5-7:鬼神の純情
5-7:鬼神の純情
彼の純粋な好意は、私を少しだけ——いや、確実に——困惑させていた。
これはあくまでも計略の一部であり、私は彼を駒として動かしているにすぎない。
そう、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど、彼がまっすぐに私を見つめる時、その瞳の奥に宿る熱と誠実さが、心の奥の氷をじわりと溶かしてしまうのだ。
その瞬間、私は危うくなる。冷静な策士としての自分を保ちきれなくなりそうになる。
「呂布将軍、そのようなお心遣いは不要です。私は、お客様なのですから」
努めて軽やかに言葉を返すと、彼の表情がふっと翳った。
戦場では鬼神と恐れられるその顔が、まるで叱られた子供のように寂しげに曇る。
「だって……お前は俺を助けてくれたのだから」
大きな肩がわずかに落ち、声音は驚くほど柔らかかった。
「お前がいなければ、俺は……兵たちが病で死んでいくのに気づきもしない、愚かな将のままだった。だから、少しでも、お前に恩返しがしたいのだ」
その言葉に一片の嘘もなかった。
彼は、本気でそう思っている。
私が施した衛生改革が、兵の命を救い、軍を強くしたことを——心の底から感謝しているのだ。
胸の奥に、小さな棘のような痛みが走った。
私は彼を騙している。彼の善意を、利用している。それが事実だ。
だが、そんな事実さえ、この場では彼のまっすぐな瞳が押し流してしまいそうになる。
私は視線を逸らした。ここで揺らいではならない。
私の目的は、もっと先にある——董卓を討ち、洛陽を変えるという、はるかに大きな野望だ。
ある夜、涼やかな風が軍営を撫でていく頃、私は月明かりの下で彼の天幕を訪れた。
白く冴えた月光が、夜空に大きな輪を描き、静寂の中に銀色の世界を広げている。
天幕の前には、ひときわ大きな影があった。
呂布が、一人、愛用の方天画戟を手入れしていたのだ。
油を塗った布が刃を滑り、月光を反射して妖しい光が走る。まるで刃が夜の闇を切り裂くかのようだった。
「呂布将軍」
私の声に、彼の手が止まる。
「貂蝉……? こんな夜更けに、何かあったのか?」
驚いたように眉を上げ、慌てて立ち上がる。
いつも堂々としたその姿が、今はどこかぎこちない。
私は一歩近づき、彼の瞳をじっと見据えた。
「呂布将軍、貴方は……どうして戦うのですか?」
その問いは、あまりにも唐突だった。
しかし私には、ずっと彼に聞きたいと思っていたことでもあった。
呂布は、言葉を失ったように私を見返す。
その表情には、少年のような純朴さと、戦場を駆け抜けた修羅のような激しさが混ざっている。
戦うことは彼にとって呼吸と同じ。当たり前すぎて、理由など考えたことがないのだろう。
「……強くなりたいからだ。そして、もっと……天下に名を轟かせたい」
やっと出たその答えは、表向きの彼らしい言葉だった。
私は、さらに踏み込む。
「それは……本当の理由ですか?」
その瞬間、彼はわずかに息を呑み、視線を逸らした。
月明かりの下、その横顔がどこか脆く見えた。
「……強くなって……義父上、董卓様に、認められたい」
かすれるような声だった。
「そうすれば……俺はもっと、自由になれる……そんな気がするんだ」
その告白に、胸が締め付けられた。
戦場で「鬼神」と恐れられる男の心の奥底に、父に褒められたいと願う、幼子のような切なさが潜んでいる——その事実が、痛いほど伝わってくる。
彼はきっと気づいている。
董卓にとって、自分が単なる使い捨ての道具であることを。
だが、認められたいという渇望が、その事実を直視することを拒ませているのだ。
私は、その渇望を——利用する。
胸の奥に一瞬、迷いがよぎったが、すぐに飲み込んだ。
それが、私の選んだ道なのだから。
呂布は再び戟に目を落とし、刃を磨きながら呟く。
「俺は……もっと強くなる。董卓様にも、そして……お前にも、認められるほどに」
その声は夜風に溶け、私の耳に熱を残した。
私は月光の中、彼の横顔を見つめながら——その純情を裏切ることになる未来を、誰よりも鮮明に思い描いていた。




