9-5:守るための咆哮
9-5:守るための咆哮
張遼との対話は、華雄の胸に小さな変化を刻んでいた。
それは、かすかな灯火のように頼りなく、今にも風に吹き消されそうでありながら、確かに存在していた。
まだ彼は、自分の進むべき道を見出したわけではない。
だが、董卓に裏切られ、憎悪と絶望に沈みきっていた心が、少しだけ外の光を受け取ろうとしていた。
黒い泥に沈んでいた魂に、わずかながらも「次へ」と踏み出そうとする揺らぎが芽生え始めていた。
その変化が試されるかのように――事件は起きた。
ある日の午後。澄んだ陽光の下で、子供たちが慈愛院の外で遊んでいた時だった。
「おい、ガキども。持ってる菓子を、全部寄越しな」
耳障りな声が空気を裂いた。
三人のならず者が現れた。董卓軍からはみ出した兵士崩れで、日頃から民に悪行を重ねる、街の厄介者たち。
頬には古傷、目つきは濁り、腰には錆びついた剣。全身から漂う臭気と傲慢さが、そこに居合わせた子供たちを萎縮させた。
彼らは獲物を前にした狼のように、にやりと下卑た笑みを浮かべ、子供たちをじりじりと取り囲む。
「はやくしろよ。ガキが持つにはもったいねえ菓子だ」
「こっちは喉も乾いてんだ、早く寄越せ!」
子供たちの顔に恐怖が広がった。
だが華雄は、門の中からその光景を、ただ歯噛みして見ているしかなかった。
捕虜という立場。
今の自分は武器も持たず、片腕も不自由。万が一騒ぎを起こせば、捕虜の分際で勝手をしたと処刑されるかもしれない。
その現実が、彼を鎖のように縛りつける。
――だが、そのとき。
小さな影が、ならず者たちの前に立ちはだかった。
月だった。
声を持たぬ彼女は言葉で訴えることはできない。
しかし、その瞳が雄弁に語っていた。
「仲間を傷つけるなら、まず私を倒してみせろ」と。
その姿に、華雄の胸に稲妻が走った。
脳裏に、捕らわれの身となったままの、自分の幼い娘の面影が浮かぶ。
もし、あの娘が、今この瞬間、このような目に遭っていたら――。
「……やめろ!」
思考より先に、身体が動いていた。
巨体が門を押し開ける音が響き渡る。
リーダー格のならず者が、ユエを突き飛ばそうと汚れた手を伸ばした瞬間――
「―――誰であろうと、俺の目の前で、子供を泣かせることは、許さん!」
地を揺るがすような咆哮が響いた。
その声には、血と戦場をくぐり抜けてきた猛将の迫力が宿り、周囲の空気すら震わせた。
門前に立つ華雄の姿は、まるで城壁。
片腕を失い傷だらけの身でありながら、その存在感は圧倒的だった。
「な、なんだてめえ……」
リーダーの男が、虚勢を張りながら吐き捨てる。
「ただの傷だらけの門番が、偉そうに!」
「俺が誰であろうと関係ない」
華雄の声は低く、しかし刃のように鋭かった。
「問題は――お前たちが今、何をしようとしたかだ」
砕けた右腕にはまだ包帯が巻かれている。
激痛が走るたびに意識が揺らぎそうになる。
だが左腕一本で構えたその姿からは、かつて猛将として名を馳せた獰猛な光が溢れ出していた。
「この場で、叩き殺すぞ」
その眼差しには、かつての「殺戮の炎」ではなく――
「守るための覚悟」が宿っていた。
ならず者たちの背筋を冷たいものが走る。
彼らの本能が告げていた。
この男は、ただの門番などではない。かつて無数の戦場で血を浴び、死線を越えてきた真の武人だと。
「……ちっ、覚えてろ!」
無様な捨て台詞を残し、三人は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
直後、騒ぎを聞きつけて張遼が兵を率いて駆けつける。だがそこに、敵の姿はなかった。
彼の目に映ったのは――子供たちの前に、巨躯を城壁のごとく広げて立つ華雄の姿。
守る者の背中。
その背に寄り添うように、子供たちは怯えるどころか、むしろ尊敬と安心の眼差しを注いでいた。
華雄自身が、一番驚いていた。
「俺は……なぜ、動いた?」
それは衝動だった。だが否、衝動以上の何か。
彼の心は、無意識のうちに決めていたのだ。
あの子供たちを、「守るべきもの」として認識したのだ、と。
かつて血にまみれ、破壊と殺戮のためだけに剣を振るった華雄。
その男の胸に、初めて芽生えた「守る」という感情。
それはまだ小さな芽にすぎない。
しかし、確かにそこに息づいていた。




