白昼夢の行方
その女性は淡い陽炎の中に佇んでいました。
すらりと伸びた手足の先が霞んで見えません。ぼやけたシルエットです。力は入っておらず、波打つように全身は揺らめいていました。そんなどこまでも一様に広がる、乳白色の世界にただ一人の女性。
「ここは、どこだろう」
彼女は自分がどこにいるのか、分かりません。それでも立っている感覚だけは伝わっていました。不思議なことに足裏からではなく、茫漠ただよう脳神経へと、じかに。
「……だれ?」
彼女は視界の正面に人影を捉えました。ゆっくりと近づいてきます。次第に輪郭が鮮明さを増していく中で気づきます。背は高くありません。170センチに届かないあたりでしょう。肉付きが薄く、成長過程であることが伺える、華奢な体つきをした男子でした。
「あっ」
懐かしさを伴う紺色のブレザー。わざと第二ボタンまで外し、ひじの手前まで袖を捲っている瀟洒な姿。その歩いてきた男子は、彼女が初めて恋愛感情を覚えた同級生でした。
――どうして。
彼女は急に視線を落としました。表情は曇りだし、いたたまれなくなったように顔そのまで男子から逸らしてしまいます。あどけなさを残した薄い唇で、遠慮なく笑みを投げる男子。そむけたにも関わらず、彼女は閉ざしたまぶたの裏で、鮮やかに甦らせてしまいます。
『勝手に好きになんなよ』
過ぐる年、桜の木の下に響いた無情の言葉。拒絶のつぶて。それが勇気を振り絞って伝えた、彼女の告白に対する彼の返答でした。
思い出したくなどない。遠く過ぎ去ったはずの残照。
どうしてまた甦るのか。どうしてまた苦しめるのか。
瞬く間に侵食してきた翳り。彼女の心に根づいた傷、ひとつ。
忘れかけていた破恋を前にして、耐え切れなくなった涙腺から幕が下りました。
ううん、あれから私は変わったわ。今は違う。そうよ、私を受け入れてくれた人だって――
自身を鼓舞するように悲しみの帳を開きます。視界に光を取り戻した時、彼女の前には新たな人影が現れていました。
「あ、あなたは!?」
目深にかぶった黒のニット帽。ゆるやかに両手を広げ、優しそうな瞳で彼女を見る男。その男は清潔に整えられたあご先のひげを揺らしました。
『そりゃ色んな男はいるさ。けど俺は違うぜ。一度つきあってみろって。絶対に後悔させないから』
彼女は思い出しました。就職後に催された歓迎会。学生時代から引きずっていた男性に対する不信感を、隣に座っていたこの男に、つい漏らしてしまった時のことを。
彼女は男を信じました。いえ、信じたかったのです。
男は足音を鳴らすことなく、彼女にぴたりと添い、強く抱きしめてきました。彼女の目に男がつけているシルバーのネックレスがきらめきます。
(そうだ。この胸板、ずいぶん厚かったっけ……)
高鳴る鼓動。自らを捧げた一夜の火照りが、時を越えて彼女に降りかかってきました。頬に、首に、囁くように浸透してくる柔らかなぬくもり。男が彼女の襟足に顔を埋めるように、ふうっと吐息をかけます。小刻みに彼女は震えました。
こうやって何度、抱かれただろう。
苦虫を噛み潰したように、彼女の口内に嫌な後味が生まれました。
『一度抱いちまえば、な、言ったとおりだろ』
(そうだ、この男はそう言った)
『まあこんなもんさ。賭けは俺の勝ちだな。ははは』
耳に残る男の嘲笑。彼女に相対した時とは明らかに違う口調。
「離してっ!」
彼女は霞む指先で男を強くはじき飛ばしました。逃げるように距離をとり、ひざから崩れ落ちていきます。また、思い出してしまったのです。男がゲーム感覚で自分を陥れたことを。まぶたを閉じたまま安らいでいた朝、隣で携帯電話に向けている男の声を。
「もう沢山。もう信じない。もう誰も相手になんかしない――」
虚空に向けた叫び。自らの両肩を抱きかかえ、彼女は訴えました。何度も何度も、執拗に。
彼女の視界一杯に広がる幽白な世界。自分の意識だけが存在するような孤独な世界は、しかし何も答えてくれません。彼女に巣食っている傷口は大きくひび割れ、すき間から嘆きの唄がにじみ漏れてきました。
一人よがり 一人きり 変わらないまま
変わらないのは わたしの わがまま?
どんなに辛くても、どんなに苦しくても、人は一人で生きていけません。まして彼女は束の間でも、温もりを、優しさを知ってしまいました。例えまた愛しさを裏切られる日を迎えたとしても、人恋しい気持ちを抱え過ごすことなど出来ないと、胸に刻んでいたのです。
ぽんっと、彼女は肩を叩かれ、面をあげました。少しくたびれた背広を着る、心配そうな顔つきをした男が目に映ります。
「君は一人じゃない。これからも僕はいる。さあ、それを離して、落ち着きなさい」
男は彼女の見えない手に、ゆっくり指先を伸ばしました。その指には鈍く光る平凡な指輪がはめられています。
「ああっ」
急激でした。彼女の視界に彩りが戻り始めました。中古で購入した持ち家。小さな庭が見渡せるリビング。世界は色で溢れかえります。彼女は夫の帰りを待つ妻だったのです。
とりたてて見映えのする夫ではありません。四十を前にして白髪も目立ち、下腹部も出張ってきています。でも、それでも良かったのです。夫が愛してくれるなら。自分だけを見ていてくれたなら。それなのに夕食の買い出し帰り、ある噂を耳に拾ってしまったことから、彼女は自分を見失ってしまいました。
彼女の手に持つ包丁の刃先から、赤い液体がこぼれ落ちます。次いで刃そのものも、床の血だまりへと落下しました。
夫は薄い前髪を額に張りつかせながら、妻に笑って見せました。近所の主婦連中に、自分が浮気しているとでも吹聴されて、信じてしまったのだろうと。
「あ、あなた。わたし……」
「言わんでいい。最近忙しくて構ってやれんかったからな。僕が悪かったんだ』
「でも、でも血が……」
「平気だ。浮気も出来んような下っ腹だが、おかげで傷は浅いさ」
そう言って夫は妻の肩を抱きました。その手の平から伝わってきた確かなもの。彼女は焦がれた愛ある生活が壊れてないことを知りました。
それだけで、現実に帰ってきた彼女にはそれだけで、もう充分でした。
第二回の5分企画の折、参加者さんの参考にでもなればと投稿した作品の改訂作になります。ストーリーそのものは変えてませんので、ご覧になった方がいらっしゃいましたら、ごめんなさいね(汗)