7-7:暴君の恐怖
7-7:暴君の恐怖
華雄を生け捕りにしたという報せは、翌朝、洛陽の街を嵐のように駆け巡った。
それは、早朝の霧を切り裂く雷鳴のごとく、静まり返った都に二つの異なる波紋を広げた。
一つは、相国府を揺るがす怒りと焦燥の波紋。
もう一つは、民衆の間に芽吹いた、抑えきれぬ期待とざわめき――。
「……あの、役立たずめが!」
相国府の玉座の間。
董卓は報告を聞くや否や、獣の咆哮のような声をあげ、太い腕で玉座の肘掛けを握りつぶした。
瞬間、ぶ厚い木が悲鳴を上げ、バキバキと裂け、破片が床に飛び散った。
近くに控えていた文官たちは、一様に息を呑み、うつむき、決して董卓の目を見ようとしなかった。
誰もが、この肥え太った暴君の逆鱗に触れれば、己の首が即座に胴から離れることを知っていたからだ。
「たかが小娘一人に……奉先の奴だけでは足りず、華雄までが手玉に取られるとは! 我が軍の面目は、地に落ちたわ!」
怒声が広間を揺らし、外の庭にいた鶴さえも驚いて飛び立った。
だが――その怒りの底には、決して隠せぬ別の色が混じっていた。
それは、得体の知れぬものへの、明確な恐怖だった。
董卓は、もはや認めざるを得なかった。
あの女――貂蝉は、ただの舞姫ではない。
艶やかな顔に隠された冷徹な知恵。
背後に誰かが控えているのか、それとも彼女自身が策を練っているのか――それは分からぬ。だが、確かに一歩、いや二歩先を読み、確実に手を打ってくる。
その恐怖は、暴君の心をじわじわと蝕み始めていた。
その傍らで、軍師・李儒が一歩前に出た。
いつもは薄笑いを浮かべた男だが、今は唇を結び、眼光鋭く言葉を紡ぐ。
「相国様。問題は、華雄が敗れたことではございません。
……彼が、“生かされた”という事実です。」
「生かされた……? どういうことだ。」
董卓は、眉をひそめた。
李儒は、淡々と、しかし一言一言を鋭い刃に変えて語る。
「もし呂布将軍が、従来通りの“猛将”であったなら、華雄はその場で首を刎ねられていたはず。ですが……彼はそうしなかった。
これは間違いなく、貂蝉の入れ知恵。
華雄を生かすことで、“いつでもお前たちの将を捕らえることができる”という、無言の圧力をかけてきているのです。」
董卓の喉が、ごくりと鳴った。
李儒の声はなおも続く。
「そして、もし我らが華雄を見捨てれば、その冷酷さが露見し、呂布軍の“慈悲深さ”が際立つ。
逆に、身代金を払って取り戻せば……我らの弱みをさらすことになる。
どちらに転んでも、我らに利はない。」
李儒は言葉を区切り、低く吐き捨てるように締めくくった。
「――あの女、恐るべき知恵者です。」
広間の空気が重く沈んだ。
董卓の太い首筋を、冷たい汗が一筋、背中へと伝う。
彼はついに悟ったのだ。
己が、ただの飾り物と侮っていた少女に、完全に後手へ回らされていることを。
「……して、華雄の身柄は、どうするのだ。」
董卓は、声を押し殺すように問うた。
李儒は無言で懐から一枚の木簡を取り出す。
「それが……先ほど、呂布将軍の使者より、この書状が。」
董卓は、それを乱暴に引ったくった。
太い指が、竹簡の紐をちぎらんばかりに引き裂き、中の文を睨みつける。
「我が許嫁を狙った無礼、許し難し。
だが、彼女の慈悲により、華雄殿の命は、一時、預かることとする。
もし彼が恋しいならば、彼が奪おうとしたものの代償として、貴殿が最も愛する赤兎馬をこちらへお譲りいただきたい。
さすれば、華雄殿の身柄は、お返ししよう。」
その瞬間、董卓の瞳孔がぎゅっと縮んだ。
「……赤兎馬を、だと!?」
咆哮が玉座の間を突き抜けた。
赤兎馬――一日千里を駆ける、天下無双の名馬。
董卓が最も愛し、どの美女よりも大切にしてきた宝。
それを、華雄一人の命と引き換えろというのか。
「……あの女め……俺の心を、読みおったか……!」
董卓は歯ぎしりをし、分厚い唇の端から血が滲むほどだった。
呑むも地獄、断るも地獄。
この取引の意味を、彼は嫌というほど理解していた。
李儒は、一歩前に進み、静かに言葉を落とす。
「相国様。ここは……退くべきです。
赤兎馬は惜しい。ですが、今ここで華雄を見捨てれば、他の将たちの心が確実に離れます。
今は、呂布将軍を懐柔することに全力を注ぐべきです。」
董卓は、長く、重い息を吐いた。
玉座の上で巨体を揺らし、両の拳を握り締め、そして――屈辱に顔を歪ませながらも、李儒の言葉に従うしかなかった。
彼の胸中には、燃え盛る怨嗟の炎と、背筋を這い上がる冷たい恐怖とが、同時に渦巻いていた。
そのとき、彼はまだ知らなかった。
この屈辱が、後に洛陽全土を血に染める大嵐の、最初の雷鳴となることを――。




