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1-5:連環の計

1-5:連環の計

「……お言葉、身に余りまする」


やっとのことで、それだけを口にした。

声がわずかに震えていたのは、恐怖か、それとも嫌悪か。

どちらにしても、今この場でそれを悟られるわけにはいかない。

私は深く頭を垂れ、長い睫毛の影に瞳を隠す。

この男――養父・王允――の鋭い眼光に、私の本心を見抜かれてはならない。


視線を上げれば、きっとその奥底まで穿つような冷たい光に射抜かれるだろう。

だから私は、額が膝に触れるほど深く礼をしたまま、息を殺してやり過ごすしかなかった。


「うむ。ゆっくり休むが良い」

王允の声は、優しさよりも硬質な響きを帯びていた。

「お前には、これから国のために、大きな役目を果たしてもらうことになるやもしれぬからな」


その一言が、胸の奥に氷の刃のように突き刺さる。

「役目」――それは娘に語りかける言葉ではない。

将棋盤の上の駒に向けられる、無慈悲で計算高い響きだった。


満足げな笑みを残し、彼はゆったりと部屋を去っていった。

衣の裾が廊下を擦る音が遠ざかっていくにつれ、私はようやく息を吐き出す。

膝の力が抜け、その場に崩れ落ちた。

薄い畳越しに伝わる冷たさが、皮膚だけでなく、心の奥まで染み込んでいく。


――もう、すべて分かってしまった。


状況を整理する。

養父・王允は、漢室に忠誠を誓う名臣だ。そして董卓を心の底から憎んでいる。

董卓の背後には、天下に名を轟かせる武人・呂布がいる。二人の絆は鉄よりも固く、正面から攻めても崩せはしない。

その間に割って入るには――。


私は、自分の顔を手で覆った。

その手のひら越しに感じる肌の滑らかさと温かさは、この世界で私に与えられた唯一無二の「武器」だ。

そして、それをどう使うべきかは、すでに歴史が語っている。


――王允。董卓。呂布。そして、貂蝉。

頭の中で名前が並び、重なり、やがてひとつの血塗られた策へと形を成す。

あまりにも有名な策謀。

その名を、私は呪いのように思い出してしまった。


「連環の計」――。


美貌を武器に呂布を誘惑し、心を絡め取る。

その後、董卓に献上され、あえて二人の間に火種を撒く。

嫉妬と猜疑を煽り、義父と養子を互いに殺し合わせるのだ。


そのための、美しき毒。

それが、私――貂蝉に課せられた役割。


成功すれば、私は歴史に名を刻むだろう。

「傾国の美女」として、千年先まで語られるかもしれない。

だが、それは決して誇りではない。

破滅を運ぶ毒としての名誉など、冷たい墓碑と何が違うだろう。

失敗すれば……その先は、想像するだけで喉が締め付けられる。

董卓や呂布の手に落ちれば、私はただの玩具として弄ばれ、そして捨てられる。

どちらに転んでも、未来に「幸福」という二文字は存在しない。


なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

あの世界では、平凡でも、自分の意志で生きることができた。

小さな幸せも、自分で掴めばよかった。

それが、今はどうだ。

私の意志など、芥子粒ほどの価値もない。

この世界では、私はただの駒。

美しいというだけで、命すらも戦略の中に組み込まれる。


胸の奥から、ゆっくりと、重たい絶望が這い上がってくる。

それを押し返そうと、私は膝を抱えて身を縮めた。

けれど、それは波のように寄せては返し、やがて心を覆い尽くしていく。


まるで、死刑執行を待つ囚人のような心地で、私は数日を過ごした。

日差しが障子越しに差し込み、季節の移ろいを告げても、心は氷の中に閉じ込められたままだ。

食事の味はなく、眠っても浅い夢の中で目が覚める。

その夢でさえ、血の匂いと怒号が付きまとう。


そして――ある日の午後。

ついに、その時は訪れた。

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