1-6:至高の『駒』
1-6:至高の『駒』
書斎の空気は、濃い墨のように重く、肌にまとわりつくようだった。
壁に掛けられた古地図と、その上に無造作に置かれた木製の駒。王允はそれを指先でつまみ、音もなく滑らせる。まるで戦場の兵を動かすように、淡々とした手つきだ。
「知っての通り、今や董卓が国を私物化し、万民が苦しんでおる。奴を討たねば、漢に未来はない」
低く抑えた声。だがその中には、沸騰寸前の熱が潜んでいる。
「しかし、奴の傍らには、天下無双の猛将――呂布がおる。あの鬼神がいる限り、誰も董卓には手出しできぬ」
私は、彼の言葉を一言一句逃すまいと聞いていた。
歴史書の中で何度も目にした場面が、今まさに私の目の前で再生されている。けれど本の活字よりもずっと生々しく、血と匂いを伴って迫ってくる。
王允は駒から指を離し、両手を背後で組むと、窓の外へ視線をやった。
「董卓は強欲で、猜疑心が強い。呂布は武勇に優れるが、単純で、女と名馬には目がない。二人は互いに不可分だが、その絆は脆い……」
言葉を切り、ふと私へ振り向く。その瞳が、刀身のように光った。
「その隙間を――突くのだ」
全身が粟立った。彼の視線が、私をひとつの「札」として見定めた瞬間を、肌で感じた。
「その隙間に、絶世の美女である『お前』を投げ込む」
呼吸が止まり、空気が喉でせき止められる。
頭では分かっていた計画だ。だが、その口から直接突きつけられると、胸の奥に冷水を浴びせられたような衝撃が走った。
王允は、駒を二つ掴み上げる。片方を「呂布」と呼び、片方を「董卓」と呼ぶ。
「まず、お前を呂布に引き合わせ、嫁がせる約束をする。あの男のことだ、必ずやお前に夢中になる」
駒同士を近づけ、そして――唐突に引き離し、別の駒と入れ替えた。
「その直後、私は董卓を招き、お前を奴に献上する」
呂布の駒が空を切り、董卓の駒がその場所を奪う。
盤上で繰り返された駒の動きが、私の未来の縮図に思えて、吐き気をこらえた。
「呂布から許嫁を奪う形になる董卓。そして想い人を奪われた呂布。二人の鬼は、必ずやお前のために争う。やがて憎しみは燃え上がり……同士討ちに至るだろう」
彼の声は次第に高まり、その目は異様な輝きを帯びる。
自らの計略の美しさに酔いしれているのが、はっきりと分かった。
一人の少女の運命を、盤上の駒のように配置し、血で塗られた筋書きを描きながら――そこに何の罪悪感も見出していない。
「お前を危険な目に遭わせることになるのは分かっている」
わざとらしく眉をひそめる。だがその口元は、どこか笑っていた。
「だが、これもすべて漢室をお救いするため。お前の美貌は、天がこの時のために授けてくださったのだ」
その言葉とともに、王允の手が私の肩に伸びる。指先が触れる寸前、私は反射的に身を引いた。
不快と恐怖が、同時に背骨を走ったからだ。
しかし、彼はまったく気に留めない。むしろ、うっとりとした眼差しを向け、静かに言い放った。
「お前は、この国を救う天からの贈り物。相打ちのための、至高の『駒』なのだ」
――駒。
その一語が、鋭く尖った氷の刃となって、私の胸を貫いた。
それは人格の否定であり、未来の剥奪だった。
私の意志も感情も価値も、すべては削ぎ落とされ、「美しいだけの道具」として形を留める。役目を終えれば、盤上から払われる駒。
怒りは湧かなかった。
それよりも、身体の奥底がじわじわと凍りつく感覚があった。
誰の言葉も届かない場所に、私が押し込められていくようだった。
私は唇を開く。声を出すのに、驚くほどの力が要った。
「……承知、いたしました」
自分の耳に届いた声は、あまりにも平坦で、色を失っていた。
それはきっと、駒としての私が、初めて口をきいた瞬間だったのだ。