1-3:ここは後漢、都は洛陽
1-3:ここは後漢、都は洛陽
背筋を、冷たい汗が一筋、まるで氷の針のように流れ落ちていくのがわかった。
胸の奥で、心臓が小さく震えながら、しかし必死に脈打っている。その速さは、私の混乱を余すことなく物語っていた。
――私が『貂蝉』に転生した。
その事実は、どんな怪談やホラー映画よりも、はるかに恐ろしかった。なぜなら、彼女の名の結末を、私は歴史と物語の中で知っている。そこに待つのは、栄華でも安寧でもなく、血と涙にまみれた結末なのだから。
パニックに押し流されそうになる意識を、目の前の侍女の存在が、かろうじて現実世界に繋ぎとめていた。
彼女は、私が自分の名を口にしたことで、「記憶が戻った」と信じているらしい。その勘違いは、今の私にとってはまさに命綱だった。余計な質問や詮索を避けられるだけでなく、私がこの世界の常識に疎いことを隠す隠れ蓑になる。
「小蘭と申します。お嬢様のお側に仕えさせていただいております」
柔らかく微笑みながら名乗る彼女の声は、鈴を転がすように澄んでいるのに、どこかこの時代の緊張感を帯びていた。私は、喉の奥にこびりついた恐怖を必死に押し込み、平静を装って小さく頷いた。
「小蘭……。私、どれくらい眠っていたの? なんだか、頭がぼんやりして……」
記憶が混濁しているふりをしながら、私は慎重に言葉を選び、彼女から情報を引き出す。この世界の常識も、私の立場も、何一つ分からない。今は、聞くこと、観察すること、それだけが生き延びる術だ。
「三日三晩でございますよ、お嬢様。旦那様が、都一番と評判だった舞の稽古場から、お嬢様を見出されて、このお屋敷に養女としてお迎えになってから、もう随分と経ちます。本当の娘のように、大切に思っておられますよ」
小蘭の言葉は優しいが、その中に混ざる「旦那様」の響きが、私の心臓をひやりと締め付けた。
「そう……。ここは……?」
「旦那様の、洛陽のお屋敷でございますよ」
洛陽――その名を耳にした瞬間、胸の奥で何かが鈍く響いた。
後漢王朝の都。やがて無数の悲劇が重なり、血で染まることになる場所。私が三国志の本で読み、頭の中で何度も想像した舞台が、今、目の前の現実として広がっているのだ。
小蘭との会話は、まるで欠けたパズルのピースを一つずつ拾い集めるようだった。
そして、組み上がった絵は――見たくもない未来をはっきりと描いていた。
今は、相国・董卓が権力を握り、帝をないがしろにして政治を私物化している時代。
そして、私の養父は、漢王朝の三公の一つ、最高位の文官である司徒、王允。
間違いない。ここは物語のまさに始まりの舞台。董卓の暴政、諸侯の反発、反董卓連合の結成――そして、私という存在が、その渦中で計画の駒として動かされる。
胸の奥で、趣味で読み漁った三国志の知識が、けたたましく警報を鳴らす。
これから先、この国は血で血を洗う混乱の時代に突入する。しかも私は、その引き金を引く役目を背負わされている。知らなければよかった未来の結末が、容赦なく脳裏に浮かび、胃のあたりを鋭く締め付けた。
窓の外に目を向ける。
かつて華やかであったはずの都は、薄い靄に包まれたように沈んで見えた。石畳を行き交う人々の顔は疲れ、笑顔はどこにもない。遠くから聞こえてくるのは、商人たちの威勢の良い声ではなく、甲冑の擦れる音と兵士の怒号、そして女や子どものかすかなすすり泣き。
小蘭が言っていた「不穏な空気」が、肌で触れられるほど濃く、この街を覆っている。
「……董卓様は、そんなに恐ろしい方なの?」
恐る恐る尋ねると、小蘭の肩がぴくりと跳ねた。彼女は慌てて周囲を見回し、私に身を寄せるようにして声を潜める。
「お嬢様、そのようなお言葉、決して人前では……。董卓様とその兵の方々は、西涼の荒くれ者。逆らう者は、赤子であろうと容赦なく……」
その言葉の先は、唇が震えて続かなかった。しかし、彼女の瞳の奥に浮かぶ、純粋で濁りのない恐怖が、すべてを物語っていた。ここは、法も正義も、一部の権力者の気まぐれ一つで簡単に踏みにじられる世界なのだ。
そして私は――この危うい時代の中で、最も危険な駒のひとつとなる。
抗おうにも、抗える立場ではない。だが、抗わなければ、結末は知っているとおりだ。
そのときだった。
部屋の外から、感情を押し殺した、しかし抑えきれぬ怒りを帯びた低い声が聞こえてきた。
養父――王允の声だった。
重く、鋭く、まるでこの屋敷全体を張り詰めた糸で包み込むような響き。その瞬間、私は悟った。
これから、私の運命の歯車が、本格的に回り始めるのだ――。