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1-2:鏡の中の絶世

1-2:鏡の中の絶世

古代の衣装をまとったその女性は、私の混乱した思考に現実感を突きつける存在だった。

ゆるやかに垂れた袖が床をかすめるたび、微かに香る花のような匂いが空気を撫でる。衣の布地は光を柔らかく反射し、歩くたびに水面のような揺らぎを見せていた。


その動きは、まるで湖面に浮かぶ白鷺のようだ。音を立てず、静かに、しかし迷いなく私のもとへと近づいてくる。現代で見るどんな所作よりも、計算され、研ぎ澄まされ、そして美しい。


「三日もお眠りでしたので、旦那様もご心配なさっておりました。お加減は、いかがでございますか」


旦那様――。

耳に残るその言葉が、私の頭の中で何度も反響する。

旦那様? 誰のこと? いや、そもそも「私」は誰なのか。


答えようと喉が動きかけた瞬間、全身を走る警告のような寒気が私を止めた。

ここで軽々しく言葉を発すれば、この身体の本来の持ち主ではないと知られてしまう。そうなれば……何が起こるかはわからないが、ろくなことにはならないだろう。

胸の奥で、不安が形を持って膨らんでいく。


だから私は、ただ黙って彼女を見返すしかできなかった。

その沈黙を、彼女は体調不良によるものだと解釈したらしい。視線には、ほんのりとした同情と心配が混じっていた。


「無理もございません。お庭で倒れられているのを使用人が見つけたのです。きっと、最近の都の不穏な空気に、お心が疲れてしまわれたのかもしれませぬ」


――都の不穏な空気?

その言葉は、まるで遠い物語の一節のようで、現代人の私には現実感がなかった。ただ、彼女の口調はあまりにも自然で、この世界が夢や幻ではない可能性を否応なく思い知らせる。


やがて侍女は、柔らかな笑みを浮かべながら言った。

「お顔をご覧になりますか?」


その声は、病み上がりの子どもをあやす母親のように優しい。

彼女は棚から、両手で大事そうに青銅の手鏡を取り出した。龍や鳳凰が絡み合うように刻まれた文様が、金属の縁いっぱいに浮き彫りにされている。彫りは深く、まるでそのまま羽ばたきそうな躍動感があった。


私は断れず、その鏡を受け取った。

ずしりと重い感触が手に伝わる。ひんやりとした金属の冷たさが指先を震わせ、血の温もりを押し返してくる。――夢なら、こんな重さや冷たさまで感じるはずがない。


鏡面は、現代の完璧なガラス鏡のような鮮明さはない。

少し歪みを帯びたその奥で、私は――見知らぬ誰かと目を合わせた。


「……っ」


息が止まった。


そこに映るのは、私の知るどんな人間とも違う、人形のように整った顔。

大きな瞳は、濡れた黒曜石のように深く輝き、視線を逸らせば二度と戻れなくなるような吸引力を持っていた。

睫毛は長く、影を落とすたび瞳が一層深く沈み込む。

高く通った鼻筋は儚げで、それでいて意志を感じさせる線を描き、唇は花の蕾のように柔らかく色づいている。


白磁のような肌は、光を受けてほのかに淡く輝き、指先で触れたら壊れてしまいそうなほど繊細だった。

息を呑む。これは、私ではない。


だが――私はこの顔を知っている。


歴史好きの私は、何度もその名を目にした。

三国志を舞台にした小説、史書の挿絵、戦略ゲームのキャラクターデザイン。

そのどれもが、ある一人の美女を描くたび、必ずこの面差しを宿していた。


脳裏に、雷のような閃きが走る。

無意識のうちに、唇がその名を紡いでいた。


「……貂蝉」


カシャン――。

指先から滑り落ちた鏡が、床で軽く音を立てる。

侍女が慌てて拾い上げ、ほっとしたように微笑む。


「お嬢様? ご自分のお名前を……。まあ、ようございました。意識がはっきりとなされたのですね」


遠くで響くその声が、やけに霞んで聞こえた。

私は震える手で口元を覆い、必死に否定したかった。


嘘だ。そんなはず、あるわけがない。


ただの美しい女性ではない。

彼女は歴史の中で、その美貌ゆえに政争の渦に巻き込まれ、利用され、そして破滅の道を歩む運命を背負った傾国の美女。

国を揺るがすほどの存在でありながら、自らの意志で運命を変えることは許されず、ただ翻弄され続けた哀しき象徴――。


私が、その貂蝉になってしまったなんて。


心臓が、硬く冷たい檻の中で暴れるように脈打っていた。

喉が焼け付くほどの恐怖が、息をするたびに胸を締め付ける。

これが転生ものなら――間違いなく、最悪のパターンだ。


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