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「ジョエル、買い物に出てくるわ。何か欲しいものはある?」
フィリーチェはジョエルの屈折した心の内を探ろうとも、正そうともせず、傍観していた。
「いいえ。」
不安定に重ねられた積み木の上で均衡を保つように、ジョエルはフィリーチェを信じ、頼り、一方で疑う本能にまだ引き摺られることもあった。
「じゃあ、少し眠るといいわ。」
フィリーチェがアルバンを連れて出て行く音がする。ジョエルが眠ることもできず、ぼんやりと窓の外を眺めてうつらうつらしていると、アトリエからエドアルドの激しい咳が聞こえてきた。それはいつもより酷く、長く続いた。ジョエルは臨月の重い体を起こして立ち上がる。
腰から足の付け根まで鋭い痛みが走る。それは鈍く重い不快感になって下半身に停滞する。それでもエドアルドの様子を見るために、一歩一歩痛みを抱えて階段を上がっていった。膨れた腹は階段を上るジョエルの邪魔をする。やっと踊り場に手が届き最後の力で重い体をアトリエに立たせた。
「エドアルド!!」
エドアルドの口から咳とともに鮮血が噴き出す。それは飛沫から液体になって床を覆った。吐き出された血は床の上で塵と混じりどす黒い光沢を放つ。最後の咳がエドアルドの突っ伏した上半身の力を奪った。彼の薄紫の顔は瞳を閉じ、体は血にまみれて床を覆うように倒れ込む。冷たい空気の中で生臭い匂いだけが暖かい生気を発している。エドアルドの咳は止み、アトリエは一瞬にして無音に転じた。ジョエルには考える隙間などなく、ひたすらにエドアルドに覆い被さり、名前を呼び続けた。
「エドアルド!エドアルド!返事をして!お願い!置いて行かないで!」
やがて時間も空間も凍えて止まり、叫び続けたジョエルから虚しさも愛しさも悲しさもすべて消えた。その静寂が何秒あったか、何分あったか、止まった時間では測れない。突如としてがらんどうになったジョエルに恐怖が刺さった。
「いやぁぁぁぁ!!!!」
エドアルドが自分から奪われたらジョエルには生きる場所がない。彼はジョエルそのものだから。やにわに立ち上がると、血に染まったジョエルは窓に向かって無心で突進し、窓の桟に片足を掛けると一気に全身を窓の外に投げ出した。
エドアルドを追いかける。ジョエルの心は空に広がり、遠い彼方の青に吸い込まれていった。ジョエルの体の中で正確な鼓動を続け、この世の空気に触れる直前だった小さな人間は、その時まだその鼓動を続けていた。
混乱も懊悩も消えてなくなったジョエルの体は地面に引き寄せられ、重く鈍い音が通りに力なく響く。ジョエルが憂悶から解放された音が響くと、やがて時を刻んでいた小さな鼓動も静かに絶えた。この世の空に触れることなく消滅していった。




