5-3:仁将への第一歩
5-3:仁将への第一歩
彼の真摯な問いに、私はゆっくりと息を整え、静かに頷いた。
――ここが勝負どころだ。
この瞬間、ただの美女ではなく、彼にとって不可欠な「参謀」として自分を印象づける。呂布という巨大な獣の首輪を手中に収める、その第一歩。
「はい、将軍」
私は少し前に身を乗り出し、彼の瞳をまっすぐ見据えた。軍営のざわめきが遠のく。
「私が都で行った衛生改革と同じように、この軍営の環境を改善いたしましょう。まずは汚物の適切な処理。そして兵士たちに清潔な水と栄養ある食事を与えること。さらに、定期的な沐浴を義務づけ、病を早期に発見し、手当てを行うこと……。これらを徹底すれば、兵士たちの健康は格段に向上し、戦闘能力も飛躍的に高まります」
私の声は穏やかだが、一言一言に重みを乗せた。彼の耳に、この策が単なる婦人の思いつきではなく、勝利を引き寄せる戦術であると刻み込むために。
私は順序立てて、細かく計画を提示していった。
厠は炊事場や兵舎から離れ、必ず風下に掘ること。地下水に汚物が混ざらぬよう、穴は深く、しかも地中の水脈を避ける必要があること。
飲み水は必ず煮沸すること。生水がどれほど病を招くか、わかりやすい例を挙げて説明すること。
食料庫は高床式にし、湿気と鼠を防ぐ。
月に数度、兵士全員を沐浴させ、衣類を洗濯する――
この時代の常識では、奇異どころか滑稽に聞こえる内容だろう。特に「水を煮沸せよ」「兵士に湯浴みを命じよ」など、怠け者には面倒としか思えまい。
「なるほど……」
呂布の口元に、戦場で獲物を見つけた時のような光が走った。
「それをやれば、俺の力も最大限に引き出せる、というわけか」
そうだ、彼は純粋なのだ。目的はただ一つ――「強くなる」こと。天下にその名を轟かせること。私の提案は、彼の心をくすぐる新しい武器に見えたのだろう。
「はい、将軍。そしてそれは、ただ強いだけの軍を作るのではなく、兵と民を守る“仁将”となるための第一歩でもございます」
「仁将……?」
呂布は、ほんの少しだけ視線を逸らし、耳まで赤くした。
「そんな大層なものじゃなくていい。俺はただ、誰よりも強くありたいだけだ」
私は微笑を抑えた。――まだ気づいていない。己が何者になれるのか、どんな伝説を纏えるのか。
「いいえ、将軍」
私は穏やかに、しかし熱を込めて続けた。
「強さを支えるのは兵士たちの心です。彼らが命を賭けて将軍のために戦うには、将軍が彼らの命を守ると示さねばなりません。その第一歩が、この衛生改革なのです」
彼の瞳に、炎が灯った。
「分かった! 貂蝉、お前の言う通りにしよう! 陳宮! 張遼! 全軍に直ちに徹底せよ!」
呂布の雷鳴のような声が軍営に轟き渡る。
陳宮と張遼は、思わず顔を見合わせた。
「将軍……本気で?」陳宮の声には戸惑いが滲む。
「兵に、そのような雑務を……」
「何だ、文句があるのか!」
呂布の眼光が閃く。
「貂蝉殿が我が軍を強くするための策を授けてくれた! これは雑務ではない、戦の一部だ! 異論があるなら俺に言え!」
その声には、一切の揺らぎがなかった。
しかし、命令が伝わるや否や、兵たちの間はざわつき始めた。
「おい、聞いたか? 厠を綺麗にしろだと?」
「水を沸かせ? 冗談じゃねえ、女子供じゃあるまいし」
「呂布様、あの女に操られてるんじゃ……」
古参の兵ほど反発が強かった。彼らにとって武人の誇りとは、敵を討つことであり、汚物処理や雑務など屈辱以外の何ものでもない。
軍営の空気が、初めて軋んだ。
陳宮と張遼は板挟みになり、険しい表情で私を一瞥した。
――予想通りだ。
私は心の奥で、小さく息を吐いた。反発は必ずある。それをどう抑え、どう変えていくかが、この策の本当の勝負なのだから。




