9-3:主君の非情
9-3:主君の非情
華雄の内面で、凍りついた氷にひびが走り、かすかな揺らぎが芽生えつつあったその頃――。
洛陽の相国府では、彼の運命を決める冷酷な裁定が、静かに下されようとしていた。
「華雄の件、どうなっておる」
董卓の声は低く、鈍い鉄のように響いた。
その一言に込められたのは、かつての功臣に対する思慮や憐憫などではない。ただ、捨て駒に対する確認の響きであった。
李儒は、片膝をつき、淡々と答える。
「はっ。呂布軍の捕虜となり、今は……貂蝉が設けた孤児院の門番を務めているとか。もはや、牙を抜かれた犬にございます」
董卓の口元に、冷笑が浮かぶ。
「ふん、役立たずめ。戦場で一度しくじった駒など、再び盤上に戻す価値はない。失敗した犬に、くれてやる餌はないわ。奴のことは、忘れよ」
その声音には、かつて猛将と呼ばれ、幾度も命を懸けて戦場に立った男への情は、一片たりとも感じられなかった。
華雄の忠誠と奮戦は、ただ「失敗」という二文字によって、あまりにもあっけなく切り捨てられた。
だが李儒は、それで終わらせはしなかった。
彼は常に、可能性の最悪を見越し、先手を打つことを己の務めとする策士である。
「相国様。一つ、懸念がございます」
「申してみよ」
「万が一、華雄が呂布、あるいは貂蝉に寝返り、我らの情報を漏らすようなことがあれば……思わぬ禍根となりましょう。念のため、手を打っておくべきかと存じます」
董卓の目が細くなる。
「……どうするつもりだ」
李儒は、わずかに唇を歪めた。
「華雄には、并州に年老いた母と、まだ幼い娘がおります。これを洛陽へ呼び寄せ、『保護』いたしましょう。そうすれば、華雄も決して逆らうまい」
「保護」という言葉の裏に潜む残酷さは、董卓にもすぐに伝わった。
それは庇護ではなく、事実上の人質である。
董卓はしばし黙し、次の瞬間、満足げに笑った。
「よい。手配せよ」
かくして、洛陽の暗い帳の下、ひとつの非情な策が動き出した。
――その情報は、やがて、密かに華雄の耳へと届くことになる。
陳宮が張り巡らせた情報網は、相国府の奥深くにまで及んでいた。
密偵からもたらされた報せを手に、陳宮はしばし沈思した。
これを華雄に伝えるべきか、それとも胸の内に秘めるべきか。
伝えれば、華雄の心はさらに乱れる。怒りと絶望に沈み、取り返しのつかぬ行動に出るかもしれない。
だが黙っていれば、彼は何も知らぬまま、大切な家族を董卓の掌中に置き去りにすることになる。
陳宮は、苦渋の末に私を訪ねた。
「……貂蝉様、どう、思われますか」
私は、迷わなかった。
「伝えなさい、陳宮殿。ありのままの事実を。そして、あの火事が李儒の仕組んだ罠であり、華雄殿を使い捨てにするための陽動であった可能性が高いことも。
――彼がどちらの主君を選ぶか、それは、彼自身の心に委ねるのです」
自分の言葉に、私は絶対の自信を持っていた。
華雄の心に灯ったひび割れは、真実という楔によってこそ、大きく広がるはずだと。
やがて、ひとりの伝令兵が華雄を訪れ、その報せを口にした。
「……なんだと? 母と、娘が、洛陽へ……?」
その瞬間、華雄の顔が硬直する。
「はっ。相国様が、ご家族の身を案じられ、わざわざ呼び寄せられたとのこと。今は屋敷の一室にて、丁重にもてなされているそうで……」
その言葉に、華雄の胸を冷たい棘が突き刺した。
“丁重なもてなし”――それが婉曲な表現にすぎないことを、彼は悟った。
それは軟禁。人質。
己を縛るための鎖。
伝令はさらに、陳宮の言葉を伝える。
「陳宮様より伝言が。『先日の火事、偶然にしてはあまりに手際が良すぎた。あれは、貴殿を使い捨てるための李儒の陽動であった可能性が高い』――と」
その刹那、華雄の顔から血の気が引いた。
全てを理解したのだ。
――あの火事は罠だった。
――自分は最初から、駒として見捨てられる運命だった。
――そして今、家族までもが、人質として鎖につながれた。
「……っ」
喉の奥から、獣のような低い唸りが漏れた。
胸を焼き尽くす絶望。
それと同時に、これまで感じたことのないほど激しい怒りが、彼の全身を震わせた。
自分が命を懸けて仕え、忠誠を尽くした主君――董卓。
その男は、失敗したと見れば、己をあっさりと見殺しにし、今度は最も大切な家族を、鎖のごとく利用する。
それはもはや、主従の情ですらない。
ただの残酷な搾取。
華雄は、その瞬間、思い知ったのだ。
――俺は、愚かだった。
信じてはならぬものを信じ、命を懸けるべきでないものに尽くしてきた。
その愚かしさが、今や最愛の者を危険に晒している。
怒りと悔恨の渦が、華雄の胸をかき乱した。
その瞳に、もはや従順な犬の色はなかった。
ただ、主君の非情に裏切られた男の、剥き出しの怒りだけが燃え盛っていた。




