。
いつものように部屋を見回して、兄の姿がないことを確認する。
前に一度だけ、ふざけた兄が小さなトカゲの姿をして驚かせてくれたことがあったけれど、何度見渡しても自分以外の影はない。
目覚めたら大好きな兄さまはいなくなっていた。ひとりぼっちの部屋で、ウィリディスはぎゅっと拳をにぎりしめる。
眠りから覚めてすぐの温かい体と真逆に心は寂しくつめたくなっていく。
まただ。また、兄さまは行ってしまった。
今日もお役目に兄さまが取られてしまったんだ。
失われた温もりを求めて、ウィリディスは兄がいたはずの場所へ手を滑らせた。
「兄さま」
ぽつりと呼んでみたって、もちろん返事はなかった。
ウィリディスがとぼとぼ隣の部屋へ行くと、明るく広々とした空間に見慣れた2人の姿があった。中央にあるテーブルで朝食の準備をしている。
ウィリディスの寝室と合わせていくつかの部屋は安全のため特別に区切られ厳重に管理されている。ここはそのいくつかの部屋のひとつである。
数日に一度だけ城の中庭に出ることが許されているので、ウィリディスはいつも楽しみにしていた。
「ウィリ! この寝坊助、飯が冷めるじゃないか」
「おはよ、じい。兄さまもう行っちゃったの?」
「お前にひっついてないんだからいないのは分かるだろ」
じいは意地悪な笑みを浮かべながらウィリディスをからかった。
じい──この家に古くから仕えている老翁は、名前で呼ばれることがほとんどない。昔からの通例でじい、弟子たちからは先生と呼ばれるのが常であるからだ。
彼はいつから働いているか知っている者がいないほどの古株である。
もっとも、近年はいたずら好きのウィリディスと叱りもしないその兄のせいで老化が進んだと噂になっており、当人もたいそう気にしている。久しぶりに会った知人から病気かと心配されるほどだった。
なにせウィリディスの兄──アレヴターウェンという人は自他共に認めるウィリディス至上主義者であり、ウィリディスが笑えば正義で、ウィリディスが行うことはすべて悪いことではないという信念を持っている。
じいにとっては迷惑以外のなにものでもなかった。
ウィリディスは起掛けから失礼なじいへ、けっと冷たい一瞥を向ける。その一方で、もう一人の女性にはころりと笑みを浮かべて挨拶をした。
「おはよう、リシュラ」
「おはようございます、ウィリ様。本日のご体調はいかがですか?」
「リシュラのおかげで元気だよ。もうじいはいらない」
リシュラは薬師ながら、じいに医学を師事する勤勉家である。
彼女は芝居気に頬を手で包み、
「あら先生、私がウィリ様の主治医になれるようですよ」
リシュラがそうおどけて言うが、師匠の反応は平坦だった。
「残念ながら、リシュラ。ウィリには人事権がないよ」
冗談への返答としては余りにもつまらない。ウィリディスとリシュラは顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
「今日はヴィルさんのご飯じゃないの? ノイさんは?」
「わたしのお手製だとも、文句があるなら食うな」
ウィリディスの朝食を温め直したじいは、続いて二人の前に温かいお茶を出した。
「またあの苦いお茶? きらいだからやだって言ったのに」
「ウィリ様、一応、体にはいいんですよ」
リシュラがとても渋い顔をしてじいの茶を飲みながら言う。その顔で言われてもというやつだ。
ちなみにこのお茶は誰が飲んでもたいへん苦くてまずいので、産地から特別に取り寄せなくては手に入らない。こんなものがどうして商売になるかは謎である。
「ねえ今日お庭は? 出てもいい?」
「ああ、ノイが一級魔法師を送ってくれた。午前なら大丈夫だ」
「やっっったあ! ⋯⋯あ」
ウィリディスは興奮してお茶を溢し、めちゃくちゃ怒られた挙げ句、今日の朝食後のおやつは半分になった。
今、一陣の風がその街に吹き渡る。
グリーンベール領の中央に位置するこの領都グリンベルズは領内で最も栄えている街であり、戦後に整備された強く美しい景観はトキタスア王都と並び評される程の芸術性をもって風を出迎えた。
街門より入りしその風は中通りを駆け、民家軒先の小洒落た服を揺らして街の中心へと至る。
グリンベルズの中心部には巨大かつ荘厳な城があって、その敷地と城壁は籠城戦にも耐えうる広大さと堅牢さを持っていた。領の迎賓館としても使用される真っ黒の御城。この城こそグリーンベール領の領主、アレヴターウェン・グリーンベールの居城である。
城壁の周囲にはグリーンベール家の深緑に彩られた巨大な国の御旗が幾数も掲げられ、風はそのすべてを揺らし、入り組んだ先に大きな木が根付く中庭を見つけた。
木のざわめきが、巨木のブランコにいた小さな少年の視界に映る。
最後に風がやさしく少年の髪を舞わせると、まんまるの瞳と柔らかな肌色があらわとなった。
深緑の妖精と、この少年を知る者は口にする。
彼は──少なくとも見た目上は、宗教画から浮かびあがって生まれたように無垢な少年である。
あいらしく、かわいらしい容姿は、人である者ならば誰もが惹かれざるを得ないであろう純真さを湛えていた。
この少年の名はウィリディス。領主アレヴターウェンの弟であり、グリーンベールの象徴たる深緑の色はしっかりとふたつの瞳と髪色に刻まれている。
このブランコは兄がウィリディスのために作ってくれたものだった。
晴れていて兄が休みの日には、ウィリディスを抱えてここで遊んでくれるのが常である。
しかし今、兄のアレヴターウェンは家にいない。それどころかグリーンベール家の領地にもいない。加えて、今回は何日も長く留守にすることが決まっているのだ。
それ故にブランコをひとり漕ぐウィリディスの表情は浮かないものであった。
自分の兄がとても優秀で、とても忙しい人であることはウィリディスもわかっているのだ。そんな現状でも、兄は自分を大切に思って十分気遣ってくれている。
だけれどこうして寂しい思いをすることは珍しくない。しかし、小さなウィリディスはそれをただ受け入れることができなかった。
そして今朝、つまらないことでじいにおやつを半分にされてしまったことで余計に消沈しているのだ。
暗い顔をしてブランコで遊ぶその姿を、家人たちは目に涙を浮かべ、拭き布を噛みながら見守っている。目を伏せている横顔の悲愴さといったら声を迂闊にかけられないものであった。普段はにこにことしていることの多いウィリディスだから尚更だ。
なお、家人たちとは、アレヴターウェンが特別に雇っている住み込みの家事使用人たちのことである。高給な上、なかなかに働きやすい職場のようで、長期就業の希望が絶えないのは業界で有名な話だった。
閑話休題。話をもとに戻そう。
長く勤めている者が多い故に、ウィリディスが赤子の頃より面倒を見てきた家人たちは、十にも満たないかわいい盛りのウィリディスが寂しそうにしているのを見ていられないのである。
もしもの、あったはずの光景を夢想せずにはいられなくなるからだ。誰の目から見ても仲の良い兄弟が、もしも──もっと共にいられたならと。アレヴターウェンにグリーンベール家当主のお役目がある限り叶わぬと分かっていても思わずにはいられなかった。
自分たちが何をしようとウィリディスの悲しみを晴らすことはできない。しかし少しでもウィリディスの気が紛れるようにと、彼らはいつもの様にお菓子パーティーの準備を始めた。
ウィリディスは甘いものが好きなのだ。
特に大好きなのはクリームのたっぷり乗った果物ケーキで、どんなにへそを曲げている時でもたちまち笑顔になってしまう。
ほんの一時の慰めかも知れないが、家人らは少年の為に何かをしたくて仕方がなかった。
──ちなみに、ウィリディスが喜ぶからと、兄がお菓子を買い漁ってきてその度にじいから怒られている事実をウィリディスは知らなかったりする。
「ウィリ様、そろそろお昼寝のお時間かと。寝所の支度は整っておりますよ」
「起きたときには素敵なお菓子をたくさんご用意しておきますから」
「うん⋯⋯ありがとう」
小さな笑顔を見せてくれたウィリディスに家人たちはほっと胸を撫で下ろす。
家人たちに勧められ、ウィリディスは部屋に向かおうとした。
──しかしその時、ウィリディスの真上の葉々を揺らし、一羽の小鳥が飛び立つ。
音に驚いてウィリディスが視線を向けると、小鳥は力強く羽ばたいていた。風を起こし、城の屋根をこえ、中庭の小さな蒼き大空へとむかって。
「兄さま」
空を見つめたまま、ちいさな口が動かされ微かすかに、求める人を呼ぶ。だがその声は勿論誰に届くこともない。
小鳥が見えなくなった後も、ウィリディスは空を仰ぎ見続けた。




