1-7:絶望の涙
1-7:絶望の涙
「養父様の……お心のままに。この身、漢室のために……お使いくださいませ。」
それは、ほとんど意識の外から口をついて出た言葉だった。
心の奥では、誰よりも強く拒絶しているのに、唇は恭順の形を作り、声は無意識に従属の響きを帯びていた。
私の返事を聞いた瞬間、王允の顔が花開くように綻んだ。
「おお、さすがは我が娘だ! よくぞ決心してくれた! お前がいてくれるなら、漢室の再興も夢ではないぞ!」
彼の声は喜びに震えていたが、その震えは私の胸に一片の温もりも与えなかった。
目の前の男は、私の「覚悟」を讃え、高揚した口調でこれからの計略を語り始める。董卓の動き、呂布の性格、そして私がどう立ち回るべきか。ひとつひとつの言葉が、冷たく硬い釘となって私の心に打ち込まれていく。
――だが、その声はもう私には届いていなかった。
耳には確かに彼の声が響いている。けれど、それは遠い遠い水底から聞こえる濁った音のように、意味を結ばず、ただ空虚に揺れていた。
頭の中が真っ白になり、まるで自分の体がそこに存在していないかのような、ふわりとした浮遊感に包まれる。意識は遠く、しかし足元には重く冷たい何かが絡みついていた。
どうやって部屋を後にしたのか、記憶は曖昧だった。
気がつけば、私は自室の冷たい床に、膝から崩れ落ちていた。灯火は揺れ、壁に長い影を落としている。影はゆらめきながらも、まるで私をあざ笑うかのように形を変えていた。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる。
「……いや……っ」
かすれた声が、夜の静寂を裂いた。
堰を切ったように、嗚咽がこみ上げる。
「嫌だ……死にたくない……!」
豪奢な絹の衣は乱れ、髪は頬に張りつき、息は乱れた。そんなことなど気にも留めず、私は床に突っ伏した。
体が小刻みに震える。胸の奥から、どうしようもない恐怖が込み上げ、押し潰そうとする。喉は痛み、息は途切れ途切れになりながらも、涙だけは止まらなかった。
悔しさ、恐怖、そして――何よりも無力感。
現代で、理不尽な上司やクライアントに頭を下げたことは何度もあった。だが、それは生活のため、自分が選び取った戦いだった。私が決め、私が耐えると決めたことだった。
これは違う。
生きることも、死ぬことも、すべて他人に決められてしまう。
道具として生まれ、道具として弄ばれ、道具として壊される。
人としての尊厳も、意思も、感情も――全て、不要とされている。
どうして、そんな運命を受け入れなければならないのか。
私は人形ではないのに。
涙と共に、もう二度と戻れない日々が脳裏に浮かぶ。
コンビニで買った冷えたビールを片手に、好きなバラエティ番組を見て笑った夜。
休日のカフェで、友人と他愛もない話をしながらケーキを食べた午後。
読みかけの小説の続きを楽しみに、布団にくるまった雨の日。
――あの、当たり前すぎて気にも留めなかった日常が、どれほど温かく、尊いものだったか。
胸の奥で何かが軋む音がした。
それは、現実がゆっくりと私の中の希望を押し潰していく音だった。
涙は止めどなく溢れ、頬を伝い、床に落ちては小さな水溜まりを作る。
乱世に咲く美しい花――そう呼ばれる裏側で、駒はただ、自分の無力さを呪い、絶望の闇に飲み込まれていくしかなかった。
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。
やがて涙は枯れ、息はかすれ、ただ虚ろな瞳だけが夜空を見つめていた。
開け放たれた窓からは、雲間にのぞく月が、冷ややかな光を投げかけてくる。その白い光は、まるで「お前はここから逃げられない」と告げる牢獄の明かりのように思えた。
静寂が、思考を研ぎ澄ませていく。
――このまま、王允の言う通りに『駒』として舞い、死ぬのか?
呂布と董卓の間で弄ばれ、運良く生き延びたとしても、その先は別の誰かの手に渡り、また同じように駒として生きるだけなのか?
諦めと、抗いがたい反発心が、胸の中でせめぎ合う。
その瞬間――
稲妻のような閃光が、私の脳裏を走った。
それは、私が「私」であった頃に積み上げた、膨大な『知識』の奔流だった。
この乱世では誰も知らない、歴史の流れとその行く末。
そして――それを変える可能性を秘めた、唯一の武器。
私の震えは、次第に別の意味を帯び始めていた。
恐怖だけではない。
胸の奥に、微かな火が灯り始めていた。