1-8:未来の記憶
1-8:未来の記憶
それは、単なる「知識」という形ではなかった。
脳裏に押し寄せてきたのは、乾いた文字でも、冷たい年表でもない。まるで私の意識そのものを呑み込み、押し流す奔流――鮮烈な映像と生々しい感情を伴った「歴史の実感」だった。
まず見えたのは、官渡。
果てしない河北の大地が、血と泥で塗り潰されていた。
袁紹と曹操、二人の覇者のぶつかり合い。地を震わせる鬨の声、飛び交う矢が空を覆い、馬の嘶きと兵士の絶叫が、四方八方から押し寄せてくる。
鉄がぶつかり合う鋭い音と、刃にこびりつく血の生臭さが、鼻腔を突く。
剣で断たれた腕が、泥に落ちる。
血に染まった雨が、頬を叩く。
私は、傍観者ではなかった。まるでその戦場に放り込まれ、泥と血の中に立ち尽くしているようだった。
次に、場面は唐突に新野へと移る。
劉備軍は追撃を受け、逃げ惑う民が雪崩のように道を埋め尽くしていた。
母親を失い、赤子を抱えた父親が必死に駆ける。
炎が家々を飲み込み、屋根が崩れ落ちる度に、絶望の叫びが夜空を裂く。
誰かが転び、群衆が踏み越えていく。その足下には、まだ温かい命が転がっていた。
火の粉が舞い、焦げた匂いが全身を覆う。
胸が締め付けられ、吐き気を堪えながらも、私はその光景から目を逸らせなかった。
そして、赤壁。
長江が、巨大な炎の龍となって渦巻いていた。
炎の舌が水面を嘗め、船団を次々と呑み込んでいく。
鎖で繋がれた船は、逃げ場を失った巨大な棺。
甲板に押し寄せた兵士たちが、我先にと川へ飛び込み、そのまま渦に飲まれ、二度と浮かんではこなかった。
焼け付く熱風が頬を裂き、立ち上る蒸気が視界を白く塗り潰す。
耳元で、数万の断末魔が重なり合い、轟音となって響く。
私は両手で耳を塞いだ――けれど、止まらない。魂を貫くような叫びは、肉体では防ぎようがなかった。
夷陵、五丈原……。
英雄たちが次々と倒れていく。
だが、その背後で、もっと多くの名もなき人々が飢え、病み、殺され、あるいは忘れ去られていった。
幻視のように、戦火に焼かれる村が見えた。
道端には白骨が並び、腐臭が漂う。
母を呼びながら泣く子供が、やがて声を失い、冷たい土に伏す。
私はそれらを知識として「知っていた」はずなのに、その時の私は、まるで全てをその場で体験しているかのように震えていた。
そして――私は、この連鎖の果てを知っている。
三国はやがて疲弊し、晋の統一を迎える。
けれど、その平穏は幻にすぎない。
すぐに五胡十六国の嵐が吹き荒れ、さらなる混沌と殺戮の時代が訪れる。
この世界は、救いのない流れに囚われているのだ。
私の運命への悲嘆は、知らぬ間に、この世界そのものへの深い哀れみへと変わっていった。
胸の奥が、張り裂けそうに痛い。
――でも、その瞬間、息を呑む。
心臓を鋭い光が突き抜けた。
そうだ。
私は『知っている』。
この地獄の行き着く先を、すべて知っている。
それは、王允も、董卓も、呂布も、曹操でさえも、誰ひとり持たぬ最強の武器だ。
絶望の海に沈みかけたその時、私の手に初めて「光」が触れた。
――できるのか?
現代日本で、ただの会社員として生きてきた私に。
人を魅了するカリスマも、国を動かす権力もない。
あるのは、この見目と、この頭の中に詰まった未来の断片だけ。
だが――やるしかない。
やらなければ、私も、この世界も、ただ滅びの渦に飲まれていくだけだ。
王允は私を『駒』と呼んだ。
いいだろう。
だが私は、彼の操るただの駒ではない。
盤上のすべての駒の動き、その先の展開、最終的な勝敗までを見通せる、唯一無二の駒だ。
ならば――。
この美貌は呪いではない。
人の心を動かし、戦の流れさえも変えるための『力』だ。
この知識は、未来を創るための『知略』だ。
唇が震える。
それでも言葉にした。
「私は……駒じゃない。私は……勝つ駒だ」
その声は小さく、かすれていたが、確かな熱が宿っていた。
絶望に凍りついていた心臓が、再び鼓動を打ち始める――熱く、強く、未来を切り開く音を立てながら。