Crux
放課後、教室に一人だけ残る篠原京太の姿があった。
窓際の席で、ペンを握った手がノートの上を走っている。夕焼けに照らされた教室は静かで、どこか懐かしい空気が漂っている。
「緑峰台学園」
私立のスポーツ強豪校として知られ、校庭ではいつも何かしらの部活がボールを追いかけ、声を張り上げている。陸上トラックにはスパイクの音が響き、体育館の中ではバスケットボールがリズムよく床を叩く音がする。
どの部活も県内では強豪として名を馳せていて、去年は野球部が甲子園に出場した。その時、テレビ中継で映った生徒たちの姿が話題になった。
と言っても、注目されたのは試合じゃない。映し出された女子生徒の制服が「可愛い」とSNSで拡散されたのだ。それが理由で、この春の入試倍率が上がったなんて噂まである。
確かにその制服は、他の学校にはない洗練されたデザインだ。ブレザーのラインにさりげなくあしらわれたリボンやスカートのチェック柄。雑誌のモデルがそのまま歩き出したような印象を受ける。学校見学に来た女の子たちの多くは、その制服に心を奪われるらしい。
なのに男子はなんの変哲もない無地の学ラン。それに対して文句がないのは男子生徒はほとんどが運動部所属でみんな授業はジャージで受けているからだろう。
校舎は一昨年に改装工事が終わり、ピカピカの新校舎が広がっている。白い壁と大きな窓が特徴で、どこか都会的な雰囲気すらある。
そんな高校の放課後の教室に京太は残っていた。
机の隅には、消しかすが小さく山を作っていた。何度も書いては消し、また書き直す。その手元には、びっしりと文字で埋め尽くされたページと、破り捨てられた紙がいくつか散らばっている。
「……なんか違うんだよな」呟きながら、京太はペンを置いた。
彼が書いているのは、自作の小説だった。ずっとノートに書き続けているが、誰にも見せたことがない。京太にとってそれは、ただ自分の思いを形にするための、ひそかな時間だった。
教室のドアがガラリと開いた。
「おい、何してんの?」軽い声とともに、土井優也が顔を出す。京太がノートを慌てて閉じる様子に、彼はにやりと笑った。
「また書いてたのかよ。見せてくれよ、一回くらい」「絶対嫌だ。お前に見せるくらいなら燃やす」「ひでぇな。でも、なんかさ、そうやって黙々と書いてるお前、ちょっとかっこいいよな」
京太は軽くため息をつきながら、ノートをカバンにしまった。
「……何か用かよ」「いや、ちょっと誘おうと思ってさ。文化祭でさ、バンドやらね?」「はぁ?」
突然の提案に、京太は呆れたような表情を浮かべた。しかし、ユウヤは全く気にせず、目を輝かせながら言葉を続ける。
「お前さ、何か思い出残したいとか言ってただろ? ほら、これ、ピッタリじゃね?」
京太は苦笑しながら、目をそらした。
今から一年前、高校一年の秋、退屈な日々を送っていた京太は、幼馴染の土井優也に、ある日、突然こう言われた。
「暇なら音楽やろーぜ!」
その声があまりに唐突で、京太は教科書から顔を上げた。「……は?」「音楽だよ、音楽!バンドとかさ!」「お前、音楽なんか興味あったか?」
そう聞き返しても、ユウヤはまったく意に介さない様子だった。「いや、今興味湧いた!つーか、お前も暇そうにしてんじゃん。何かやれよ。」「お前に言われたくないけどな……」
京太は小さくため息をつきながらも、その声にどこか懐かしい響きを感じていた。小学生の頃からユウヤはこうやって、思いつきで突拍子もないことを言い出しては京太を巻き込んできた。夏休みに秘密基地を作ろうと言い出したのも、川で河童を捕まえようと言い出したのも、ぜんぶユウヤだった。そして結局、全部京太も付き合わされていた。
今回も、どうせまたそんなノリだろうと流すつもりだったのに、気づけば二人で楽器屋に行く約束をしていた。
翌週末、楽器屋に足を踏み入れた二人は、ギターやベースがずらりと並ぶ一角で話し込んでいた。
「俺、やるならベースがいいな。」「え、俺もベースがいいんだけど。」
まさかの希望の重なりに、二人は一瞬黙り込む。京太がどうするか考える前に、ユウヤがその沈黙を破った。
「おい、青春漫画で主人公と相棒がピッチャー同士の物語なんてないだろ!どっちかはキャッチャーなのがセオリーだろ!」
突然の謎理論に、京太は思わず「は?」と聞き返す。「バンドでも同じだよ!京太がベースなら、俺が違うポジション行かないとドラマが生まれないだろ!」
ユウヤは得意げに腕を組む。その真剣な顔に思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、京太はからかうように言った。
「じゃあ、お前太ってるんだからドラムやれよ。」「はぁ!?なんでそうなるんだよ!」「お前、体育でサッカーやる時何してた?」「……キーパーだけど?」「で、野球の時は?」「……キャッチャー……だけど?」「じゃあ、バンドやるなら?」「……関係ないだろ!!!」
ユウヤの全力のツッコミが楽器屋の中に響く。京太は笑いをこらえきれず吹き出した。それにつられるようにユウヤも笑い出し、二人して腹を抱えた。
「いやでもさ、実際お前ドラムめっちゃ似合うし、かっこいいと思うんだけどな。」
京太がそう言うと、ユウヤは「え?」と驚いた顔をして、少し考えるように間を取ったあとで言った。
「……まぁ、そう言うならやってやるか!」
その軽い返事に京太は呆れつつも、心の奥ではどこか安心していた。楽器なんて触ったこともなかったけど、ユウヤとなら新しいことを始めるのも悪くないと思えた。
それから数日後、ユウヤは本気でドラムを練習し始めた。京太の前で得意げにスティックを回してみせる姿は、いつも通りの調子で、妙に頼もしくもあった。
あれから1年。今日、ユウヤがまた唐突に言い出した。
「文化祭でバンドやろうぜ!」
京太は呆れながら言い返した。
「思い出残すってのは、別にこんな派手なことじゃなくていいんだよ」「いやいや、そう言うなって。絶対楽しいからさ! ほら、考えとけよ!」
そう言いながらユウヤは京太の肩を叩き、満足げに教室を後にした。
京太は再び静かになった教室で、ふとノートを開いた。先ほど書きかけだった物語の続きを眺める。
「……思い出、ね」そう呟くと、軽くペンを走らせた。
翌朝、体育館は全校集会のざわつきに包まれていた。壇上では、サッカー部の主将が全国大会出場の挨拶をしている。響き渡る力強い声と、拍手の波。熱気が体育館の天井を揺らしているような気がした。
でも、京太には、それがやけに遠い出来事みたいに感じられた。まるで自分だけ、違う空気を吸っているみたいだった。
ステージの上で胸を張る彼らの姿が、どうしても目に障る。目をそらそうとしても、言葉より先に記憶が割り込んでくる。「俺だってあそこにいたはずなのに」喉の奥に小さく引っかかる感情を、どうにも飲み込めない。
自分がいた場所と、今の自分の間にできた大きな距離。それを埋める手段なんて、もうどこにも残ってない。なのに、あの頃の景色が、拍手の音に合わせて繰り返し脳裏に浮かぶ。ステージの光を浴びる彼らが、とにかく邪魔だった。
集会が終わり、体育館から生徒たちが一斉に出ていく。渡り廊下は足音とざわめきであふれていた。
「おい、京太!」
名前を呼ばれて振り返ると、サッカー部のジャージを着た男子が立っていた。日に焼けた顔には、白い歯が輝く笑顔が浮かんでいる。
「今度の試合、応援来てくれよ。お前が来たら、きっとみんな喜ぶからさ!」
その声は、屈託のない純粋なもので、何の裏もない。ただその言葉を受け止めるには、京太にはまだ時間が足りなかった。
「ああ……」
口から出たのは、それだけだった。自分でもどんな意味で答えたのか分からない。彼は満足げに手を振り、あっさりと人混みの中に消えていった。
ふと、地面に転がる小さな物体が目に入った。蝉の死骸だ。
京太はその死骸をじっと見つめた。
土の中で長い時間を過ごして、ようやく地上に出た蝉は、空を飛ぶことを夢見ていたはずだ。それなのに、たった数日で命を終えてしまう。
京太はその蝉に、自分の姿を重ねていた。
サッカー推薦で入った高校。全国大会を目指して、がむしゃらに練習して、夢に手を伸ばした。だけど怪我をして、部活を辞めた。あれから、何もかもが止まったような気がしている。
怪我をしたあの日のことを思い出しながら京太は教室に戻る廊下を歩いていた。
授業の退屈な声が教室に響く中、京太はぼんやりと窓の外を見ていた。目の前のノートには黒板の内容を写そうとした痕跡だけがあるが、その手は動きを止めている。
頭の中には、先ほどの全校集会の光景がこびりついていた。
壇上に並んだサッカー部のメンバーたち。誇らしげな笑顔と、どこか自信に満ちた佇まい。京太もかつては、あの場所に立つ未来を夢見ていたはずだった。汗にまみれて走り続ける日々、その先に待っている栄光を信じていた。だが、その夢は怪我とともに音もなく消え去った。
「ステージの上に立つって、どんな気分なんだろうな……」
ふと、そんな思いが浮かんだ。その瞬間、京太の心の奥で何かがかすかに弾けた気がした。自分があの場所にいたはずなのに、今は遠く感じる。だけど――思いついてしまった。あのステージに立つ方法を。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。ざわつき始める教室の中で、京太は勢いよく椅子を引いて立ち上がった。ペンを机の上に置き、教科書もノートも放り出したまま、教室を出る。
向かったのは隣のクラスだ。廊下を歩きながら、考えているのはたった一つの言葉。
教室の扉を開けると、そこには、クラスメイトたちと何やらふざけ合いながら笑っているユウヤがいた。
京太は迷うことなくその背中を叩いた。
「お、なんだ京太!珍しいな、お前がここに来るなんて」
ユウヤが笑顔で振り返る。その表情を見た瞬間、京太は胸の奥に湧き上がる衝動をそのまま言葉に変えた。
「バンドやろう」
たった一言、それだけで十分だった。
帰り道、薄いオレンジ色の空の下で、ユウヤと京太は並んで歩いていた。いつもの住宅街。いつもの坂道。何度も通った道なのに、なんとなくその日は少し違って見えた。
「ギターとボーカル、どうする?」ユウヤがスニーカーの先で小石を転がしながら言う。
京太は空を見上げてみるけど、そこには答えなんて書いていない。仕方なく足元に目をやれば、白いスニーカーがアスファルトを踏むたびに、かすかな音を響す。
「心当たりはあるっちゃあるけど」
京太は少し迷いながら答えた「マジで? 誰?」ユウヤの顔がこちらを覗き込む。
「1組の……小森、だっけ?」「小森?」「小さい体でギターケース背負ってる子。放課後、音楽室の方に行ってるの見たことある」
「あー、あの子か!」ユウヤはすぐに思い出したようで、勢いよく手を叩く。その音が、静かな坂道にひときわ響く。
「でもさ、あの子に声かけるって、ハードル高くね?」京太が言うと、ユウヤは一瞬だけ間を置いて、笑いながら返した。
「俺ら、文化祭でバンドやるなんて言い出した時点で、ハードル超えまくってんだぞ」「いや、そうかもしれないけどさ……」京太は苦笑いを浮かべながら答える。
それでも、小森の小さな背中にぶら下がるギターケースを思い浮かべると、少しだけ自分たちの未来が近づいたような気がしていた。
「じゃあ、声かけるのはお前な」ユウヤがあっさりそう言うと、京太は苦笑いで返した。「なんで俺なんだよ」
「だってさ、こういうのってほら、積極性が大事なんだよ。俺はお前に、その積極性を身につけるきっかけを与えてやってるだけで」「俺に押し付けてるだけだろ」
二人で小さく笑い合う。夕陽を背に、二人の影が坂道に長く伸びている。
「頼むぞ、京太」
ユウヤはそう言いながら、京太の背中を軽く叩いた。
次の日の休み時間、京太は隣のクラスの扉を開けた。ちょっと躊躇してから。本当にちょっとだけ、誰も気づいてないくらいの。
教室の中は、他のクラスと同じようにざわざわしている。京太はすぐに端っこの席に立てかけられたギターケースを見つけた。小さな背中がその横にあった。
彼女は机にノートを広げて、少し猫背気味で何かを書いている。
「小森、だよな?」
京太が少し緊張しながら声をかけると、小森の肩がびくっと震えた。その手が止まり、顔を上げる。ほんの一瞬だけ京太を見て、すぐに目をそらした。
「ちょっと話したいんだけど、いいかな?」
小森は俯いたまま動かない。教室の中も、さっきまでのざわめきが嘘みたいに静かになっている。
京太の視界に、近くの席に座っている女子が入る。その子が、気まずそうな顔で小声を漏らした。
「小森さん、声が出せないのよ」
「え?」
京太は思わず聞き返した。
「声が……出せない?」
女子は小さく頷いた。
「話せないから、いつも筆談してるの。だから、急に声をかけられてびっくりしたんじゃない?」
小森は静かに二回頷いたあと、ノートに何かを書き始める。数秒後、彼女が京太にノートを差し出す。
「何の用ですか?」
ノートにはそう書かれていた。
京太はしばらく迷ったあと、胸ポケットからペンを取り出した。そして小森の文字の下に自分の文字を加える。
「バンドに誘いたいんだ。ギターをやってくれないか?」
小森はその文字をじっと見つめていた。そして、少しだけ首を横に振った。
京太は「やっぱりか」と心の中で思った。
次の瞬間、小森はノートに新しい文字が書き加えた。
「あとあなたは文字書く必要ないですよ耳は良い方です」
それを見て京太は、確かにそうだったと苦笑いをした後、もう一つ聞いた。
「理由、聞いてもいいかな?」
小森はその質問に、少しだけ考え込む素振りを見せた。そして、ゆっくりとノートにこう書き足した。
「目立たないで過ごしてたいです」
それだけ書くと、小森はノートを閉じた。そして、立てかけていたギターケースを肩にかけると、そのまま教室を出ていった。
小柄な彼女の姿は、そのギターケースに少し隠れるようだった。
彼女が教室からいなくなると、教室の静けさはもとのざわめきに戻っていた。
「どうだった?」
昼休み、京太が席に戻ると、食パンをかじるユウヤが当然のように尋ねてきた。「断られた」京太が言うと、ユウヤの咀嚼が一瞬止まる。
「マジか。なんで?」「目立たないで過ごしてたい、だってさ」
その言葉に、ユウヤは驚くでもなく、むしろ楽しそうにニヤリと笑った。
「じゃあ、説得するしかないだろ?」「簡単に言うなよ」京太は軽くため息をつきながら答えた。
「簡単じゃねえよ。でも、お前って意外としつこいところあるじゃん」「……は?」「ほら、小学校の時、鬼ごっこで絶対に俺を捕まえるって泣きそうになりながら追いかけてきただろ?」「そんなの覚えてねえよ」
ユウヤは楽しげに笑いながら、最後の一口を飲み込んだ。
「じゃあ頼んだぞ!」
そう言いながらユウヤは教室を後にした。
その日から、京太は少しずつ小森に話しかけるようになった。
「放課後、ちょっとだけ時間ある?」
最初にそう声をかけたとき、小森は俯いたまま答えなかった。
教室の隅っこで、小さくなるように席に座っているその姿は、どこか触れちゃいけない存在のように見えた。
それでも、京太は構わずに言葉を続けた。
「練習は俺たち二人とだけだし、誰にも迷惑かけないよ」「文化祭の日だけでいいんだ」「小森のギター、聞きたいんだ」
一つ一つ、静かに、でも真剣に言葉を選んで話した。
そのたび、小森は首を横に振る。それだけだった。声を出さず、文字を返さず、ただその仕草だけで「嫌だ」という意思を伝え続けた。
次の日も、その次の日も、京太は懲りずに小森に声をかけた。文字がなくても、態度で拒否されても、それでも何度も話しかけた。「絶対無理はさせないから」
その言葉に、小森はいつも通り首を横に振ったあと、少しだけ顔を上げた。そして、初めて京太をじっと見た。
「しつこい」
口を開かず、視線でそう言っているようだった。京太はそれを見て、なんとなく笑ってしまった。
彼女に拒絶されているはずなのに、わずかに踏み込めた気がして。
どれだけ拒まれても、小森のそばにいることで、少しずつ、何かが変わっている気がしていた。
土曜日のカフェで京太は期間限定のいちごラテを飲んでいた。カウンター席から見えるのは、賑わう商店街の風景。赤いフルーツソースが渦を描く飲み物は、見た目も味もそれなりに満足感があったけど、あともう少しだけ甘さを控えてほしい気もする。
ストローで最後のひと口を吸い込みながら、京太はぼんやりとガラス越しに行き交う人々を眺めていた。その時、不意に視界の端に見覚えのある後ろ姿が入った。
肩で揺れる髪。背中に背負われたギターケース。いつもとは違う色だった。
「あれ、小森じゃん」
席を立つべきかどうか、一瞬迷った。でも、彼女はどこか急いでいるような足取りで、京太がここから声をかけても届くはずがない。それに、何を話しかければいいのかも考えつかなかった。
カップをゴミ箱に捨て、京太は静かにカフェを出る。
ほんの少し距離を保ちながら、小森の後ろ姿を追いかける。
これじゃあ完全に不審者だ。どこかのタイミングで声をかけないと。
彼女は商店街を抜け、古びたビルの地下へ続く階段を降りていった。その入口に手書きのポスターが貼られているのが見えた。
「Aoi Special Acoustic Live」
京太はその名前に見覚えがあった。ネットでバズっている顔出ししないシンガーソングライター。Aoiという名前を知らない同世代なんていないんじゃないか、と思うくらいには有名だ。
その時、小森が不意に振り返った。
「えっ、あ……」
目が合う。京太は慌てて言葉をつないだ。
「小森もAoiのライブ来てたの!?俺も!」
嘘だ。とっさに出た言葉に自分でも驚く。でも、小森はその言葉を信じたようだった。目を少しだけ輝かせ、わずかに口角を上げている。あんな嬉しそうな表情を、小森がするなんて京太は初めて見た。
「一緒に入る?」
小森の視線がそう言っている気がして、京太は思わず頷いた。
しかし、いざ入り口に差し掛かったところで、問題が起きた。
「チケットは?」
受付のスタッフにそう問われた瞬間、京太は固まった。チケットなんて持っているはずがない。咄嗟に、口だけが反射的に動いた。
「あ、えっと……忘れました」
自分でも下手な言い訳だと思った。スタッフの視線が、冷たいとも呆れているともつかない曖昧な空気をまとって京太に向けられる。その一方で、小森がちらりと京太の顔を見た。困ったような、でも少し考え込んでいるような表情だ。
小森が周囲を見回していると、どこからかスタッフらしき女性が現れた。黒いTシャツにジーンズという動きやすそうな格好で、明るい笑顔を浮かべている。
「あおちゃんのお友達?」
その声に、小森は静かに頷いた。それだけだった。
「あ、じゃあ大丈夫だよ。入って入って!」
スタッフは軽い調子でそう言うと、受付に何かを告げてその場を離れていった。
京太は驚きながら小森を見つめた。彼女は何事もなかったかのように、肩からギターケースを降ろしてクロークに預けている。
「な、なんで俺、許されたんだ?」
小森は振り返り、少しだけ考えるように顔を傾けたあと、携帯を取り出した。指が慣れた動きで画面をタップする。そして、数秒後、その画面を京太に差し出した。
「Aoiは私のお姉ちゃんです」
「……え?」
京太はその文字を何度も読み返した。頭の中で、Aoiと小森が結びつき、やっと意味を理解する。
「え!」
思ったよりも大きな声を出してしまった京太に周りが注目する。
小森は注目されている京太を隠すように手を引いて、ライブハウスの後方のエリアに連れて行った。
「Aoiが……お姉ちゃん?」
いまだに理解が遅れている京太を見て、小森は目を少し細め、ふんわりと微笑んでいる。まるで「どうだ、すごいだろ」とでも言いたげな、ほんの少し自慢げな表情だ。
その時だった。
会場の照明が一気に落ちた。
暗闇が辺りを包み込む。観客たちのざわめきが、一瞬で飲み込まれるように静まり返る。京太は反射的に目を見開き、無意識に息を止めた。
音が、最初はほんのかすかな音から始まった。スピーカーから流れるギターの音。柔らかく、でも芯のある響きが、暗闇の中を切り裂くように広がっていく。
その瞬間、観客たちの静寂が期待に変わる。暗闇の中に漂う緊張感と高揚感が一体となり、場内が一つの塊になったかのようだった。
京太は隣に立つ小森を見た。彼女はギターの音に身を任せるように、ほんの少しだけ体を揺らしている。その横顔は、どこか誇らしげで、少しだけ安心したようにも見えた。
ステージ上にスポットライトが灯り、ついにAoiのライブが始まった。
ステージの中心に立つAoiがギターを抱え、まるでそこだけが特別な光に包まれているように見えた。彼女の姿はシルエットでしか分からないけれど、ギターの音が鳴り始めた瞬間、会場全体がその音に飲み込まれていく。
そしてAoiの歌声が響き渡る。甘くも鋭くもない、けれどどこか耳に残る柔らか歌声。その一音一音が、会場全体を満たしていく。
「すごいな……」
京太は思わず小さく呟いた。
ふと小森の方に目を向けると、彼女の顔には言葉にしなくても分かるくらいの「楽しい」が溢れていた。眉が少しだけ上がって、口元には確かに小さな笑みが浮かんでいる。目の奥がきらきらと輝いているように見えるのは、きっとステージの光のせいじゃない。
Aoiの歌は次第に力強さを増し、会場の空気がどんどん熱を帯びていく。アップテンポな曲が始まると、観客たちが一斉に手拍子を始めた。そのリズムに合わせて京太も自然と手を叩いていた。小森はそんな京太の姿をちらりと見て、小さく笑った。
そのうちに、会場の熱が静かに沈んでいくようなスローバラードが始まった。Aoiがアコースティックギターを弾きながら歌い始めると、空気そのものが柔らかくなったような気がした。
「……これ、やばいな」
京太はそう呟きながら、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じていた。歌詞が、まるで自分に語りかけているように思えて仕方なかった。
言葉にならない感情が胸をいっぱいにして、気づいた時には頬を伝う涙を手の甲で拭っていた。
そんな京太の横で、小森が少しだけ驚いたように目を丸くしたあと、ほんの少しクスッと笑った。
ライブが終わった後の帰り道、駅の近くまで歩いてきたところで、京太は意を決して小森に声をかけた。
「なぁ、小森。ご飯でも行かない?」
小森は少し驚いたような顔をしたが、すぐに小さく頷いた。
「どこがいい?」
そう尋ねると、小森はしばらく考え込むような素振りを見せてから、駅前にあるハンバーガー屋の方を指差した。
店内に入ると、カラフルなポスターと注文のためのカウンターが目に入る。京太が「何にしようかな」と迷っている横で、小森もメニュー表をじっと見つめていた。そして、黙ったままそのメニュー表を指差し、店員に注文を伝える。
けれど、カウンターの店員はあまりいい顔をしなかった。無愛想な表情でレジを打ち、視線を京太に向けて「次の方どうぞ」とだけ言う。その態度に、京太は少しムッとした。
「あの、彼女声が出せないんです。だからこういう形で頼むしかなくて……」
京太が説明を始めると、店員は面倒くさそうな顔をして、適当に頷いただけだった。
京太はなんとも言えない気分で受け取ったトレイを持ち、席へ向かう。
トレイをテーブルに置いた瞬間、小森が携帯を取り出し、何かを打ち込んで京太に見せた。
「いつものことだから気にしないで」
その文字と一緒に浮かぶ、小森の微笑み。京太はなんだか少しだけ胸が痛くなった。
「でもさ、やっぱりあんな態度、嫌じゃないのか?」
小森は小さく首を振り、携帯をしまった。それからハンバーガーを手に取る。京太はその動作を見て、思わず言葉を漏らした。
「……っていうか、小森がビックビックバーガー頼むなんて意外だな」
小森が手を止めて、首を傾げる。
「だって、いつもお弁当箱めちゃくちゃ小さいじゃん。それなのにこんなでかいの食べられるのかよ」
そう言うと、小森は少し慌てたように再び携帯を取り出して文字を打ち始めた。数秒後、画面を京太に向ける。
「あれは二個目のお弁当」
「二個目?」
京太は眉を上げた。小森は静かに頷く。
「じゃあ……俺が声かけた後、いつもギター持ってどこか行ってるのって、一個目のお弁当食べに行ってるの?」
京太が半信半疑で尋ねると、小森は少し恥ずかしそうに、けれど肯定するように頷いた。
「マジかよ……」
京太は笑いそうになりながらも、小森のことを少し知れた気がして嬉しそうにハンバーガーにかじりついた。
しばらく食事を進めたあと、京太はふと思い出した疑問を口にした。
「なぁ、小森って、小森葵って名前だよな?」
小森は頷きながら京太を見つめる。
「お姉ちゃんはAoiだろ?姉妹揃って“あおい”って名前なの?」
そう尋ねると、小森はまた携帯を取り出し、何かを打ち込み始めた。打ち終えると、それを京太に差し出した。
「お姉ちゃんは渚」
「え?じゃあなんで……」
京太が疑問の続きを言いかけると、小森はまた指を動かして答えを打ち始めた。そして、画面を向ける。
「声が出ない私の代わりにAoiって名乗って歌ってくれてるの」
その文字を見た京太は、少しだけ息を飲んだ。
「ああ……そういうことか」
小森は静かに微笑んでいた。その笑顔が、なんだかすごく誇らしげに見えた。
店を出る前、京太はもう一つ気になっていたことを切り出した。
「文化祭の話だけどさ、小森は目立ちたくないって言ってたよな。なんで?」
小森は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。それから「そんなこと言ったっけ?」とでも言いたげに首をかしげる。
「バンドの話だよ。何回もしつこくて悪いけど、一緒にやってくれないか?」
京太が真剣な顔でそう言うと、小森はしばらく何かを考えるようにしていた。そして、静かに頷いた。
「……え、マジで?」
思わず声を上げた京太に、小森はくすっと笑った。
まさか最後はこんなにもあっさり決まるなんて思ってもいなかった。
「で、今日は小森がギターを弾いてくれるわけだが」ユウヤが椅子を後ろ向きに座りながら、ニヤニヤと俺を見た。
放課後、音楽室には夕陽が差し込んでいた。
窓ガラスを淡くオレンジに染める光が、薄暗い室内をほんのり明るくしている。
「お前、そんなにニヤつくなよ。小森が嫌がるだろ」「いやいや、どんなもんか楽しみじゃんか!ほら、小森、準備はいい?」
小森はギターケースを静かに開け、中からアコースティックギターを取り出した。その動作一つ一つが驚くほど丁寧で、ギターを大切にしているのがひしひしと伝わってくる。
彼女は椅子に腰掛けると、軽く弦を弾いて音を確かめ始めた。部屋の中に響き渡る柔らかな音は、どこか優しく、空気に溶け込むようだった。
「おお、なんかもうプロっぽいな」
ユウヤがぽつりとつぶやく。その声には、いつもの軽口とは違う、本物を前にしたような感心が混じっていた。
京太も同じ気持ちだった。
小森は短く頷くと、曲の準備ができたことを示すように京太たちを見た。そして、ギターを構え、右手を弦に添える。
最初の一音が響いた瞬間、音楽室の空気が変わった。
夕陽の柔らかい光が差し込む中、その音はまるでそこに突然新しい命が吹き込まれたかのように、部屋の隅々に広がっていった。静寂の中を滑るように紡ぎ出された音は、どこまでも軽やかで、それでいて不思議な芯の強さを持っていた。
リズムも、メロディも、完璧だった。けれど、その完璧さを表現するのに「上手い」とか「美しい」といったありきたりな言葉では足りない気がする。言葉にならない何かが、その音には宿っていた。
京太とユウヤは、ほぼ同時に顔を見合わせた。
「……ヤバ」
ユウヤが小声で呟く。それ以上は何も言えなかった。京太もまた、同じ気持ちだった。あの音を前にして、何かを言葉にするのは、むしろ失礼に思えるほどだった。
小森は目を閉じていた。その瞼の奥に何を思い浮かべているのかはわからない。ただ、その指先がギターのフレットを滑るように動き、右手が弦を正確に弾く様子だけが、京太の目には鮮明に映っていた
演奏している小森の表情は、驚くほど穏やかで、それは普段学校で見かける彼女の静かな顔とも違うし、ハンバーガー屋で見せたあの少し恥ずかしそうな笑顔とも違っていた。
一音一音に感情が込められているのがわかる。その音は、まるで、聞く人の心に直接触れようとしているみたいだった。
その瞬間、京太の頭の中に先日のAoiのライブの光景が浮かんだ。暗闇の中、ギターを抱え、あの透き通った声で観客を圧倒していたAoi。会場全体を掌握していた、あの姿が不意に蘇る。
そして、目の前でギターを弾く小森と、その記憶が重なった。
もちろん、AoiはAoiで、小森は小森だ。けれど、ギターを構える仕草や、音にはどこか共通するものがあった。
最後の音が静かに消えた。
京太とユウヤは、言葉を失ったまま小森の方を見ていた。
京太の胸には、演奏中の小森の表情や、その音に込められた感情が今でも残響のように響いていた。一方のユウヤは椅子にもたれかかりながら、ぽかんと口を開けたまま、小森とギターを交互に見つめている。
小森はそんな二人の視線に気づくと、ギターを抱えたまま首を傾げた。その仕草はどこか子供のようで、少しだけ可愛らしかった。
そして、彼女は手元に置いていたノートを取り出し、ペンを滑らせる。軽やかな音を立てながら文字を書き、二人に向けてそのノートを両手で掲げた。
「変でした?」
その文字が目に飛び込んできた瞬間、京太とユウヤは同時に大きく首を横に振った。
「いやいやいやいや!」「全然そんなことない!」
二人して必死に否定する。
「むしろ……良すぎて!」「そう!マジで良すぎて!びっくりしただけ!」
言葉が重なってまとまりきらない。それでも、なんとか「変じゃない」ということだけは伝えたい一心だった。
小森は二人の勢いに少しだけ驚いた顔をした後、ふっと笑みを浮かべた。その笑顔には、ほんの少しだけ安心した色が混ざっているように見えた。
「いや、だってさ……」
京太が言いかけたその瞬間。
ガラリ
音楽室のドアが急に開いた。
突然の音に、三人の視線が一斉にドアへ向いた。夕陽の逆光の中に誰かの影が映り込む。その影はしばらく動かなかった。
「今の……今のあんたが弾いたの?」
声の主は京太とユウヤの幼馴染の綾瀬雅だった。雅は肩で息をしていた。動揺しているのが一目でわかる。それでも、彼女の視線は京太たちではなく、小森にまっすぐ向けられていた。
「雅、お前、どうして……」
京太がそう声をかけたけれど、雅は返事をしなかった。いや、きっと聞こえていなかったのだろう。彼女はただ小森を見つめ続けていた。
小森は少し困惑した表情を浮かべたが、ギターを抱えたまま静かに頷いた。それを見て、雅の目が大きく見開かれる。
「本当に……あんたが弾いてたの?」雅はもう一度尋ねた。
小森は再び小さく頷く。そして、自分のギターを見下ろしながら少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「……すごい」雅が思わずつぶやいたその声は、彼女自身も気づかないほど小さかった
数秒の沈黙が流れた後、雅がようやく京太たちの存在に気づいたようだ。
「え、あんたたちもいたの?」
雅は京太とユウヤを交互に見て、少しだけ眉をしかめた。
「おいおい、俺たちを無視するのかよ」
ユウヤが苦笑しながら椅子の背もたれに肘をついた。
「いや、そんなつもりじゃ……それより、何してたの?」
「何って、見ての通りだよ。バンドの練習。文化祭でやるんだ」
ユウヤがそう言いながら椅子をくるりと回す。その動作がやけに軽やかで、なんだか今の空気に少しだけズレている気もした。
「バンド?」
雅の眉がさらに動く。
「ああ。ほら、ドラムがユウヤで、俺がベース。で、小森がギターやってくれることになったんだ。今、その練習の一環でさ」
京太がそう説明すると、雅は一瞬目を細めて考えるような仕草を見せた。それから、小森の方に視線を戻す。
少しの間、雅は何かを考えている様子だった。音楽室の時計の秒針がカチカチと音を立てる。その音がやけに大きく聞こえたような気がする。
そして、不意に雅が口を開いた。
「……ボーカル、私がやってもいい?」
その言葉を聞いた瞬間、京太とユウヤはほぼ同時に声を上げた。
「は?」
その短い反応に、雅がほんの少しだけ頬を赤く染めた。
「いや、いいけどさ、雅ってそんな……あっさり言うタイプだったっけ?」
京太が思わずそう言うと、雅は視線をそらしながら言葉を続けた。
「別に……その、興味があっただけ。あと、小森さんのギター聴いてたら、なんかやってみたくなったの」
その言葉は、どこか不器用で普段の雅らしくなかった。
「マジかよ。お前がボーカルか。意外だけど……まぁ、ありかもな!」
ユウヤが笑いながら言うと、雅は不機嫌そうに眉をひそめる。
「なによそれ。私だってやるときはやるんだから」
その返しにユウヤが肩をすくめる。その様子が面白くて、京太は思わず小さく笑った。
「いやいや、歓迎だよ!小森も、雅がボーカルでいいよな?」
ユウヤが小森にそう尋ねると、小森は微笑みながら柔らかく頷いた。
雅はその様子を見て、満足したように小さく微笑んだ。
「……決まりだな。これでギターもボーカルも急に揃ったわけだ」
京太がそう言うと、ユウヤが椅子から勢いよく立ち上がった。
「よっしゃ!これで文化祭、いけるじゃん!」
その声が音楽室に響き渡る。そのあまりの勢いに、小森が少しだけ驚いた顔をした。
「文化祭、か……」
雅の声が小さく漏れる。それは誰に向けた言葉でもなく、ただ自分の中で呟くような調子だった。
京太は小森と雅の二人を見ながら、この文化祭がきっと特別なものになるだろうと思った。
音楽室を後にして、京太とユウヤは駅前のコンビニで買った肉まんを片手に歩いていた。
秋の夕方、空は茜色に染まり、日が暮れるのがどんどん早くなってきている。道の脇には落ち葉がちらほらと積もり、時折吹く風がそれらを軽く舞い上げていた。
「にしても、雅がボーカルやるなんてな」
ユウヤが肉まんを一口かじりながら笑った。湯気が彼の顔の前でふわりと広がる。
「あいつ、自分からやりたいなんて言うタイプじゃなかったよな。俺もちょっと驚いた」
京太も肉まんを口に運びながら答えた。肉汁が口の中でじゅわっと広がる。秋の涼しさの中では、その温かさが一段とありがたく感じられた。
「だよなぁ。俺、雅と話したのなんて……何年ぶりだ?」
ユウヤが少し眉を寄せながら、記憶を辿るように言った。
「中学一年以来じゃないか?俺たち三人で一緒に遊んでた頃以来だと思う」
「だよな。あいつ、中一のときさ、急に話しかけてもそっけなくてさ。なんか変わっちゃったなって思ってたけど……今日話してみたら、全然変わってなかったわ」
「変わってないって?」
京太が聞くと、ユウヤは少しだけ嬉しそうに答えた。
「いや、なんつーかさ。ちょっとツンケンしてるけど、結局根っこは昔のまんまっていうか。相変わらず正直だし、言いたいことちゃんと言うし」
「確かに。昔もそうだったよな。意地張って素直じゃないくせに、最後はちゃんと顔に出てバレるっていう」
「小学校の頃はさ、俺と京太がアホなことばっかやってると、すぐ『あんたたち本当にバカね』とか言ってたよな」ユウヤが肉まんを一口かじりながら言う。
「言ってたな。でも、文句言いながら結局一緒に走り回ってたよな、雅」昔のことを思い出して話す二人は小さく笑った。
「でも、今こうしてまた一緒に何かやるなんて、ちょっと面白いよな」ユウヤがそう言いながら、手の中に残った肉まんを最後の一口まで頬張った。大きく動く喉仏が、街灯に照らされて妙に目立って見える。
それを横目で見ながら、京太も冷めかけた肉まんをかじった。落ち葉を踏む音が耳に心地よく響く。しばらく無言で歩いた後、ユウヤが不意に口を開いた。
「でもさ、雅と小森、うまくやれるかな」
「……何が?」
「いや、ほら、雅ってちょっと気が強いじゃん」
「まあな。でも、小森が嫌がってる感じはなかっただろ」
そう答えながらも、京太の心の中には、微妙な引っ掛かりが残っていた。雅は昔から堂々としていて、言いたいことをはっきり言うタイプだ。小学校の頃は、その性格が原因でクラスメイトと衝突することもあった。一方、小森は控えめで、どちらかというと自分を引き立てるよりも影に回ることを選ぶような性格だ。二人の性格は、まるで正反対。相性が良いのか悪いのか、京太には正直なところ、まだ読めない部分があった。
「なんか変に気まずくならなきゃいいけどさ」ユウヤがつぶやくように言う。スニーカーの先で道端の小石を蹴ると、それはカランと音を立てて数メートル先に転がった。
「ま、どうにかなるんじゃね?俺らもいるし」京太は軽く返す。そう言いながらも、内心はユウヤと同じような不安を感じていた。
「まあそうだよな!」ユウヤが急に明るい声を出して、京太の肩をポンと叩く。「何があっても俺がなんとかする!お前は気楽に構えてろよ」その言葉には根拠もなければ特別な意味もない。ただ、ユウヤらしい言葉に京太は少し安心していた。
「なぁ、ユウヤ、カラオケ行こうぜ」突然の京太の誘いに、ユウヤは少し驚いた顔をしてから首を振った。
「悪い、店の仕込みがあるんだよ」
「仕込み?そんな忙しいのかよ」
「まあな。パン屋って、意外と時間かかるんだぜ?夜のうちに仕込まないと、朝焼きたてのパンが並ばないからな」
京太はユウヤの言葉に少し驚いたような表情を浮かべた。パン屋で仕込みをしているユウヤの姿なんて、今まで一度も想像したことがなかったからだ。
「ふーん、じゃあ今日はお前んち寄ってくわ」そう提案する京太に、ユウヤは少し驚いた顔をしたが、「いいぜ」と答えた。
一階がパン屋、二階が住居という構造のユウヤの家に着くと、そこはどこか懐かしい香りが漂っていた。焼きたてのパンの甘い香りが、閉店後でも残っている。
「お邪魔しまーす」京太が声をかけると、奥の方から元気な声が返ってきた。
「おかえりー!」
小学生の男の子と女の子、そして幼稚園生のもう一人が、わらわらと走り寄ってくる。ユウヤの弟妹たちだった。その勢いに押されそうになりながらも、京太は思わず微笑んだ。
「ただいまー。ほら、暴れるなよ。京太が引いてんだろ」そう言いながらも、ユウヤはどこか嬉しそうだ。
「久しぶりね、京太くん」後ろから出てきたのは、ユウヤの母親だった。エプロンをつけたままの彼女は、少し疲れた様子ながらも温かな笑顔を浮かべている。
「ユウヤのお母さん、久しぶりです」京太が少し照れくさそうに挨拶すると、ユウヤのお母さんはエプロンの紐を軽く直しながら、柔らかく微笑んだ。
「大きくなったわねぇ。お母さんも元気?」
「はい!相変わらず元気です」しっかりと返事をする京太に、ユウヤのお母さんは「それはよかった」と軽く頷いた。彼女の声には、長年この家を支えてきた頼もしさと、母親らしい優しさが滲み出ている。
そんなやり取りをしている間に、ユウヤはいつの間にか奥の厨房に立ち、パンの仕込みを始めていた。袖をまくり、手際よく生地をこねる動作は、普段の学校で見せる飄々とした姿とはまるで別人だ。
「お兄ちゃん、すごーい!」幼稚園児の末っ子がユウヤの足元にまとわりつく。ユウヤはそれに「こら、邪魔だって」と軽く笑いながらも、末っ子をよけ、生地を器用に丸め続ける。
「ほんと、ちゃんとお兄ちゃんしてるんだな」京太が思わず呟くと、隣でユウヤのお母さんが微笑む。
「まぁ、頼りになるのよ、あの子。特にね、夫がいなくなってからは、家の男手がユウヤだけだから……弟妹の面倒もよく見てくれるし、本当に助かってるの」彼女の言葉には、感謝と誇りが混じっているようだった。
京太はユウヤを改めて見る。生地をまとめながら弟と何かふざけ合い、小学生の妹が差し出すトレイを受け取りつつ、「ありがとうな」と優しい声をかける。そんな彼の姿には、確かに学校では見たことのない落ち着きがあった。
「ほら、これ持って帰って!今日の余りだけどね」ユウヤのお母さんが紙袋を差し出してきた。袋の中から漂う香ばしいパンの香りに、京太は少しだけ心が和む。
「あ、ありがとうございます。邪魔しちゃいけないんで、そろそろ……」京太は袋を握りしめながら、本当に忙しそうなユウヤを見て、少し気まずそうに出口に向かう。
「今日はありがとうね。またいつでもおいで」ユウヤのお母さんが優しく声をかけてくれる。
「じゃあな、京太。また明日学校で」手を振るユウヤは、作業の手を止めないままだった。その背中には、どっしりとした責任感が漂っていた。
夜道を歩きながら、京太はふと息をついた。
「すげえな……あいつ」
京太は小さく呟きながら、白い息を吐いた。
秋の夜風が、静かに肩を撫でていった。
放課後、音楽室のドアが開いた。
廊下からは帰る生徒たちの笑い声や、部活動の準備をする声が聞こえてくる。けれど、音楽室だけは静かで、どこか特別な空気が漂っていた。
初めてボーカルを含めての練習に期待と不安が混ざっていた。
「とりあえず、この曲で合わせようぜ」ユウヤがスティックをくるくると器用に回しながら言った。その声には余裕を装ったような軽さが混じっていたが、少しだけ高揚感がにじみ出ているのを京太は感じ取った。雅は歌詞カードを手に取り、ちらりと内容を確認する。その手元がほんのわずかに震えているのを京太は見逃さなかった。
「大丈夫かよ、雅」。
喉まで出かけたその言葉を飲み込む、ただ見守るしかない
隣では、小森がアコースティックギターを膝に乗せ、指で弦を軽く弾いている。優しい音が響き、場の空気を和らげているようだった。
雅はマイクスタンドの前に立つ。小さく息を吸い込む音が聞こえた気がした。
ユウヤが軽くスティックを振り下ろし、最初の音が鳴る。京太がその後に続いてベースラインを入れる。重く安定感のある音が、部屋全体を支える基盤を作り出していく。そこに小森のギターが加わると、柔らかくも張りのあるメロディが色を添えるように流れ始めた。
しかし、その空気が本当に変わったのは、雅が声を乗せた瞬間だった。
ほんの少しハスキーで、それでいて力強い。初めて聞く声なのに、どこか懐かしく、温かさと冷たさが同時に心に刺さるようだった。力みすぎることなく、柔らかさも含んだ音が、部屋の隅々にまで染み渡っていく。
京太は指を動かしながら、目の前の雅を見つめた。その姿は、ほんの少しだけ震えていたが、声には確かな芯があった。
「……すげぇ」その一言が、思わず京太の口から漏れそうになった。
それよりも先に小森のギターが止まった。慌てて彼女は、筆談用のノートを取り出し、何かを書き込むと、それを雅の方へ差し出した。
「綺麗な声」
その文字を見た雅は、しばらく呆然としていたが、すぐに少し頬を染めて目を伏せた。「……ありがとう」
「いいじゃん、いいじゃん!」ユウヤがドラムセットの椅子から勢いよく立ち上がり、スティックを軽く振る。
「雅、普通にボーカル向いてるって。っていうか、お前プロ目指せよ!」その大袈裟なリアクションに、雅は「うるさい」と言いたげに目を細める。でも、その表情の奥には、少しだけ嬉しさが混ざっているように見えた。
そして、一曲をなんとか最後までコピーし終えた時にユウヤがスティックを手に持ったまま
「今日、練習終わったら歓迎会でもやらない?」と唐突に言った。
「歓迎会?」雅が眉をひそめて首をかしげる。その声に少しの疑問と興味を滲ませた。
「そうそう!」ユウヤはいつもの調子でニヤリと笑い、スティックを指の間でくるくる回した。「小森も雅も、正式にバンドメンバーになったわけだし、なんかやろうぜ。うちのパン屋で!」小森が目を丸くして固まった。
雅がペットボトルのキャップを開けながら、思いのほかあっさりと頷いた。「いいじゃん、楽しそう。そういうの、久しぶりだし」
「でしょ!」ユウヤはパンッと手を叩きながら、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。自分の提案が通ったことがよほど嬉しいらしい。
京太はベースを片付けながら、小さくため息をついた。「お前、すぐそうやって余計なこと決めるよな」
「なんだよ、余計なことって!」ユウヤが振り返りながら反論する。その口調はやけに明るい。
「まあ、いいけどさ……」京太の投げやりな声に、ユウヤは親指を立てて応えた。
「安心しろ!俺が全部段取りするから!」
その言葉を聞いた雅がふと笑った。「ユウヤが言うとちょっと不安になるんだけど」
「大丈夫だって!俺に任せろよ!」ユウヤは軽快に言い放つ。
そして練習を終えたメンバーは、それぞれ楽器を片付け始めた。ベースケースのジッパーを上げる京太の横で、ユウヤはドラムスティックをバッグに放り込む。
雅はペットボトルのお茶を飲むと、ふうっと息をついた。その姿は、練習が終わった安心感と、どこか心地よい疲労感が滲んでいるようだった。
小森は静かにギターをしまいながら、何かを考え込むような仕草が見え隠れしていた。
「じゃあ、6時に集合な!」音楽室を出て階段を下りる途中、ユウヤが振り返って声を張った。その声は階段に反響して、やけに大きく聞こえた。
京太とユウヤが軽口を叩きながら先を歩く中、小森はノートを胸に抱えたまま、静かに雅を見た。声ではなく、目で何かを伝えようとするような、控えめな仕草。
その視線に気づいた雅は、すぐにふっと笑みを浮かべた。その笑顔は、練習の時の真剣な表情とはまるで違う、柔らかで親しげなものだった。
「楽しみだね」雅は小さな声でそう言った。小森の目をまっすぐ見ながら。
小森は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく頷いた。その頷きは、少しだけ照れたようにも見えた。
18時ユウヤの家のパン屋、テーブルを囲んだ京太、雅、小森の三人の前で、ユウヤが「ちょっと待ってろよ」とだけ言い残し、奥のキッチンへと姿を消した。
「これ、完全にファミリーイベントじゃん」雅が苦笑しながら呟いた。
「まあ、ユウヤらしいけどな」京太が肩をすくめながら答える。
その横で、小森は緊張気味に自分の膝の上で手をぎゅっと握っていた。視線はテーブルの端に落ちている。周りの空気に溶け込もうとしているような彼女の様子を見て、雅が少しだけ体を乗り出した。
「大丈夫だよ」
雅の言葉に、小森は一瞬だけ顔を上げた。その表情にはまだ緊張が残っていたが、雅の柔らかな声に少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
「ほら、今日は私たちの歓迎会なんだから。緊張しなくていいって」雅がニッと笑う。その屈託のない笑顔は、小森の心の中の不安を少しだけ軽くした。
京太もそのやり取りを見て、小森に向かって言った。
「お待たせ!」奥からユウヤが大きなトレイを持って現れた。焼き立てパンやちょっとしたお菓子が並んでいて、ユウヤらしい気遣いが詰まった一皿だった。
「さ、みんな食べて食べて。今日は存分に楽しもうぜ!」ユウヤの明るい声に、店内の空気が一気に和らいだ。
しばらくして、奥からバタバタと足音が響いた。足音はどんどん近づき、やがてキッチンのカーテンを勢いよく押しのけて、ユウヤの弟妹たちが飛び出してきた。
「お兄ちゃんの友達だー!」「こんにちはー!」
三人が小さな体で突進してきた。
「わっ、ちょっと待って!」雅は思わず椅子を引いて避けたが、末っ子がしがみつくように彼女の膝に手をついた。
「お姉ちゃん、かわいい!」
突然の発言に雅は顔を赤くして「な、何それ!」と笑いながら返す。その様子を見た京太は、苦笑を浮かべた。
一方、小森の方には、小学生の妹が興味津々で近寄ってきていた。
「ねえ、ギターの人でしょ?お姉ちゃん、ギター見せて!」
小森は少し困ったような表情を浮かべたが、静かに頷いた。そして、ギターケースを開けて中のギターを取り出すと、子どもたちの目が一斉に輝いた。
「わあ!これ弾けるの?」妹が目を丸くして尋ねる。
小森は軽く頷き、ピックを取り出してギターの弦を軽く弾いた。澄んだ音色が店内に響くと、子どもたちは一斉に「すごい!」と拍手をした。
その様子を見ていた雅が、小森に向かって笑顔で言う。「ねえ小森さん、なんか弾いてあげたら?絶対喜ぶよ」
小森は雅の方をちらりと見てから、静かにノートを開き、ペンを走らせた。
「何を弾けばいいですか?」
雅はその文字を読みながら少し考えた後、「子ども向けの曲とか?どんぐりころころとかどう?」と提案する。
その言葉に京太が思わず吹き出した。「どんぐりころころって……いや、小森が弾くの想像できないけど、逆にめっちゃ見てみたい」
ユウヤもキッチンから顔を出しながら、「それ絶対ウケるわ」と笑うと、子どもたちが一斉に「やって!やって!」と声を揃えた。
小森は少し戸惑ったようにギターを抱え直し、弦に軽く触れながら小さく頷いた。そして慎重に音を確かめるようにして、静かに「どんぐりころころ」のメロディーを奏で始める。
「どんぐりころころ~♪」子どもたちが大合唱を始めると、店内は一気に賑やかな空気に包まれた。
テーブルに広げられたパンを囲みながら、ユウヤの弟妹たちが賑やかに動き回っていた。小森は、少し困ったような顔をして子どもたちの様子を眺めていたが、その視線に気づいた妹が、小森の方にとことこ駆け寄った。
「お姉ちゃん、それ何?」小森がいつも持ち歩いているノートを指さして、好奇心たっぷりの目を向ける。小森は少し戸惑いながら、ノートを膝に置き、中を開いて見せた。
「ここに書いてお話しするの?」今度は弟も覗き込む。小森は頷きながら、ノートにさらさらと文字を書き込む。「そうだよ、これでお話ししてるの」
その文字を見た妹が「じゃあ私も!」と大きな声を上げた。小森のノート広げると、小さな手でペンをつかみ、文字の横にまるで飾りのような落書きを描き始める。花や顔の絵らしきものが次々とノートを埋めていった。
「あっ!」思わず声を上げた京太が気まずそうに小森を見たが、小森は苦笑いしながら軽く手を振った。大丈夫だよ、とでも言うように。
「こら、迷惑かけんな。お兄ちゃんと遊ぼうぜ!」ユウヤが子どもたちに声をかけたが、妹はぷいっと顔を背けて「お兄ちゃんつまんなーい!」と一蹴。
「なんだとー!」ユウヤはムキになって椅子から立ち上がり、妹を追いかけ始めた。幼稚園児もそれに続き、店内は一気に追いかけっこ状態になった。
その様子を眺めていた小森の口元が、ふわりと綻んだ。追いかけられる妹たちがキャッキャと笑う声と、必死なユウヤの「こら、待て!」という声が重なり、その空間全体が柔らかな雰囲気に包まれていた。
しばらくすると、子どもたちは疲れ果てたのか、ソファに寄りかかるようにしてぐっすり眠りについていた。
小森は静かにギターケースを開け、アコースティックギターを取り出すと、ゆっくり弾き始めた。
「どんぐりころころ」と同じように、ゆったりとした童謡のメロディーが空気を満たしていく。
その音色に耳を傾けながら、雅がそっと小森の隣に座った。「ねえ、楽しかったね」小森は少しだけ顔を上げて、雅の方を見た。そして、いつものようにノートではなく、軽く頷くことで答えた。
「また、こういうのやろうよ」雅の言葉に、小森はほんのり笑顔を浮かべた。音楽と、静かな夜の余韻が四人の間に広がっていた。
次の日の放課後の音楽室にはいつものメンバーが集まっていた。京太がベースを軽く鳴らし、ユウヤがスティックでリズムを刻む。小森はギターを抱え、雅は発声を確認している。4人がそれぞれの調整をして、自然と練習が始まった。
1曲を終えると、京太はペットボトルの水を一口飲んでから扉の方に目を向けた。そこで気づいた。
「おい、なんかいるぞ」
「ん?」音楽室のドアの向こうに気配を感じ、ユウヤが振り返る。ガラス越しに数人の人影が見えた。女子生徒が数人、興味津々といった様子で覗き込んでいる。その中の一人がドアを開けると、音楽室に声が飛び込んできた。
「雅先輩!」手を振る女子生徒たちに、ユウヤがノリノリで応えようとしたが、完全に無視された。手の行き先は、雅だけを目指している。「噂には聞いてたけど……」京太がユウヤに小声で話しかける。「雅って、女子のファン多いんだな」「まあな。男子がいないのは、あの近寄りがたいオーラのせいだろうけど」ユウヤは肩をすくめて、笑いながらスティックを置いた。
視線を集めている雅は、少しばかり恥ずかしそうだった。眉間にわずかな皺を寄せ、鬱陶しいとでも言いたげな表情を浮かべている。それから、不意に鞄を手に取ると、短く言った。「……ごめん、今日は帰るわ」それだけ告げて、音楽室を後にした。
「モテる女は大変だねぇ」ユウヤが軽い口調でそう言うと、京太は「お前は本当に他人事だよな」と苦笑した。
ふと、小森が雅の後ろ姿をじっと見ていた。その目には、どこか心配そうな色が宿っている。「追いかけるのか?」京太がそう尋ねる間もなく、小森はギターをしまって、音も立てずにドアの方へ歩き出した。その後ろ姿は小さいけれど、決して迷いがなかった。
小森が音楽室を出た後、音もなくドアが閉じた。京太とユウヤは顔を見合わせる。
「追いかけたな、小森」ユウヤが椅子の背もたれに腕を乗せながら言う。
「まあ……あいつ、優しそうだもんな」京太はつぶやき、ドアの方をじっと見つめていた。
「なあ、練習続ける?」ユウヤがドラムスティックを回しながら聞いてくる。
「そうだな、とりあえず楽器だけで合わせてみるか」京太はベースを構え直しながら答えた。
音楽室の空気はさっきまでとは違い、少し静まり返っている。夕陽はさらに色濃くなり、カーテン越しにオレンジ色の線が床に伸びていた。楽器隊だけの音合わせは淡々と進み、その日の練習はあっという間に終わりを迎えた。
駅前の喫茶店の前で、雅は立ち止まっていた。ガラス越しに見えるのは、カラフルなフルーツがぎっしりと乗ったパフェのサンプル。クリームがふんわりと絞られ、ナッツやチョコレートが散りばめられたその姿は、どこから見ても美味しそうだった。
「……入ろうかな」
雅は小さく呟いたが、その足はなかなか動かない。喫茶店のガラス戸には、「季節限定!秋のフルーツパフェ!」という文字が大きく書かれていて、雅の目をさらに引きつける。
でも、やっぱり躊躇してしまう。雅は一度大きく息をつくと、ためらいがちに駅の方向へと歩き出した。
その瞬間、ふと視界の中に現れた小さな影に気づいた。
目の前には、小森が立っていた。
驚いて足を止める雅の前で、小森は鞄から携帯を取り出し、素早く文字を打つ。そして、それを雅に向けた。
「一緒に入りましょ。」
「……え? いつからいたの?」
雅は驚きつつもそれを誤魔化すように笑みを浮かべながら小森を見つめる。
けれど、小森は何も答えない。ただ、雅の手を軽く引いて、そのまま喫茶店の中へと連れて行った。
窓際の席に座った二人は、メニューを手に取りながらじっくりと選んでいた。外の通りでは、行き交う人たちの声や車の音が遠く聞こえる。店内は柔らかな照明に包まれ、カウンターからはコーヒー豆が挽かれる音が響いていた。
「これにしよっかな……やっぱりこれだよね」
雅は目の前の写真を見ながら呟く。そこには、彼女がずっと気になっていたパフェが載っている。
「これ、インスタとかで見てたんだよね。めっちゃ映えるって評判なんだよ。」
雅は嬉しそうに目を輝かせながら、メニューを小森に見せた。
小森は微笑みながら静かに頷き、自分もメニューに目を落とす。そして、雅が注文したカラフルなフルーツパフェとは対照的に、シンプルなチョコレートパフェを選んだ。
運ばれてきたパフェを前に、雅は満足そうに頬を緩めた。
「こうやって、誰かと放課後にお店に寄るの、すっごく久しぶりだなあ。」
そう言いながら、雅はスプーンでパフェをすくい、口に運ぶ。その顔には、喜びが滲んでいた。
小森も、自分のパフェを味わう。二人の間に会話はなくても、どこか穏やかな空気が漂っていた。
ふと、雅がスプーンを置いて、小森に目を向けた。
「なんで小森さんはあの二人とバンドしてるの?」
小森は淡々と携帯に文字を入力する
「しつこかったからです」
それを見た雅はきっと京太のことだと一人で笑っていた。
「ねえ、小森さん……実はさ、私、京太とユウヤの幼馴染なんだよね。」
雅は少しだけ自嘲気味に笑いながら続ける。
「中学でも、あの二人と一緒にいたかった。でもね、私があの二人と仲良くしてたらさ、周りの子たちに“ビッチ”って言われたりしてさ。それがだんだんきつくなって……」
雅の声は、途中でわずかに震えた。それを隠すように、彼女は目線をパフェの残りに向ける。
「そしたら、京太がわざと距離を置いてくれたんだ。あいつ、意外とそういう気配りができるやつだから。……おかげでいじめは収まったけど、それっきりなんだよね。ありがとうも言えなくて。」
雅は一瞬だけ目を閉じて、息を吐く。
「でもさ、小森さんのおかげで、またあの二人と一緒に何かできるのが嬉しくて。本当に感謝してる。……ありがとう。」
その言葉を聞いた小森は、静かに携帯を取り出した。そして、文字を打つ。
「実は綾瀬さんは私のヒーローなんです」
その文字を見た雅は、一瞬だけ不思議そうな顔をした。
小森は続けて携帯に打つ。
「1年生の時、購買でパンを買おうとしたけど、人が多くて諦めかけた時に、綾瀬さんが私にパンを差し出してくれました。あの日から、綾瀬さんは私のヒーローでした」
その文字をじっと見つめた雅は、やがてふっと笑顔を浮かべた。
「……そんなこと、あったんだっけ。うわ、なんか恥ずかしいな。」
そう言いながらも、雅の顔はどこか嬉しそうだった。
「でも、そっか。小森さんとそんな前から」
小森はまた何かを携帯に打ち始めた。その指先の動きはいつもより少し慎重で、文字を選ぶたびに小さく息を吸っているのがわかる。雅はスプーンでパフェのクリームをすくいながら、ちらりと小森の手元を気にしていた。
「だからこの前、綾瀬さんが突然現れて私すごく嬉しかったんです」そう書かれた画面を小森が差し出すと、雅は少し驚いたように目を見開いた。
「何それ……」雅は照れたように顔を伏せながら、小さく笑みを浮かべた。頬がほんのり赤いのがわかる。「でも私、ヒーローなんかじゃないからね」そう言った雅の声は、どこかいつもより柔らかい。
二人の間に、少しだけ穏やかな沈黙が流れた。喫茶店の窓の外では、仕事終わりのサラリーマンたちが歩いている。路面には街灯の淡い光が反射し、車のヘッドライトがちらちらと行き交っていた。
パフェを食べ終えた雅は、スプーンをそっとテーブルに置きながら、ぽつりと呟いた。
「私ね、本当は歌手になるのが夢なんだ。」
その言葉に、小森はスプーンを止めて雅を見つめた。
「でもさ、人前で歌うのが本当に苦手で……今日も、正直言うと逃げ出しちゃったんだよね。」
雅の目が、どこか遠くを見るように揺れている。その瞳に、小森はペンを走らせて応えた。
「私は、綾瀬さんの歌声、大好きです」
その文字を見た雅は、一瞬だけ息を止める。そして、小さな声で「……ありがとう」と呟いた。
「でも、二人にはまだ内緒ね。これ、私たちだけの秘密だから」
小森は頷きながら、再びノートに書き加える。
「応援してます。二人の秘密です」
雅はその文字をじっと見つめた後、ふっと笑顔を浮かべた。
「なんかさ、こうやって誰かと友達みたいに話すの、久しぶりだな。だから、つい調子に乗っちゃって、いっぱい話しちゃった」
雅は苦笑いを浮かべながらそう言った。その瞬間、小森がふっと頬を膨らませて、不機嫌そうにノートに何かを書き始めた。
そして、そのノートを雅に突き出す。
「私たち、もう友達じゃないですか!」
その文字を見た雅は、一瞬固まり、そして慌てたように顔を赤くして言葉を詰まらせた。
「え、いや、もちろん友達だよ! ただ、ほら……その、あれだよ、友達ってどうやって始めるんだっけ?」
焦ったように手を振る雅を見て、小森は少しだけ得意げにノートに書き加えた。
「“ちゃん”付けして呼び合うのです」
その提案に、雅は少し驚いた顔をした後、恥ずかしそうに顔を手で覆った。
「え、急にそんな……でも、確かにそうかも……」
雅は少しだけ照れながら、小森の方をちらっと見て言った。
「じゃあ、私、葵ちゃんって呼ぶよ。」
小森の顔に一瞬、驚きと嬉しさが混ざったようなキラキラした表情が浮かぶ。
そして、ノートにすぐ文字を書く。
「雅ちゃん!」
雅は、小森のノートに書かれた「雅ちゃん」という文字を見つめた。シンプルな文字列なのに、その中には不思議なくらい温かさが宿っているように感じられた。
「……名前で呼ぶのって、案外いいもんだね」雅が照れ隠しのように呟くと、小森は小さく頷いて、ノートにさらさらと文字を書き足す。
「友達だから、当然です」
それを見せた小森はノートを閉じて、微笑んだ。
ガラス越しに見える夕暮れの景色は、ほんの少し赤みを帯びていて夕陽に染まった窓辺が、二人を静かに包み込んでいるようだった。
1時間目の授業が終わり、教室がざわつき始める。椅子を引く音や、廊下を駆け抜ける足音、誰かが笑い声をあげる声が混ざり合う中で、京太は机に突っ伏していた。
「おーい、京太。お前まだ寝てんのかよ?」
ユウヤのニヤニヤした声とともに、肩を叩かれた京太。
机に広げた腕の間から京太が顔を覗かせる。
「寝てねえよ。ただ、ぼーっとしてただけだ。」
「お前、ぼーっとしてる暇なんてねえぞ。」
「なんだよ、急に。」
ユウヤは京太の隣の席にどっかりと腰を下ろした。何か企んでいるのは、その目を見れば一目瞭然だった。
「俺らさ、思い出作るためにバンドやることになったじゃん?」
「うん……だから?」
「路上ライブしてる人が、『僕の気持ちを歌にしました』とか言って、カバー曲歌ったら変じゃね?」
京太は目を細めてユウヤを見た。
「何が言いたいんだよ。」
ユウヤは悪びれる様子もなく、腕を組んでにやりと笑った。
「オリジナル曲が必要だろ。」
「は!?」
その声に教室の中の数人がちらりと振り返る。京太は思わず声を落とした。
「誰が作るんだよ」
「作曲は小森に任せるとして……」
そこで一瞬、嫌な予感が京太の胸をよぎる。ユウヤが何を言い出すのか、なんとなく察してしまったからだ。
「で、作詞は?」
京太がそう聞くと、ユウヤは「待ってました」と言わんばかりの顔をして、京太の肩を叩いた。
「お前だよ」
「いや、いやいや待てよ。俺、歌詞とか書いたことねえし。」
「お前さ、いつもノートになんか書いてるだろ」
「いや、小説だよ。歌詞じゃない。」
「同じだよ!文字を書くって意味では変わんねぇって!」
「全然違うわ!」
京太が声を荒げる。
「ま、そんなこと言うなって。お前、こういうの意外と向いてそうじゃん。」
「無理だって、お前、俺の気持ち考えたことある?」「ないね」即答するユウヤに呆れながらも、京太は「無理だ」と繰り返した。だがユウヤは意に介さず、ニヤニヤと笑っている。
「頼んだぞ、詩人!」ユウヤはそう言って、再び京太の肩を叩くと教室を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、京太はうなだれるしかなかった。
家に帰ると、京太は机の上にノートを広げた。授業用ではない。
「……無理だって」そう呟きながらも、ペンを動かし始める。ノートのページには、思いつく限りの言葉を箇条書きしていく。
午前2時。机の上に広げられたノートには、ぐちゃぐちゃに書き殴られた文字が乱雑に散らばっていた。「夢」「未来」「涙」――ありふれた単語たちが、何度も消され、書き直されている。その隙間には、小さな矢印や無意味な落書きが埋め尽くしていた。
蛍光灯の白い光が、消しカスの山を照らしている。京太はペンを持つ手を止め、ノートのページをぼんやりと見つめた。頭は重く、思考はもうまとまらない。
「……無理だな」誰にも届かない声で呟くと、椅子の背にもたれかかった。部屋の中は静まり返り、外から聞こえるのは、たまに通る車の遠いエンジン音くらいだった。
机の上に置かれたスマホの画面がうっすら光を放つ。誰かからのメッセージ、もう確認する気力すら湧かない。
「……もういいや」力なく呟いたあと、京太は立ち上がり、机のそばにあるベッドに向かう。そのまま、倒れるように布団の上に横たわった。
ノートのページは机の端で風に揺れ、かすかにカサカサと音を立てる。消し忘れた蛍光灯が、白々とした光を部屋中に投げかけている。そんな中で、京太の意識は静かに沈んでいった。
朝の教室、まだ半分も席が埋まっていない時間。篠原京太が教室の扉を開けると、自分の席に座るはずの場所に、ユウヤがふんぞり返るように座っていた。
「おはよーさん!」声と一緒に、彼特有のニヤニヤした笑顔が飛び込んでくる。
「……何してんだよ、お前」京太は鞄を机の端に置きながら眉をひそめた。
「いやぁ、ちょっとお前に話があってな」ユウヤはスティックを回すみたいにペンを指先で器用に操りながら言った。その顔には明らかに企みの色が浮かんでいる。
「またかよ。なんだよ、今度は」京太は心底うんざりした声を出す。それでも、なんとなくユウヤの話を聞かずにはいられなかった。
「小森がさ、作曲してくれるってよ!」
「……は?」思わず漏れた京太の声に、ユウヤはさらにニヤニヤ度を増して頷いた。
「いや、昨日俺がお願いしたらさ、『いいですよ』って言ってくれたんだよ。意外だよなぁ、あの控えめな感じで、案外ノリいいんだな」嬉しそうに言うユウヤは続けて言う。
「ってことで、京太の作詞は完全に確定な。頼んだぞ、詩人!」ユウヤは立ち上がり、京太の肩を軽く叩いた。まるで、「お前ならやれるだろ」と信頼している風を装った顔で。
「おい、だから無理だって……」京太が抵抗の声を上げる間もなく、ユウヤは軽快な足取りで教室を後にした。背中にはどこか達成感が漂っている。
机に突っ伏した京太は、ため息をついた。
結局、作詞は一行も進むこともなく放課後の練習の時間になった。
京太はベースのストラップを肩に掛け、アンプにコードを繋いでいる。ユウヤはドラムセットの前で軽くスティックを回しながらリズムを刻んでいた。その隣で小森がギターの調整をして、雅は鞄からグミを取り出した。
「ねえ、葵ちゃん、これ期間限定の味だから食べてみて」
雅が唐突に声を発した。
「……え?」京太とユウヤが同時に手を止めた。
「今、何て?」と京太。
「だから、葵ちゃんって呼んだの。何かおかしい?」雅は首をかしげながら言う。その無防備な表情に、京太とユウヤは一瞬、固まったように動きを止めた。
「いや、おかしいっていうか……」京太が口ごもる隣で、ユウヤが顔をしかめた。
「ちょっと待てよ、いつの間にそんな仲良くなったんだよ?」
雅は肩をすくめて、少しだけ得意げに笑った。「こないだ、一緒にパフェ食べたし?」
その言葉に小森が小さく頷く。少しだけ微笑んでいるのが京太の目に留まった。
「じゃあ小森、俺ともパフェ食べようぜ!」ユウヤがそう言いうと、雅が笑いながら「はいはい練習始めるよ!」と軽く流した。
練習が始まると、そんなやりとりはすぐに音の波に飲み込まれた。
「いい感じじゃん!」ユウヤが曲の終わりに声を上げた。スティックを高く掲げ、椅子の背もたれにふんぞり返る。
「確かに、まとまってきたな」京太も小さく息をつきながら同意する。
練習を終えたメンバーたちが、それぞれ楽器を片付けながら雑談をしている中、京太は小森のそばに近寄った。
「なあ、小森」声をかけられた小森は、ギターケースを閉じる手を止め、京太の方を見上げる。
「お前、なんで急にそんなに協力的なんだよ?」京太は、どこか探るような視線を向けた。作曲まですると言い出した小森が、どうにも腑に落ちなかった。
小森は一瞬だけ目を泳がせた後、すぐに筆談用のノートを取り出した。ペンを走らせる音が小さく響く。
「……バンドは楽しいから」そう書かれた文字を見て、京太は首をかしげる。
「いや、それだけじゃないだろ。楽しいとか言うタイプじゃないの、わかるし」小森はわずかに目を見開き、それから慌ててまた何かを書き始めた。
「二人の秘密です」
「は?」
その一言に京太は拍子抜けしたような顔をしたが、小森はそれ以上何も言わず、にこりと笑ってみせた。
「……まあ、別にいいけどさ」
京太はそう言いながら続けた。
「俺には歌詞なんて書けない」
その言葉に、ユウヤと雅が振り返る。雅もじっと京太を見つめていた。そして小森はノートを取り出し、ゆっくりと何かを書き始めた。
「私のこと、しつこく誘ったのに逃げるんですか?」
小森はいたづらな表情を浮かべていた。
その文字を見た瞬間、雅が吹き出した。
「なにそれ、京太、だっさ!」ユウヤも腹を抱えて笑い出す。
だが、京太には笑えなかった。小森の文字は、核心を突いているような気がした。
確かに、自分は小森を何度も説得して、ようやくバンドに引っ張り込んだ。そのくせ、自分が肝心な場面で投げ出すのはどうなんだ、と頭の片隅で囁く。
サッカー部を辞めたときのことが頭をよぎった。あのときも怪我を理由に自分を納得させ、背を向けた。それからずっと、今の自分の状況を「仕方ない」で片付けてきた自分を、京太は心のどこかで嫌っていた。
「……逃げるの、ダセェよな」小声で呟いた京太に、小森がじっと目を向ける。そして、またノートを広げて文字を書く。
「私も手伝うよ」
小森の文字には、優しさと、どこか背中を押すような力強さがあった。
「手伝うって……お前、作曲だけでも十分だろ」
小森は首を横に振り、ノートを閉じた。そして、もう一度「がんばりましょう」とでも言いたげに京太の方をじっと見つめた。その真っ直ぐな視線に、京太はたじろぎながらも笑みを浮かべた。
「……ったく、わかったよ。書いてみるよ」
その言葉に小森は静かに頷き、京太に向けて小さく笑った。
次の日もその次の日も、京太はノートに向き合っていた。
机の上にノートを広げたまま、じっとそのページを睨んでいる。黒いインクがびっしりと並ぶページは、線で消された文字や書き直したフレーズで汚れている。
その隣では、小森がギターを抱えて音を確かめるように軽く弾いていた。
「こんなもん、誰が聴きたいんだよ……」京太は自分にそう呟いた。
小森はその声に気づいて手を止めた。じっと京太を見つめるが、言葉は発さない。ただ、ゆっくりとノートを覗き込み、そこに書かれた言葉たちを目で追う。
「全然ダメだ。こんなのじゃ伝わらない」京太はそう言いながら、ノートの端を掴む。まるでページを破り捨てたいような仕草だった。
小森は慌てて首を振り、ペンを手に取る。そして、筆談用のノートに短く書いた文字を京太に見せた。
「悪くないと思います」
その言葉に、京太は思わず笑いそうになった。けれど、それは嬉しい気持ちからではなかった。
頭の中に浮かぶのは、サッカー部だった頃のことだ。夢中でボールを追いかけていた日々、仲間たちと声を掛け合い、目指していた場所。その先に待っていた挫折の記憶。
怪我で部活を辞めたあの日。グラウンドから聞こえる部員たちの声を、遠く感じながら帰り道を一人で歩いたこと。
「……俺は、結局そこから何も進んでないのかもな」
そう思った瞬間、頭の中で何かが弾けた。
「でも、それを書けばいいんじゃないのか?」
これまで避けてきた自分の傷。それこそが、歌詞になるんじゃないか。
京太は再びペンを握った。その手は、先ほどまでとは違っていた。
京太は完成した歌詞を手に、音楽室のドアを押した。放課後の静かな空間には、ユウヤがすでにいた。雅はまだ姿を見せていない。
「できたのか?」ユウヤが明るい声で問いかける。
「……一応一番だけ」京太はそう言いながら、書き上げた歌詞の紙を差し出した。
曇り空の下 歩き続けた行き場をなくした思い抱えて止まらない時計の針に焦る心 隠したまま
誰も見ていない気がしてた声を上げても届かないような
描いてた未来は ぼやけていく掴もうとした夢が 手の中で崩れるあの日の声が 背中を押すけど振り向くたびに 見えるのは途切れた足跡
諦めたフリをして本当は怖かったんだ 進むことが
挫けた心 ひび割れた希望それでも消えない 灯が揺れている届かないと知ってても 何度も伸ばす壊れた翼で 空を見上げる
ユウヤはその紙を受け取ると、パッと目を通しながらニヤリと笑った。「おお、なんか京太っぽいな!いいじゃん、いいじゃん!」
その声に、小森も覗き込み、目を細めて頷いた。そして、ギターを抱えて軽く音を鳴らし始める。小森は即興でメロディーを付け始めた。
「おっ、いいじゃん!めっちゃ雰囲気出てる!」ユウヤが嬉しそうに手を叩く。
少し遅れて雅が音楽室に入ってきた。
「遅れてごめん。あ、それ歌詞?」雅は椅子に座ると、渡された紙を手に取る。
「うん、まあ一番だけだけど」京太が少しだけ照れたように答える。
「歌ってみてくれる?」その言葉に、雅は小さく頷いた。
小森がギターを弾き、雅が歌い始める。彼女の少しハスキーな声が、音楽室の空気を震わせる。
歌い終わると、ユウヤは大きく拍手をした。「おいおい、これマジでいいんじゃねえか!」
小森も軽く頷き、「間に合いそうですね!」とノートに書いて京太に見せた。
しかし、雅の表情はどこか曇っていた。
「……なんか、違うかも」
その言葉に、京太は目を細めた。
「何が違うんだよ」
「なんていうか、なんか思ってたのと違うっていうか」
雅のその言葉に、京太は眉をひそめた。
「……は?じゃあどうしろって言うんだよ」
「別に悪いってわけじゃないけどさ、聴く人が共感できるのかなって思っただけ」
「お前、簡単に言うけどさ!俺はこれしか出てこなかったんだよ!」
京太の声が少し大きくなる。雅は少し怯んだように一瞬目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「だったら、もっと自分の気持ちをちゃんと伝えればいいじゃん!」
「ちゃんと伝えたつもりだよ!」
その言い合いに、小森が慌ててノートに文字を書き始めた。「落ち着いてください!」
小森のその文字に気づき、二人は息を整えるように深呼吸をした。
「……ごめん」雅が小さく呟いた。京太もそれに応えるように頭を掻きながら視線をそらした。
音楽室に静けさが戻る。
「ごめん、先帰るわ」
そう言い残して、京太は音楽室を後にした。
ユウヤも小森も追いかけることができなかった。誰もいない廊下を一人で歩く京太の足音だけが、静かな校舎に響いていた。
外に出ると、空はもう暗くなりかけていた。風が冷たく、肌にじんわりと秋の夜の気配がしみ込む。京太は自然と足が向くままに歩き、いつもの公園へたどり着いた。
京太はブランコに腰を下ろすと、鎖を軽く掴み、ゆらゆらと体を揺らした。ギシギシという金属のきしむ音が小さく響く。それだけが静まり返った公園の中で妙に耳に残る。
心の中ではずっと、同じ言葉がぐるぐると回っている。自分は、何をやっているんだろう。
作詞なんて自分には荷が重すぎる。思い出を残したいなんて言いながら、結局、自分が目立ちたかっただけなんじゃないか。そう考えると、情けなさが胸の奥で膨らんでいく。
せっかく三人が一緒に集まってくれたのに――。
京太は小さくため息をついた。視線を足元に落とすと、スニーカーの先が砂を軽く蹴る。その動きに連れて、ブランコが少しだけ揺れる。
どれくらいそうしていただろう。ふと足音が近づいてくるのに気づき、顔を上げた。
「相変わらずここなんだね」
聞き慣れた声だった。振り返ると、雅が少し息を切らせながら立っている。制服のスカートが、わずかな夜風に揺れている。
「……どうしてここに?」
京太は驚きと戸惑いが混ざったような表情を浮かべた。雅は軽く肩をすくめてみせた。
「京太がいそうな場所、そんなに多くないからね」
そう言いながら雅は、京太の隣のブランコに腰を下ろした。二人の間に沈黙が訪れる。風の音が木々を揺らし、かすかに夜の虫の声が聞こえる。
「なんでバンドに入ったの?」
京太がふと尋ねた。雅は少し目を細めて遠くを見つめていたが、やがて口を開いた。
「中学の時のこと、覚えてる?」
その問いに、京太はうなずいた。あの日々の記憶がよみがえり、胸が少しだけざわつく。
「いじめられてたことも、京太は知ってたよね。私が二人と一緒にいるの、周りがよく思わなくてさ。ビッチって陰で言われて、机に悪口書かれたりして。最初は私も気にしてなかったんだけど……だんだん嫌になって、学校が怖くなった」
雅の声が少し震える。彼女は一度言葉を切り、息を吸い込んだ。
「それで、京太が距離を置いてくれたんだよね。私が傷つかないようにしてくれたって、気づいてた。でも……ありがとうも言えなかった」
京太は視線を下げたまま、何も言わなかった。そのときの自分の決断が正しかったのかどうか、今でもわからない。
「だから、今、こうしてまた一緒にバンドを組めたのが、なんだか不思議でさ。すごく、嬉しくて……」
雅の声が少しだけ明るくなる。その横顔には、どこか昔のままの無邪気さが残っているようだった。
「それでね、私、京太がどんな歌詞を書くのかすごく楽しみだったんだ」
「え?」
意外な言葉に、京太は雅を見た。雅はふっと笑って続けた。
「中学の頃から、高校に入ってからの京太のこと、全然知らないから。どんなことを考えてきたのか、どんな風に生きてきたのか……歌詞を通してそれを知れると思ってたんだよね」
「……でも、今の歌詞は全然違った?」
京太が自嘲気味に笑うと、雅は軽く首を振った。
「ううん。あの歌詞、良い部分もあったよ。でも、なんていうか……暗いことばっかでさ。怪我のことも知ってるけど、それって人生の中ではただの“点”じゃない?」
雅は言葉を続けた。
「そのいろんな点を繋げるのが歌詞なんじゃないかな。怪我をして挫折して、その結果、京太はどうなったの?今、こうして私たちと一緒にバンドをやってるんじゃない?」
雅の言葉が、京太の胸に深く刺さる。彼女の静かな眼差しは、とても優しかった。
「だからさ……ユウヤや葵ちゃんを、京太の“復讐の道具”にしちゃダメだよ」
雅は少し微笑んで、冗談めかした口調で続けた。
「ま、でも私はあんたの復讐手伝うけどね」
その言葉に、京太は思わず口元が緩んだ。
「……ありがとう」
京太は小さく、でも確かな声で言った。雅は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「私も、あの時はありがとうね」
雅の言葉は、秋の夜の冷たい空気の中でじんわりと温かさを広げる。
二人はしばらく無言のまま、公園を出る道を並んで歩き始めた。夜空には星が少しだけ浮かんでいた。
歩道脇の並木道には、木々が作る影が伸びている。街灯の下を通るたびに、二人の影が長くなったり短くなったりと揺れていた。その影が重なりそうで重ならない距離を保ちながら、二人は無言で歩く。
やがて、コンビニの明るい光が遠くに見えてきた。
「帰るか」京太がそう言うと、雅は小さく頷いた。
「……ありがとね、京太」「何が?」「なんとなく。全部、いろいろ」
その言葉に、京太は何も言わず、小さく頷くだけだった。
コンビニの前で、雅がふと足を止めた。「じゃあ、また明日ね」「おう。気をつけて帰れよ」
雅は軽く手を振り、夜道の奥へと歩いていった。その後ろ姿が街灯の光の中に溶けていくのを、京太はしばらくの間、じっと見つめていた。
ふと冷たい風が吹いて、京太の髪を乱す。その風が、頭の中でぼんやりとしていた言葉や感情を一緒に吹き飛ばしていくような気がした。
「点を繋げる……か」
京太は小さく呟きながら、夜空を見上げた。星たちは相変わらず淡い光を放ち、そこにある形を示そうとはしていなかった。それでも、あの星たちはきっと繋がっているのだろう。
そんなことを思いながら、京太は家へ向けて歩き出した。
文化祭まであと1か月。バンドの練習は徐々に熱を帯びてきた。
ステージで披露する曲は2曲。一つはオリジナルで、もう一つは誰もが知る人気バンドのコピー曲。オリジナルは京太の作詞待ちという状況で、現時点ではコピーの完成が最優先だった。
文化祭まであと1ヶ月となり、バンドの練習は本格的になってきた。ステージで披露するのは2曲。一つはオリジナル曲で、もう一つは人気バンドのコピー。コピー曲はすでに決まっていて、オリジナル曲は京太の作詞を待ちながら、練習はまずコピーの完成を目指していた。「ここさ、テンポもうちょっと上げたほうがよくない?」
ユウヤが言う。その声に、京太が「いや、コピーなんだからアレンジすんなよ」と即座に返す。
「いいじゃねーか!俺の直感を信じろ」
すると小森が「なしです」と突っ込んでユウヤはシュンとなった。
毎日のように繰り返されるこんな音楽室でのやり取り。軽口の飛び交う中にも、どこか真剣な空気が混ざっている。全員が少しずつ、自分たちの音楽を形にしていこうとしていた。
練習が終わると、京太と小森は駅近くのファミレスへ向かうのが習慣になっていた。テーブルの上には京太の持参したノートが広がり、小森がそれを覗き込むように見ている。京太は手元でペンを動かしながら何か書き込んでいるが、そのペン先はどこか迷子のように揺れていた。
窓越しには街灯の光が映り、通りを歩く人々の影がゆらゆらと揺れる。ファミレス特有の薄い音楽と、時折聞こえる注文を取る声。それらが妙に心地よく耳に残る中、二人は飲み物を手にそれぞれの作業を続けていた。
京太の前にはいつものコーヒー、小森の前にはオレンジジュース。京太はコーヒーを一口飲んでは、毎回のように顔をしかめる。
小森はジュースのストローを指先でくるくると回しながら、静かにメロディを考えている。
「このフレーズ、どう思います?」小森が小さな文字で書いた質問を、ノート越しに京太に見せる。京太は慌てて顔を上げると、ノートに視線を落とし直した。
「いいと思うけど……いや、でもなんか、ここだけ浮いてる気もする」京太が指先でページをトントンと叩く。その言葉に、小森は少し考えるようにうなずき、再びペンを走らせた。
こんな日々が、すでに1週間ほど続いていた。ファミレスの片隅で、夕方から夜にかけてのわずかな時間を共有しながら、少しずつ形になっていくオリジナル曲。その進み方は決して速くはなかったが、確実に前に進んでいる感覚が二人にはあった。
それと同時に、少しずつ生まれていくチームとしての結束感。それが心地よかった。
けれど、そんなある日、ユウヤから京太に突然連絡が来た。「悪い、今日無理だわ。」LINEの画面には短い文章だけが表示されている。
「まぁ、そんな日もあるか。」独り言のように呟きながら、特に気にしなかった。ユウヤが休むなんて珍しいけれど、どんな元気なやつでも、たまにはそんな日もあるだろうと思ったからだ。
けれど、次の日もユウヤは練習に現れなかった。音楽室はどこかいつもより静かだった。雅がユウヤの代わりにリズムを取るために手拍子を入れてみたり、小森がギターの音をいつもより大きめに弾いてみたりと、それぞれに空気を埋めようとしているのが分かった。けれど、それでも足りなかった。
ユウヤがいないだけで、こんなにも空間が変わるものなのかと京太は改めて思い知らされる。
「もう一回、やろっか。」雅がそう言いながら譜面をめくる音が響く。けれどその声も、どこか普段より少し控えめに聞こえた。静かに合わせ始めた音楽が、どこか頼りないものに感じられる。その空間に漂うわずかな寂しさを、京太はうまく言葉にできなかった。
なんとなく浮ついた気持ちのまま、練習は続けられたけれど、誰もが同じ違和感を抱えているのは明らかだった。
「今日もごめん、行けない」
またしてもユウヤからの短いメッセージ。京太は思わずスマホを見つめる時間が少し長くなった。
昼休み、京太はユウヤを探していた。教室を出て廊下を歩きながら、見慣れた背中を見つけるとそのまま声をかけた。
「おい、ユウヤ。」
振り返ったユウヤは、いつものニヤニヤ顔とは少し違った。目の下に疲れが滲んでいて、声をかけられた瞬間もほんの少しだけ驚いたように見えた。
「ん、どうした?」軽く返してくるが、その声には張りがない。
京太はそのまま歩み寄り、隣に立った。「今日も練習休むって?」
ユウヤは一瞬視線を逸らして、口を少し尖らせた。「ああ。悪い、いろいろあってさ。」
「あいまいすぎるだろ。何があったんだよ。」なんでもないってと流されるのがわかっていたけれど、京太はストレートに聞いた。
「いや、ちょっとバタバタしててさ。別に大したことじゃないって。」ユウヤの返事は予想通り、曖昧だった。
「パン屋、忙しいのか?」京太が少し間を置いて聞くと、ユウヤの肩がピクリと動いた。
「……まぁ、そんな感じ。」ユウヤは小さくため息をついた。手を頭の後ろに回し、軽く髪を掻き上げる。
「……母ちゃんがさ、倒れたんだよ。」その言葉は、ユウヤらしくないほど静かだった。
京太は一瞬、何も言えなくなった。「倒れたって……それ、大丈夫なのか?」
「わかんねぇ。疲れが溜まっただけだって医者には言われたけどさ。でも、店は閉められないし、弟たちの世話もあるし、俺がやらないと回んねぇんだよ。」
ユウヤの声には無理を隠そうとする軽さが混じっていたが、その奥にある重さははっきりと感じ取れた。
「……なんで言わねぇんだよ、そんなこと。」京太の声は、少し低かった。
「言ったってどうしようもねぇだろ。お前らに心配かけるだけじゃん。」ユウヤは苦笑いを浮かべたが、その目はどこか遠くを見ていた。
「じゃあさ、俺、手伝いに行くよ。」ふっと、できるだけ軽い調子で言った。無理やりでも気楽さを装って。
ユウヤは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。その笑顔は少しだけ歪んで見えた。
「お前が?パン屋を?いやいや無理だろ」
「何が無理なんだよ。皿洗いとか簡単なことぐらいはできるし、パンを焼くのだって教えてくれれば――」
「無理だって」ユウヤが遮るように言った。声のトーンが少しだけ低くなったのがわかった。
「……いや、俺、本当に手伝うつもりなんだって。何かやれることがあるなら――」
「京太」今度はもっとはっきりした声だった。京太の言葉を断ち切るように響いた。
「悪いけどさ、お前にそんなことさせるつもりないから」
「……でも、お前、ひとりで全部やるのしんどいだろ?」
「しんどいけど、だからって誰かに頼るのは違うんだよ。俺の家のことだから」
ユウヤはそう言って、ふっと息を吐いた。
京太は言葉を詰まらせた。何を言っても跳ね返されるような、そんな雰囲気がユウヤの全身から伝わってきた。
「……そっか」
やっとそれだけ絞り出した。
ユウヤは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。「悪いな。でも、気持ちはありがたいよ」
京太は小さく頷いた。結局、何もできないまま、ユウヤが先に廊下を歩き出すのを見送るしかなかった。
振り返ることなく歩いていくユウヤの背中が、いつもの大きな声や明るい笑顔とは違って、どこか小さく、遠く感じられた。
放課後の音楽室。京太は、目の前の雅に声をかけた。
「ユウヤ、今日も休むって」その一言に、雅が振り返る。
「え、また? どうしたの?」眉を寄せる雅の声には、少し心配の色が滲んでいた。
「母親が倒れたらしい。それで、パン屋をひとりで切り盛りしてるみたいだ」京太は静かに伝える。
雅は目を丸くして息を呑んだ。しばらく沈黙したあと、机に手をついて立ち上がった。
「……なら手伝いに行こうよ」その迷いのない一言に、京太は嬉しくなった。
その横で小森がそっとノートを二人に向ける。
「私も行きます」
雅はその文字を見て微笑み、京太を振り返る。
「ほら、葵ちゃんも行くって言ってるし。三人で行けばなんとかなるよ。」
「決まりだな」
京太は頷いて立ち上がった。
ユウヤの家の前に着く頃には、空はすっかり暗くなり、街灯の明かりがポツポツと灯っていた。奥からは微かに作業の音が聞こえてくる。
店の中からは、ユウヤの声と妹たちの声が聞こえてきた。「お兄ちゃん、これどこに並べればいいの?」「そこに置いといてくれ!あと、焼きあがったやつトレイに乗せて!」
忙しそうに動き回るユウヤを見て、三人は思わず顔を見合わせた。
「すみません!」
京太が厨房に向かって言う。
「はーい!」奥から聞こえたユウヤの声は少し疲れていた。エプロン姿のユウヤが現れる。
「なんでお前らここに?」驚きと戸惑いの混ざった表情を浮かべるユウヤに、雅が即座に答えた。「手伝いに来た。」
「は? 何勝手なこと言って――」
「お前、ひとりで無理するつもりかよ? みんなでやった方が早いだろ」
京太が言うと雅も「そうだよ。パン屋のことも、バンドのことも、みんなでやればいいじゃん」とまっすぐに言い切った。
ユウヤはため息をつきながら、ふっと笑った。「お前ら、本当勝手だな……でも、確かにそうだよな」その顔には、どこかホッとしたような表情が浮かんでいた。
「じゃあ頼んだ」
そう言ってユウヤは厨房に戻って行った。
雅と小森、そして京太が顔を見合わせて微笑みながらパン屋の中へ足を踏み入れた。
すぐに子どもたちの声が飛び込んできた。
「葵お姉ちゃんだー!」「雅お姉ちゃんもいるー!」
ユウヤの妹たちが駆け寄ってきた。
小森のギターケースを指さして
「また何か弾いて!」「ギター弾きに来たわけじゃないの、ごめんね」雅がそう言うと、末っ子が「えー、やだやだ!」と駄々をこね始めた。
「おいおい、お前ら、お姉ちゃんたちは遊びに来たんじゃないんだぞ。」ユウヤが妹たちを注意している中
「で、何をすればいいんだ?」と京太が聞くと「とりあえず、売らなきゃいけないパンが山ほどある。全部売り切れば、今日はおしまいだ」
ユウヤが棚を見ながら答える。
雅がその棚を見て、「これ、結構な量じゃない?」と声を上げる。ユウヤは「だから手伝えよ」と軽く言い返す。
「よし、呼び込みやろう。小森、ギター持ってきてるし、ちょっと路上ライブしてみたら?」
雅が驚いた顔で提案した京太を見た。「ちょっと待って、それって……私が歌うってこと?」
京太は頷いた。「そりゃそうだろ。ギターだけじゃ足りないし、雅、お前の声ならきっと人を集められる。」
「いやいや、無理だって。こんなところで歌うなんて……」雅は顔を赤くして否定するが、隣で小森がノートに何かを書き始めた。そしてそれを雅に見せる。
「大丈夫。いつも通りだよ!」
その文字を見た雅は、しばらく小森をじっと見つめた。「……本当に、歌うの?」
小森は小さく頷き、店前に出てギターの準備を始める。
雅はギターケースを開ける小森の隣で、じっと立ち尽くしていた。足元に視線を落としながら、周囲のざわつきがやけに耳に響く。行き交う人々の気配、足音、雑踏の音。すべてが混ざり合って、自分を見つめる目に思えてくる。
「これ、本当にやるの……?」雅の声はかすれ、口から出た言葉はほとんど囁きに近かった。普段の彼女らしくない、その弱気な声。けれど、隣の小森は何も言わずにギターを肩にかけ、音を確かめるために軽く弦を弾いた。
柔らかな音色が一瞬だけ空気を切り裂いて、道行く人たちが二人を一瞬見た。雅は心臓が痛いほどに早く脈を打っているのを感じた。
「やっぱ無理だよ……こんなところで歌うなんて。」そう呟いた雅の手を、突然小森が軽く握った。小森の手は少し震えていた。
「……葵ちゃん?」驚いて顔を上げると、小森は携帯をを雅に見せる。
「私も緊張してる。でも、二人なら大丈夫。」
その短いメッセージに、雅の胸がきゅっと締めつけられた。周囲のざわつきや通り過ぎる人々の視線は相変わらず気になる。自分だけが知らない世界に放り出されたように感じた。だけど、小森の手の温度だけが、確かに雅をここに繋ぎ止めていた。
「二人なら大丈夫……か」雅は小さく呟くと、小森の顔を見た。彼女は微かに頷き、弦を軽く弾いて音を合わせ始める。その仕草に、どこか背中を押される感覚がした。
「……分かった」雅は深呼吸を一つして、肩の力を抜いた。
小森が弦を弾く。軽やかな音色が通りに響き渡り、いつもの街の騒音に不思議なリズムが混ざる。ギターの音が、行き交う人々の足を自然と止めさせていた。
雅はその横に立ちながら、思わず息を飲んだ。手の中でぎゅっと握りしめていた指先がじんわりと汗ばんでいる。
小森が一瞬、顔を上げて雅に視線を送る。言葉はないけれど、「今だよ」と伝えているような気がした。
雅は少しだけ目を閉じた。そして深く息を吸い込み、声を出した。
最初のフレーズが出た瞬間、自分の声がいつもより小さく、頼りなく感じられた。それでも、小森のギターがすぐそばで音を奏でているのがわかる。
目を開けると、小森がギターを弾く指先が見えた。いつもと変わらない彼女のギターを弾く姿が見えた。
二人なら大丈夫。その言葉が雅を優しく包み込む。
雅は少しずつ背筋を伸ばしていった。もう一度目を閉じて、「いつも通り、いつも通り」そう思いながら歌い続けた。
もう一度目を開けると、商店街の人々が少しずつ足を止め始めていた。そのうち、目立つような人だかりができ始める。
雅は一歩だけ後ろに下がった。けれど、視線を少し横にやると小森の無駄のない正確な動き。その姿が、どこか「大丈夫だよ」と語りかけてくるようだった。
いつの間にか雅もいつも通りの歌声を商店街に響かせていた。
京太とユウヤはその光景を少し離れたところから見ていた。
「……なんだよ、すごいじゃん」京太が呟くと、隣でユウヤがニヤリと笑った。
「いやいや、これマジでいけるって!ほら、お前も早く動けよ!」ユウヤに背中を押されて、京太は慌てて人だかりに向かって声を張り上げる。
「パンどうぞー!焼きたてのパンいかがですか!」雅の歌声と小森のギターに乗せられるように、商店街の人々が袋を覗き込み始める。
「こっちも一つください!」「いい匂いだね」声が次々と上がり、パンが次から次へと渡っていく。京太は忙しく袋を渡しながら、チラリと二人を見た。
歌い続ける雅の顔には、最初の緊張が消え、どこか楽しげな表情が浮かんでいる。小森もまた、音で雅を支えるように、ギターの音色を響かせていた。
「すげぇ……本当にすげぇな」京太が思わず呟いた。
「これで最後の一つです!」京太の声が商店街に響く。手にしていた袋を渡し終えると、彼は大きく息を吐き出した。その瞬間、雅が「やったー!」と声を上げ、隣にいた小森をぎゅっと抱きしめた。
「すごいよ、葵ちゃん!」雅は満面の笑顔でそう言うと、小森の肩を何度も叩いた。だが、小森は突然のスキンシップに驚いたのか、顔を真っ赤にして目をまんまるに見開いている。唖然とした表情を浮かべながら、わずかに困ったような視線を京太の方に送ったが、助け舟が出る気配はない。
「やるじゃん!」京太は雅の勢いに圧倒されながらも、どこか誇らしげに笑った。
その時、厨房の奥からバタバタと足音が聞こえてきた。ユウヤがエプロンを外しながら顔を出し、店内をぐるりと見渡した。いつもはパンがぎっしりと並んでいる棚が、今は見事に空っぽになっている。ユウヤは一瞬、目を疑うように立ち尽くした。
「……お前ら、本当に全部売り切ったのか?」その声には、驚きと信じられない気持ちが入り混じっていた。
「そりゃあな、俺たちが本気出せばこんなもんだよ」京太が得意げに言いながら、空になった棚をポンポンと叩く。背中には疲労感がまとわりついているはずなのに、その表情はどこか晴れやかだった。
「すげえ……」ユウヤは言葉を失い、もう一度棚を見た。普段は売れ残ったパンを片付けるのが日常だっただけに、これほどの光景を目の当たりにするとは思っていなかったのだろう。
雅は小森から離れて、胸を張りながら言った。「私たち、なかなかいいチームでしょ?」その言葉に、小森も少しだけ微笑みを浮かべて頷いた。
店内に漂うパンの甘い香りと、少し冷え込んできた夕方の風。そこにいる全員が、それぞれのやり方で役割を果たし、成し遂げたことを感じていた。その空間には、どこか達成感とささやかな一体感が広がっていた。
その時、奥の扉がギィと音を立ててゆっくり開いた。顔を覗かせたのは、ユウヤの母親だった。少し疲れた様子のその顔には、驚きと安堵が同居している。
「……ユウヤ、本当に全部売り切れたの?」ユウヤが無言で頷くと、母親は店内を見渡し、次に京太たちの方へ目を向けた。そして深々と頭を下げた。
「みんな……本当にありがとう。ユウヤ一人じゃ、とてもできなかったと思うわ」その言葉に、雅が一歩前に出て笑顔で答えた。
「全然!私たちも楽しかったですよね!」京太と小森に視線を投げかけながら、雅は元気よく言った。その姿を見て、母親の目にはじんわりと涙が浮かび始めているのが分かった。
「いやいや、雅が歌って、小森がギター弾いたからだよ。俺なんて、ただの“パンどうぞ”係だし」京太が軽口を叩くと、小森が控えめに微笑んだ。
「でも、本当に久しぶりに、こんなにお店が賑わったわ」母親がぽつりと呟いた後、ユウヤの元へ歩み寄り、彼の頭にポンと手を置いた。
「ユウヤ、明日からはちゃんとみんなと練習しなさい」
その言葉に、ユウヤは一瞬きょとんとした顔をした。
「でも……店はどうすんだよ。母さん一人じゃ……」
母親は微笑んだまま、大きく首を横に振った。
「もう私は大丈夫よ。今日一日、みんなのおかげで元気をいっぱいもらったから。それに、今日の売り上げでしばらく休んでも大丈夫なくらいになったしね」
言葉と一緒に、母親の表情がほころぶ。それはどこか晴れやかで、さっきまでの疲れ切った姿が嘘のように思えるほどだった。
ユウヤはしばらく母親の顔をじっと見ていたが、ふっと笑みを漏らした。
「……わかったよ。明日から、ちゃんと練習行く」
その声には、どこか嬉しさと照れが混じっていた。母親はそれを聞いて満足そうに笑い、京太たちに改めてお礼を述べた。
その夜、ユウヤの家を後にした三人の足取りは軽かった。甘いパンの香りは、ずっと鼻先に残っていた。
店を出た三人が並んで歩く夜の商店街は、人通りも少なく、どこか静かだった。遠くで自動販売機がカタンと音を立て、その響きだけが微かに聞こえる。
「なんかさ、今日めちゃくちゃ達成感あるわ!」雅が背伸びをしながら大きく腕を伸ばし、空を仰いだ。夜風に髪がふわりと揺れる。
「ありがと、葵ちゃん」振り向きざまにそう言う雅の笑顔に、小森は隣を歩きながら、にこにこと微笑んでいる。
「これでユウヤも練習戻れるな」京太はポケットに手を突っ込んだまま、小さく息を吐くように言った。秋の夜風が肌を撫でるたび、体温がじわじわと奪われる。
隣を歩く小森は、相変わらず無口だったが、その顔には彼女が今日のことをどう思っているのか、二人には伝わっていた。
「小森、雅、今日は本当にありがとうな」ふと京太が口を開いた。「お前のギター、すごかったよ、雅の歌も。マジで人が集まりすぎて、びびったわ」
小森は歩きながら、小さく首を振る。すぐに携帯を取り出し、指を動かし始めた。タイピングの音だけが、ひとときの静けさを破る。
少しして、画面が京太と雅の方に向けられた。そこにはシンプルな一言が表示されていた。
「みんなの力です」
その文字を見た二人は思わず顔を見合わせ、そして同時に笑った。
「……だってさ」京太が呟くと、雅が「本当、真面目だよね」と言いながらくすくす笑う。小森は少しだけ困ったように眉を下げた。
街灯の明かりが、三人の影を長く引き伸ばしている。歩くたびに影が交差し、絡み合う。それが妙に印象的だった。
「文化祭、もうすぐだな」京太がポツリと呟く。
薄暗い部屋の中、机の上には開かれたノートと、少し擦り減った鉛筆。京太は椅子に座り、机に肘をつきながらペンを握っていた。手元のノートはぐちゃぐちゃな文字と線で埋め尽くされている。ほとんどは消され、何度も書き直された跡が見える。
ペンを指でくるくると回しながら、京太は深く息をついた。「まただよ……」目の前に広がる真っ白なページ。それは今の自分の頭の中そのもののようだった。
だけど、ふとノートを閉じることができなかった。何か書きたい。いや、書かなきゃいけない。自分の中にあるものを形にしないと、このままじゃ終われない。そんな衝動が、胸の奥でざわざわと騒いでいた。
ペン先をノートに押しつける。手が、自然と動き出した。思い浮かぶのは、ここ数ヶ月の出来事だ。
退屈な教室。ユウヤがバンドに誘ってくれたあの日のこと。全校集会で、自分だけが取り残されているような気がした時間。小森をしつこく誘い続けた日々のこと。Aoiのライブで胸を打たれた瞬間。放課後の練習で、小森がギターを弾き、雅が歌ったあの響き。公園で雅に言われた言葉たち。そして、今日――パン屋での出来事。
点だった出来事が、今、少しずつ繋がり始めている。バラバラだった記憶が、一本の線になって、心の中で動き始めた。
「……そうか」京太は、つぶやいた。線を繋げる。それが歌詞なんだ――雅の言葉が頭をよぎった。
ペンを握る手が自然と動き始める。文字が浮かび上がるたびに、心の中に積もっていたものが少しずつ溶けていくような感覚があった。これまでどれだけ考えても書けなかった歌詞が、まるで水が流れるように、するするとノートに形を作っていく。
胸の中にあったもやもやが、言葉に変わる瞬間。「これが……降りてくるってやつか」京太は苦笑しながら、ペンを走らせ続けた。
気づけば夜が明けていた。カーテンの隙間から差し込む薄明かりが、京太の部屋の中を静かに照らしている。机に突っ伏していた京太の耳元で、窓の隙間から入り込んだ風がノートをペラペラとめくっていた。
その音が頬をくすぐり、京太はゆっくりと目を覚ます。机の上には、昨日の夜中に走らせたペンの跡――完成した歌詞がびっしりと並んでいた。京太はぼんやりとした頭でノートを見つめ、それからふっと笑った。
「……書けた」言葉にすることで、ようやく実感が湧いてきた。胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
それはただ歌詞を書き上げたという満足感だけではなかった。これまで散らばっていた自分の過去や今が、一つの形になったような感覚。それが京太を少しだけ、前に進ませてくれる気がした。
京太はノートをそっと閉じ、深く息をついた。窓の外からは、小鳥の鳴き声と遠くの電車の音が微かに聞こえていた。朝が来た。今日は、また新しい一日が始まる。
あの日の涙も 傷ついた心も
夜空に浮かぶ星のように
全部ここに刻まれている
何度もつまずき 転んだ日々を結んだら 何が見えるのだろう
辛かったことも 楽しかったこともひとつひとつ結べばどんな暗闇も 見上げれば光る僕だけの空に 描かれた星座
無意味に思えた 小さな出来事今ではここで輝いている君の笑った声も 離れてく後ろ姿も全てがこの空 繋いでいく
振り返れば 足跡が続いて不器用な僕がいた 証
忘れたくても 消えなかったものも今は優しく星空に溶ける過去と未来を ひとつに繋げば僕だけの道が そこに現れる
星と星を繋ぐたびに僕は少し強くなれた気がするどんな夜も この星座があるから迷わないで歩いていける
痛みも笑顔も 線で結んでいく僕だけの 星座になる見上げた空には 君もいる描いた線は 消えたりしない
夜空の中で 星が語るのは僕たちが歩いてきた軌跡過去も未来も 繋がって輝く僕らだけの物語
音楽室の扉が小さく軋む音を立てた。夕陽が差し込む中、京太は一枚のノートを胸に抱え、慎重に歩を進めた。ユウヤと雅、小森はすでに集まっていて、各々の楽器を手にリラックスした様子だった。
「……あのさ」京太が立ち止まり、少し息を吐いて言った。その声に、三人の視線が一斉に向けられる。
「できたんだ」言葉は小さな音だったが、静かな音楽室では十分に響いた。
京太は一瞬言葉に詰まったが、ノートを机の上に置いた。
「歌詞。『星座』ってタイトルで書いてみたんだ。」
ユウヤが椅子をくるりと回してノートを手に取る。「おお、ついにきたか!」声を弾ませながらノートを開いたユウヤだったが、次第にその表情が変わっていく。最初は興味深そうに目を細めていたが、ページを追うごとに眉が少し寄り、やがて真剣な眼差しに変わった。
隣に座っていた雅が、「ちょっと見せて」と言いながら、横から覗き込むようにノートを覗き込む。その顔もまた、次第に引き締まっていく。
小森は自分のギターケースの上に手を置いたまま、何も言わずにユウヤたちの様子をじっと見つめている。その視線は穏やかだった。
音楽室には、微かに外から聞こえる風の音だけが流れていた。京太は緊張で手のひらが汗ばむのを感じながら、二人の反応を待っていた。
「これ……」ユウヤが一言口にした瞬間、雅が続けるように声を出した。「めっちゃ、いいじゃん……」
その一言に、京太の胸の奥で何かがふっと軽くなるような感覚があった。
雅はノートを手に持ったまま、じっと最後の文を見つめていた。指先がそっと紙の上を滑り、書かれた文字を追うように最後の文字までなぞる。そして、静かに視線を上げた。
「……いいね、これ。本当にいい」
彼女の言葉には、大げさな感情表現は一切なかったが、だからこそ、嘘偽りのない心からの評価だということが伝わってきた。
京太は少し顔を伏せて、隠すように小さく息をついた。ほっとしたような、照れくさいような、そんな表情だった。
「葵ちゃんも見てみなよ!」
雅が楽しそうに小森に声をかける。
小森が京太のノートを受け取り、じっとそのページを見つめた。
小森はゆっくりと、まるで文字を味わうように読み進めていた。その目線は真剣そのもので、京太は少しだけ緊張しながらその様子を見守っていた。自分の書いた言葉が、彼女にどう映るのか全く分からなかった。
しばらくして、小森がそっとノートを閉じた。そして、何も言わずにギターケースに手を伸ばし、ギターを取り出した。
「え、なんか言えよ……」京太が困惑気味に呟くが、小森は気にも留めない様子で、静かにチューニングを始める。そして、次の瞬間、彼女の指が弦を弾き始めた。
軽快で、でもどこか切なさのあるメロディが部屋に響き渡る。それはまるで、京太の歌詞のために用意されていたかのように自然で、ぴたりと合っていた。
「おいおい、マジかよ!」ユウヤが真っ先に声を上げた。
「これ、めっちゃいいじゃん!歌詞にピッタリ!天才かよ、小森!」その言葉に雅も大きく頷いて、「本当だね!すごい!」と笑顔で続ける。
一方、京太はというと、完全に気が抜けたように椅子に深くもたれかかり、ぼそりと呟いた。「おい……俺が何時間もかけて悩みに悩んで書いたのにさ、なんでお前はそんな一瞬で合わせられるんだよ……天才が」
小森はその言葉に一瞬だけ弾く手を止めると、携帯を取り出して短く文字を打ち始めた。そして、画面を京太に見せる。
「いい歌詞は、すぐにメロディが浮かぶんです」
その短い一文に、京太は一瞬ポカンとしたあと、すぐに小さく笑った。
「……なんだよ、それ。まあそんな風に言ってくれたら俺も書いてよかったって思えるわ」
小森はほんの少しだけ微笑み返してから、ギターに再び指を置いた。その様子を見ていた京太はふと尋ねる。「てか、お前さ。作曲とかって、普段からやってんの?」
その言葉に小森の指がぴたりと止まり、わずかに目を見開いた。動揺したようにノートを取り出そうとする小森を見て、京太は怪訝そうな顔をする。「いや、なんでそんなに慌てるんだよ。別に変なこと聞いたわけじゃねえだろ?」
小森は何か言いたそうにしながらも、結局ノートには「昔、少しだけ」とだけ書いた。その文字を見た京太は、さらに突っ込むのをやめて「そっか」とだけ返した。
雅がもう一度歌詞を読みながら微笑んだ。
「これ、本番でやるのが楽しみだね。」
ユウヤが椅子から立ち上がり、手を叩いた。「いや、マジで最高じゃん!これ絶対ウケるって!」
京太は少し照れくさそうに目を伏せたが、その顔には確かな達成感が浮かんでいた。
「よし!曲も完成したことだし、今日はサイゼで飯食ってお祝いしようぜ!」
ユウヤが唐突に提案した。
京太は呆れたように眉をひそめたが、雅がすぐに乗った。
「いいじゃん、楽しそう!たまには打ち上げみたいなことしようよ。」
小森は視線を軽くユウヤに向け、携帯で「行きましょう」と短く打って見せた。彼女の返事に、ユウヤは満足げに頷いた。
「決まりだな」
夜のファミレス、席に着いた四人は、それぞれ好きなものを注文し、ドリンクバーで思い思いの飲み物を取ってきた。
「乾杯とか、やる?」とユウヤが言い出し、全員がそれぞれのグラスを軽く掲げた。
「……じゃあ、曲完成おめでとう!」ユウヤの言葉に合わせて、グラスが小さくぶつかる音が響いた。その後、すぐにユウヤがストローを咥えて「ぷはっ」とオレンジジュースを飲み干す。
「お前、飲むの早すぎだろ」と京太が笑いながら突っ込むと、ユウヤは「今日は打ち上げだからな!」と胸を張る。雅はその様子を見て、「いや、文化祭はまだ終わってないけどね」とクスリと笑った。
一方、小森はスープを静かに飲みながら、そんなやり取りを微笑ましそうに眺めていた。
トレイに乗ったポテトやステーキ、パスタが次々に運ばれてきて、テーブルの上はすでにカオスだ。
「でさ、文化祭も近いことだし、バンド名決めようぜ!」ユウヤが勢いよくポテトをつまみながら提案する。
「バンド名か……まぁ、確かに決めなきゃな」京太がポテトを口に放り込んでから飲み物で流し込みながら返すと、雅が頷いた。
「じゃあ、まずはユウヤから。何か考えてるの?」
「おう、もちろん!聞いて驚くなよ……“ライトニングサウンズ”!」自信満々の表情で、両手を広げて言ったユウヤに、全員が一瞬固まった。
「いや、ダサすぎるだろ……」京太が真顔でツッコむと、雅も肩を震わせながら笑い出した。
「次行こう、次!」雅が手をひらひらさせて促すと、ユウヤは悔しそうに「じゃあこれならどうだ」とさらにいくつか挙げた。
「“フェニックスフレイムズ”とか……“スカイホライゾン”とか……」
「もういいよ、ユウヤの案は全部却下!」雅が笑いながらバッサリと切り捨てる。
「じゃあ雅はどうなんだよ。いい名前あるのか?」ユウヤが反撃するように問いかけると、雅は少し考えてから言った。
「えっとね、“シュガーローズ”とかどう?」
「完全にガールズバンドの名前じゃん!」ユウヤが即座にツッコむ。
「えー、かわいくていいじゃん!」雅はふくれっ面で反論するが、京太とユウヤは顔を見合わせて首を横に振るだけだった。
「小森は?何かアイデアある?」京太が聞くと、小森はノートには「蒼炎連歌」と書かれていた。
「葵ちゃんがまさかユウヤと同じタイプだなんて…」
「おいおい、誰かまともな案出してくれよ……」ユウヤが肩を落としながらポテトを口に運ぶと、京太がふと思い出したように口を開いた。
「……実はさ、歌詞書いた時に思いついた名前があるんだよ」
「は!?なんだよそれ、もっと早く言えよ!」ユウヤが椅子から身を乗り出して言うと、京太は苦笑いしながら答える。
「いや、なんか恥ずかしくてさ……“Crux”ってのはどうかなって思ってた」
「クルクス?」雅が首をかしげながら、ジュースのストローをいじる。
「南の夜空にある十字形の星座なんだ。四つの星で構成されてて、星座の中では一番小さい。でもさ、昔の航海士たちはその星座を道しるべにしてたんだよ。俺らも、小さくてもそんな存在になれたらいいなって思って」
京太がそう説明すると、テーブルがしばらく静まり返った。ユウヤも雅も、小森も、言葉を失ったように京太を見つめている。
「……いいじゃん、それ」雅がふっと笑みを浮かべながら言った。その表情はどこか誇らしげだった。
「確かに、俺らにピッタリかもな」ユウヤも頷きながら言う。小森はノートに「賛成」とだけ書いて、それを京太に見せた。
「じゃあ決まりだな、“クルクス”!」ユウヤが声を上げて、コップを持ち上げた。雅もそれに続き、小森もおずおずとコップを手に取る。
「よし、文化祭に向けて乾杯!」
四つのグラスが軽い音を立てて触れ合い、ファミレスの明るい空気の中に溶けていった。
朝、教室に入ると、自分の席にユウヤが座っていた。腕を組み、やけに神妙な顔をしているのが妙に目に付く。
「お前がそこにいることが、もうトラウマなんだけど」京太が苦笑いしながら近づくと、ユウヤはぎこちなく笑みを返した。
「……まあ、聞いてくれよ」「絶対ロクな話じゃないだろ」京太は嫌な予感を感じながら自分の席の隣に腰を下ろした。
「実はさ……文化祭実行委員に呼び出されてさ」「お前が?なんで」ユウヤがいつになく真剣な表情をしていることに、京太は少しだけ緊張を覚えた。
「その……ステージのことなんだけどな」「ステージ? なんか問題でもあったのか?」ユウヤは一瞬視線をそらした後、重い口を開いた。
「文化祭のステージの有志が、10組以上集まってるらしい」「それの何が問題なんだよ」「枠が6組までしかないんだってさ」京太はその言葉を聞いて、眉をひそめた。
「え、じゃあどうすんだよ」ユウヤは机の端を指でトントンと叩きながら、さらに口を開いた。
「……オーディションやるらしい」「オーディション?」京太は思わず聞き返した。その言葉に、少しだけ胸がざわつく。
「まぁ、そこは仕方ないよな。俺たちも頑張るしかねえだろ」京太がそう言うと、ユウヤはまだ気まずそうな顔をしている。
「……まだ何かあんのかよ」京太が問い詰めるように聞くと、ユウヤは微妙に視線をそらしながら呟いた。
「その……オーディション、今日なんだよ」「……はぁ!? 今日?」京太は声を上げた。
「いや、数日前に文化祭実行委員からアナウンスされてたらしいんだけどさ……俺、気づかなくて」京太は頭を抱えた。言葉の重みがじわじわと現実感を帯びてのしかかってくる。
ユウヤは困ったように肩をすくめながら、小声で言った。「ま、どうにかなるだろ?」「いやいやいや……!」京太の心の中には、いくつものツッコミが渦巻いていたが、それを飲み込む余裕もないほど焦りが広がっていった。
休み時間のチャイムが鳴ると同時に、京太は雅と小森を呼び出すことにした。ユウヤが言っていたオーディションの件を伝えるためだ。
廊下の端に三人で集まり、京太は軽く息を整えたあと口を開いた。
「実はさ、ちょっと急なんだけど……文化祭のステージの件で話があるんだ」
雅が首をかしげた。「何? なんかあったの?」
京太は一瞬言葉に詰まりながらも、意を決して言った。
「オーディションがあるんだよ。ステージに立てるのは6組までで、それを決めるオーディションが今日やるらしい」
その瞬間、雅の顔に驚きが走った。「……はぁ? 今日? なんで急にそんなことになるの!?」
京太は肩をすくめた。「文化祭実行委員からの連絡が数日前に出てたみたいなんだけど、俺ら気づかなくてさ」
「 間に合わなかったらどうしてたのよ!」雅が大きな声で言い、思わず廊下を歩いていた生徒が振り返る。雅はそれに気づいて、少し声を落としながら続けた。「まだオリジナル曲、ちゃんと仕上がってないじゃん。どうすんの?」
「とりあえず、コピー曲で挑むしかないよな」京太が言いながら頭をかきむしる。隣に立つ雅も同じようにソワソワと落ち着かない様子だった。
その間、小森は特に焦った様子もなく、筆談用のノートを手に持ったまま静かに立っている。むしろ、どこか楽しそうな表情すら浮かべているように見える。その姿が目に入った雅が、声をかける。
「ねえ、葵ちゃん!なんでそんなに普通でいられるの!? こういう時って、もうちょっと焦るもんじゃないの?」
小森はその言葉に反応して、ノートにさらさらと文字を書き始める。その手元を雅が覗き込むと、そこにはこう書かれていた。
「私たちなら平気だよ」
その一言に、雅がぽかんと口を開ける。
「……いやいや、なんでそんなに自信満々なのよ」雅が肩を落として呆れると、小森は得意げに小さく微笑んだ。
その時、廊下の向こうからユウヤがバタバタと駆け寄ってきた。
「おい、みんな!」息を切らしながら立ち止まったユウヤは、頭を下げるようにして言った。「悪い!ほんとごめん!俺が連絡に気づかなかったせいで、こんな急なことになって……」
「いや、まあしょうがないよ」京太が呟いた。その隣で雅が腕を組みながら口を開く。
「オーディションの前日に練習じゃなくて乾杯してたの、たぶん私たちだけだよね」
その言葉に、一瞬の沈黙の後、四人は思わず顔を見合わせて笑い出した。
「でも、まあ……やるっきゃないか」雅が小さく呟くと、小森が頷いて、ノートに大きく書いた。
「いっぱい練習したから大丈夫」
その文字を見て、京太とユウヤも同時に頷いた。
「……そうだな、やるしかないよな」京太が深く息を吸い込むと、ユウヤが手を突き出した。
「よし、行くぞ!みんな、手を重ねろ!」
それぞれの手が集まり、廊下の隅で小さく声を合わせた。
「よっしゃ、頑張ろう!」
体育館の扉を開けた瞬間、熱気とざわつきが一気に押し寄せてきた。ステージを囲むように、出演を待つ生徒たちが集まっている。スピーカーからは、漫才コンビのテンポの速い掛け合いが響き渡り、観客の笑い声が小さく混じっていた。
京太は足を止めて、体育館の天井を見上げた。高い。こんな場所で音を響かせるのかと思うと、少し胃が重たくなった。
「……結構人いるな」思わず呟いた声が、誰にも届かないほど体育館はざわついていた。隣のユウヤは、落ち着かない様子でステージを見つめている。
「大丈夫か?」京太が声をかけると、ユウヤは振り返らずに小さく頷いた。
「うん……いや、たぶん」その返事がどこか不安定で、京太はさらに胸の奥がザワザワしてくるのを感じた。
ステージでは、演劇部の生徒たちが台詞を交わしていた。その表情も仕草も堂々としていて、「なんだよ、みんなすげぇな」と思わず京太は唇を噛む。
「……俺らも、こんな風に見えるのかな」「だといいんだけどね」雅が京太の隣で答える。その声には余裕がありそうに見えて、指先が震えてるのが微かに見えた。
小森は黙ったまま、ギターに手を添えている。彼女の顔はいつもと変わらないけど、どこか静かな緊張感が漂っているのがわかる。
「次、クルクスの皆さん準備お願いします!」係の生徒が声を上げた瞬間、ユウヤが息を吐いた。
「よし、行くぞ!」ユウヤの言葉に、京太は足を踏み出す。雅と小森もその後に続いた。
ステージの袖に立った瞬間、音楽室の空気とは全く違う張り詰めた感覚が彼らを包む。ライトの明かりが眩しくて、少しだけ視界が滲むようだった。
「行けるか?」ユウヤが振り返って声をかけると、京太は頷いて「もちろん」とだけ返す。小森は目を閉じて深く息を吸い、そして軽く頷いた。
「よし……行こう」ユウヤが一歩前に出た。それを合図に三人が続く。京太は握る手に汗を感じながら、ステージへと足を踏み出した。
眩しいライトと体育館に響く雑音が、一瞬の静寂に変わる。視線の先に広がる観客席に座る審査員たち。
京太の心臓が、大きく跳ねた。
「行くぞ」ユウヤがスティックを軽く打ち鳴らす、そのカウントに合わせて、京太が深く息を吸い、ベースの音を響かせた。小森のギターがそれに重なり、雅の歌声が曲を引っ張る。
演奏はいつも通り。練習で何度も繰り返したあの流れが、スムーズに進んでいく。音が重なり、体育館全体に広がる。
次第に待機していた生徒たちの様子が変わり始めた。ステージを眺めていた何人かが、音に合わせて体を揺らし始める。軽くリズムを刻む足、頭を縦に振る動きが徐々に増えていった。
「いい感じだな」京太は内心そう呟きながら、視線を奥の客席にやった。さっきまでスマホをいじっていた生徒が、いつの間にか顔を上げて音に耳を傾けている。その隣では、友達同士で何かを話しながら笑顔を見せていた。
曲が進むにつれて、観客の反応はさらに大きくなる。誰かが小さく拍手を打ち始め、それが波のように広がっていった。待機していた生徒たちが、自然と手拍子を合わせてくれる。
「すげぇ、盛り上がってるじゃん!」ユウヤはドラムを叩きながら、満足そうに一瞬だけ笑みを浮かべた。そのリズムは普段よりも力強く、体育館全体を包み込むように響いていた。
「よし、このまま……!」京太は勢いに乗るように指を滑らせ、小森のギターと息を合わせる。小森は目を閉じ、ギターの音色に集中しながら完璧なリズムを刻んでいる。その静かな表情は、どこか頼もしさを感じさせた。
雅の歌声も、観客の心を掴んで離さない。ほんの少しハスキーなその声は、体育館全体に響き渡り、最前列にいた生徒たちが「歌、うめえな」と囁き合っているのが、京太の耳にも微かに届く。
そして曲はクライマックスへ向かって突き進む。ラスサビ直前、ユウヤがスティックを高く振り上げ、力強く叩き込む。その瞬間、待機していた生徒たちの何人かが声を上げ、さらに手拍子が大きくなる。
雅も、勢いに押されるようにラスサビに入った――そのはずだった。
しかし、次の瞬間、雅の声が止まった。「あ……」小さな声がマイクを通じて体育館に響く。
雅が歌詞を飛ばした。
空気が一瞬凍りつく。
曲は続いている。小森のギターが、京太のベースが、そしてユウヤのドラムが進んでいく。だが、雅の歌声がない。歌うべき場所にぽっかりと空白が生まれ、京太は冷や汗が背中を流れるのを感じた。
「どうする……」
何かしようと思ったが、曲は止められない。ラスサビはラストに向かって駆け上がるように進んでいき、あっという間にクライマックスを迎えた。
雅は歌わないまま、曲が終わった。
最後の音が体育館に響き渡り、消えていく。しんと静まり返った空間の中で、雅は俯き、マイクを握ったまま動かなかった。
静寂が体育館を支配していた。観客席にいる生徒たちも、待機している他のバンドメンバーたちも、誰も声を発しない。
雅はマイクを握りしめたまま、下を向いて固まっている。肩がかすかに震えているようにも見えた。京太は何か言いたかったが、どんな言葉をかければいいのかわからなかった。
その時、どこからともなく小さな拍手が響いた。
一人、二人、そして少しずつ広がるように、待機していた生徒たちが手を叩き始めた。
「いや、めっちゃ良かったよ!」「途中まで超盛り上がったし!」
聞こえてくる声に、京太は驚いて顔を上げた。体育館の端の方で、何人かの生徒が笑顔を浮かべながら手を叩いている。
「俺らも負けてらんねーぞ」「でも、あいつら結構すごかったよな」
そんな声がちらほら聞こえてくる中、京太はステージ中央で立ち尽くしている雅に目をやった。雅はまだマイクを握ったまま立ち尽くしてた。
「……よし、撤収しよう」ユウヤが小さく呟き、スティックをまとめ始めた。
「大丈夫だよ」京太が雅に近づき、できるだけ優しい声で言った。「お前の歌声、みんなすげえって言ってたよ」
雅は顔を上げ、京太を見た。その目には悔しさと申し訳なさが混じっている。「……ごめん」声が震えていた。
「謝るなって」
「でも……私のせいで、オーディション……」言葉を詰まらせ、雅は目を伏せる。涙が今にも溢れそうになっているのが京太にもわかった。
そんな中、小森が静かに雅のそばに歩み寄った。彼女は何も言わず、そっと雅の手を取った。雅が顔を上げた瞬間、小森は彼女の手を引いてステージの袖へと歩き出す。少し離れた隅で立ち止まり、そっと振り返る。その手はまだしっかりと雅の手を包んでいる。
雅は涙を堪えながら小森の顔を見た。小森の目は真剣そのものだった。言葉はなくても、その表情に「大丈夫」と言われているような気がした。
小森は片手でノートを取り出すと、ペンを走らせた。手元から視線を上げることなく、さらさらと書き込む。その静かな音が、周囲のざわめきから二人だけを切り取ったようだった。
書き終えた小森は、そのページを迷いなく雅に差し出した。
「雅ちゃんの声、ちゃんと届いてたよ」
その文字が雅の視界に入った瞬間、彼女は唇を強く噛みしめた。涙がこぼれそうになるのをこらえるように目を伏せる。
小森は一歩だけ雅に近づくと、そっと腕を広げた。言葉は何もなかった。ただそのまま、雅を優しく抱きしめる。雅は驚いたように一瞬硬直したが、次第にその肩の力が抜けていった。
ステージ袖からは、京太とユウヤが二人の様子を伺っている。京太が何かを言いかけて足を踏み出した瞬間、ユウヤが腕を掴んで止めた。
「今は、黙っとけ」低く抑えた声が、意外なほど優しく響いた。
「……わかってるよ」京太は頷きながらも、視線は二人から離れなかった。その間にも雅の肩がわずかに揺れているのが見える。けれど、それ以上近づくことはしなかった。
体育館の片隅で、京太たちは結果発表を待っていた。
小森は雅のすぐ隣に座り、何も言わずにただそこにいる。雅も、小森の存在を頼るようにほんの少しだけ体を寄せていた。
空気は張り詰め、体育館全体が静寂に包まれている。
文化祭実行委員が登壇し、マイクを握ると、緊張感がさらに増した。
「それでは、オーディションの結果を発表します」
その一言で、場内の空気が一瞬、ざわついた。けれどすぐに静まり返る。
「まず、1位から発表します。」
京太は唇を噛み締めた。ユウヤは腕を組み、眉間にしわを寄せている。雅は視線を足元に落とし、小森はそんな彼女の肩にそっと手を置いた。
「1組目……バンド『Silver Lining』」
拍手が起こる。呼ばれた生徒たちが立ち上がり、少し誇らしげな笑みを浮かべながらステージ前へと進む。
「2組目……演劇『ルミエール』」
また拍手が響く。京太は無意識に拳を握りしめていた。
「3組目……漫才『トリオザスリル』」
その名前に少し笑いが起こる。緊張した空気がわずかに和らぐが、京太の心臓の鼓動は止まらなかった。
「4組目……合唱部『コーラルハーモニー』」
またしても拍手が起きる。京太は手のひらに汗を感じながら、チラリと小森を見る。彼女は無表情だが、どこか目が硬い。
「5組目……漫才『ショートケーキ』」
雅が小さく息を呑む音が聞こえた。京太も思わず目を伏せる。あと1組。それでも、名前が呼ばれる気がしない。
「6組目は……」
体育館全体が静まり返った。その瞬間、空気の重さがさらに増したように感じる。誰もが次の名前を待っている。誰が呼ばれるのか。誰が喜び、誰が肩を落とすのか。そのわずか数秒が、無限に引き延ばされているようだった。
京太は手の中で拳を握りしめた。冷たく湿った手のひらの感触が、嫌というほど自分の緊張を物語っていた。
「頼む、頼む……」
京太は心の中で呟いた。
「…演劇『アストラ』」
その瞬間、体育館に歓声が湧き上がった。演劇グループのメンバーたちが、手を取り合い、抱き合って喜んでいる。その姿が京太の目には、信じられないほど鮮明に映った。彼らの笑顔がスローモーションのように流れ込んでくる。
自分たちの名前が呼ばれることを、どこかで期待していた。それが粉々に砕けた瞬間だった。
「ああ……」小さく漏れたのは雅の声だった。ほとんど聞こえないほどの、掠れた声。
京太の胸に、一気に現実がのしかかる。自分たちが目指してきたものが、ただの「不合格」という事実に変わる。ステージ前で喜びに包まれる彼らの姿が、まるで別世界の出来事のように感じられた。
その光景が、あの全校集会と被る。
「終わった……のか」
心の中で呟いた言葉は、驚くほど冷たく、現実味があった。視界の隅で、雅の肩が微かに震えているのが見えた。唇をぎゅっと噛みしめている雅の表情は見えなかったけれど、その手がぎこちなく制服の裾を握りしめているのがわかる。
小森が、そんな雅の隣で小さく動いた。彼女の手がそっと雅の手に重なる。
「……ごめん、私のせいだ」
雅が、震える声で呟く。その言葉を聞いた瞬間、京太は何かを言おうと口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。
「今回、点数が同点だったため、特例として7組目の合格を認めます」
文化祭実行委員の声が体育館に響き渡った。
「バンド『Crux』」
体育館中に、微かなざわめきが広がった。
京太の視界が一瞬ぼやけた。思考が追いつかない。何が起きたんだ? 聞き間違いじゃないのか?
京太は耳の奥で自分の鼓動だけが響いているような感覚に陥る。
「……本当に?」
雅の小さな声が、京太の耳に届いた。その声は、驚きと安堵、そして疑いが入り混じったような、か細い音だった。
雅の顔を見れば、目は見開かれ、息をするのも忘れたような様子。
小森も動かない。ノートをぎゅっと握りしめたまま、じっと一点を見つめている。
隣に座っていたユウヤは、反応がない。京太はそっと横目で見た。ユウヤは視線を宙に浮かべ、口を半開きにしている。まるで、現実感が追いついていないようだった。
「おい、ユウヤ……」
京太が声をかけたその瞬間だった。
「よっしゃああああああああ!!!!!」
突如立ち上がり、ユウヤが叫び声をあげた。拳を振り上げ、椅子を軽く蹴り飛ばしながら、その勢いは止まらない。
「すげえええ! 俺たち、やったぞ! 合格だあああ!!!」
京太はようやく息を吐いた。「……マジか」
「お前ら最高だよ!マジで、マジで最高!」
ユウヤが京太の肩をガンガン叩く。
「……よかった、本当によかった」
雅が呟く。小さな声だったが、明らかに震えていた、その瞳には光るものが宿っている。
次の瞬間、雅は小森の方に向き直り、迷いなく両腕を広げた。そして、小森を力いっぱい抱きしめる。
「葵ちゃん、ありがとう。本当にありがとう」
雅の声は震えていた。肩に顔を埋める雅の背中は、小刻みに上下している。泣いているのか、笑っているのか、それは誰にもわからない。ただ、感情が抑えきれずに溢れ出ていることだけは、はっきりとわかる。
小森はすぐにそっと雅の背中に手を添えた。その仕草は、まるで「こちらこそ」と言っているようだった。控えめな笑顔が、彼女の顔に浮かんでいる。
「よかったな」
その様子を見ていた京太が呟くと、隣のユウヤが「だな」と笑った。
「……俺たちもやるか?」
京太が冗談っぽく言うと、ユウヤが肩をすくめながら「マジで?」と返す。そして二人して笑い合った。
体育館を出ると、外には柔らかな秋の日差しが差し込んでいた。空は透き通るように青く、体育館の中の緊張感が嘘のように感じられた。
「よっしゃ、今日も打ち上げしようぜ!」
体育館を出た途端、ユウヤが声を張り上げた。その顔には既に楽しむ気満々の表情が浮かんでいる。
「……お前な、そんな余裕あるかよ」
京太は足を止めて、ユウヤに向き直る。少し疲れた声で続けた。
「本番まであと一週間なんだぞ。『星座』だってまだ完璧じゃないだろ」
「いや、でもさ、こういうのはノリが大事じゃん?」
ユウヤは軽く手を広げて見せる。その無責任そうな態度に、京太は軽くため息をついた。
「ノリだけで文化祭乗り切れるなら苦労しねえよ」
京太の冷たいツッコミに、ユウヤは「うっ」と言葉を詰まらせた。
その時、横目に映ったのは雅だった。彼女は俯き気味で、目元が少し赤い。涙を拭ったような跡が見える気がした。
京太は少し考えた。
「……まあ、でもありか」
「お、京太が珍しく乗り気じゃん!」
ユウヤが急に勢いを取り戻して肩を叩いてくる。
「よし、行こうぜ!」
そうして四人はまた、いつものファミレスに向かうことになった。
最初のうちは、テーブルに落ちる会話もとぎれとぎれで、ユウヤが軽快にジョークを飛ばしてみても、京太が適当に突っ込んでみても、何か空回りしている。
テーブルの上に置かれた水のグラスはほとんど減らず、わずかに揺れる氷が頼りなげに音を立てているだけだった。
それでも話し続ける二人が段々とその空気を変えていった。
「おい、京太。お前最近、妙にかっこつけてねえか?」
「は? なんだよそれ」
「いやいや、ほら、オーディションの時もさ、めちゃくちゃ決め顔してたし」
「してねえし!」
京太がやや真顔で言い返すと、ユウヤは大げさに「ほら、その感じ!」と笑い声をあげた。
ふと視線を向けると、小森がほんのり微笑んでいる。控えめな彼女がわずかに肩を揺らしながら笑う様子を見て京太は
「え、本当に俺そんなふうに見えてるの?」
と確認すると、小森は二回頷いた。
それを見て雅やっと笑った。
やがてデザートが運ばれてきた。
雅の目の前には、きれいにクリームが盛られたパフェが置かれる。
一口すくい、口に運ぶと、その瞬間、彼女の顔がふわりと明るくなる。
「美味しい!」
そう言うとすぐに二口目を食べた。
「葵ちゃんも一口食べる?」と聞いて
「葵ちゃん、ほら、口開けて」
雅がスプーンを持ったまま、テーブル越しに小森へと身を乗り出す。スプーンの上には、パフェの一番上に乗ったクリームと赤いイチゴが丁寧に盛られている。
小森は目を大きく見開き、慌てたように首を振った。
「え、いいよ、自分で食べるから」
そう言いたげに手を軽く前に出して制するが、雅はまったく動じない。
「だめ。せっかく一番おいしいところ残しておいたんだから、ちゃんと食べて」
雅の声はいたずらっぽい。
小森は困ったように視線を逸らし、ノートを開こうとするが、雅が先回りして言葉を続けた。
「ノートはいいの! ほら、あーん!」
スプーンをもう一度ぐっと差し出され、小森は観念したように小さくため息をついた。そして、恐る恐る口を開ける。
「……」
ほんの少し恥ずかしそうに、でもおとなしくスプーンを受け入れる小森。唇がスプーンに触れると、甘いクリームとイチゴの酸味が口いっぱいに広がった。
「どう? おいしいでしょ?」
雅がにっこりと笑いながらスプーンを下ろす。その顔には、どこか満足げな表情が浮かんでいる。
小森は頷いた後、手で口元を覆いながら、恥ずかしそうに微笑んだ。そして、携帯を取り出して素早く文字を打つ。
「次は雅ちゃんが食べて」
その画面を見た雅が「えっ、私も!?」と目を丸くする。
今度は小森がスプーンを持って雅に食べさせる。
そんな光景をしばらく見せられた京太とユウヤ。
そういえば昔から雅は美味しいものを食べるとご機嫌になることを思い出した京太は、ユウヤの方を見る。
ドヤ顔したユウヤと目があった。
ユウヤはそのことを覚えてて打ち上げしようって言い出したのかと、京太はやっとその意図を理解した。
「雅、本当単純だな」
「いいじゃん! 受かったんだから、こういう時くらい単純で!」
言い返すその声には、どこか明るさが戻っていて、京太はほっと胸をなで下ろした。
パフェがだんだん減っていくたびに、雅の表情は普段の調子を取り戻していく。最後の一口を食べ終えたとき、彼女はスプーンを皿に置き、ゆっくりと顔を上げた。
「……みんな、本当にありがとう」
その一言があまりに素直で、三人とも思わず目を見合わせた。ユウヤが「何急に改まっちゃってさ」と茶化すように言いながらも、照れたように鼻をこすった。
京太は「まあ、これくらいで元気になるなら安いもんだな」と軽く言いながらも、雅の目に浮かぶ感謝の色をしっかりと受け止めた。そして隣を見ると、小森が小さく頷きながら、微笑みを浮かべているのが見えた。
「文化祭当日は、オーディションの順位通りに演奏するらしいぞ」
ユウヤが話題を変えると、京太が「俺たち、7番目だろ? トップバッターかよ」と苦笑いする。
「逆にチャンスじゃん。最初に会場盛り上げてさ、全部かっさらおうぜ!」
ユウヤの言葉に、雅が小さく笑って「そうだね」と答えた。
「よし、本番まであと1週間! 『星座』仕上げよう!」
京太が言うと、その夜は解散することになった。
家が近い京太と雅は、他の二人と別れて、同じ方向に歩き始めた。
街灯がぽつぽつと灯る静かな夜道。風が冷たくなってきたせいか、雅は腕を組んで小さく肩をすぼめている。
「今日はお疲れ」
京太がポケットに手を入れながら切り出す。
「……うん」
雅の返事は短かった。
「でもさ、お前の歌、すごかったよ。なんだかんだオーディション通ったんだからさ」
京太の軽い調子に、雅はふっと笑いそうになりながらも、視線を地面に向けたままだった。
「……私、ほんとダメだな」
「なんで?」
「だってさ……私のせいで落ちててもおかしくなかった」
雅の声は小さく、か細かった。その言葉には、どこか自己嫌悪が混じっている。
「でも、結局通ったじゃん。それが全てだろ?」
京太の言葉に、雅はしばらく黙っていた。街灯の下、細い影が彼女の足元に揺れている。その影を見つめるように視線を落としていたが、やがて息をひとつつくように顔を上げた。
「……私、歌手になりたいんだ」
その言葉が静かな夜道に溶けていく。京太は思わず足を止めた。隣を歩く雅の横顔を、ゆっくりと伺う。
「小さい頃から、ずっと。いつか、誰かの心に残る歌を歌えたらいいなって。でもさ……」
雅は小さく笑いながら肩をすくめる。その笑顔はどこか脆く、少し震えているように見えた。
「人前で歌うのが、怖いんだよね」
そう言って雅は、夜空を見上げた。広がる暗闇の中、点々と散らばる星たちが、静かに輝いている。
「好きなのに、怖いなんてさ……変だよね」
その声はどこか自分を責めるようで、かすかに揺れていた。
京太は前を向いたまま、拳をぎゅっと握りしめた。そして、言葉を絞り出すように話し始める。
「変じゃねえよ」
その一言が、雅の心の中に静かに落ちた。彼女は驚いたように京太を振り返る。
「誰だってさ、好きなものに本気になればなるほど怖くなるんだろ」
京太は、少しだけ間を置いてから、言葉を続けた。その瞳は揺るぎなく雅を捉えていた。
「怖いのは、それだけ大事だからだろ。それが上手くいかなかったらどうしようとか、誰かに笑われたらどうしようとか、そういうのが頭に浮かんじまうのはさ、逆にそれだけ本気ってことじゃねえの?」
声はどこまでも静かだったけれど、その一言一言が雅の胸にじんわりと染み込んでいくようだった。京太の表情には、どこか自身の経験を投影するような、深い共感があった。
「全然変じゃねえよ。むしろ、本気で怖くなったことがない方が、よっぽど変だろ」
最後の言葉は、ふっと吐き出すように付け足された。それでもその声には力強さと優しさが同時に宿っていて、雅の中にあった不安の小さな欠片を、そっと溶かしていくようだった。
京太はそのまま一瞬だけ目を逸らして、夜空を仰いだ。まばらに浮かぶ星たちを見つめながら、小さく笑う。
「怖いってことはさ、きっとそれ、ちゃんと進んでるってことなんだと思う。俺はサッカー辞めてから怖いものがないつまらない人生だったからさ、そんな雅が羨ましいよ」
雅はほんの一瞬、目を見開いた後、ふっと笑った。その瞳が、夜の街灯に反射してわずかに潤んでいるように見えた。
雅はしばらく黙ったままだった。京太の言葉が胸の奥深くに届き、その余韻がまだ消えない。彼女はそっと目を伏せ、小さく息を吸い込んだ後、口を開いた。
「……ありがと」
「また明日な」
急にそう言って、京太は背を向けた。振り返ることもなく、足早に歩き出す。その後ろ姿には、照れ隠しの焦りが見え隠れしていた。雅はその様子を見て、小さく笑う。
背中を追うこともせず、雅はそっと微笑む。夜空に浮かぶ小さな星が、どこか優しげに瞬いていた。
文化祭本番までのカウントダウンが始まった。あと1週間。
オリジナル曲「星座」を完璧なものに仕上げるため、練習にさらなる熱がこもる。
文化祭五日前、京太はベースの弦を調整しながら、小森が指先でゆっくりと奏でるメロディーに耳を傾けていた。
「テンポ、もう少し上げたほうが良くない?」
ユウヤがドラムスティックをくるりと回しながら言う。
「いや、これ以上速くすると雅が大変だろ」
「ちょっと!」雅が慌てて抗議する。「私だってちゃんとついていけるよ!」
小森は静かにペンを走らせ、ノートに文字を書いた。「ゆっくりでも良いと思います。最後のサビで一気に盛り上げましょう」
その提案に全員が頷き、再び練習が始まる。夕暮れの中、音楽室には四人の音が重なり合い、少しずつ曲が形を帯びていく。
文化祭三日前、練習はより本番を意識したものになっていた。雅がマイクスタンドを握りしめ、歌詞カードを見つめている。
「ねえ、京太」
雅が少しだけ声を低くして話しかけてきた。
「何だよ」
「……この歌詞さ、最後の部分、私もっと感情込めたほうが良いかな?」
その声には、少しだけ不安が混じっていた。京太はその質問に戸惑いつつも、素直に答えた。
「お前が歌いたいように歌えばいいよ」
雅はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑った。
「そっか。ありがと」
ユウヤが「おーい、そろそろ練習再開すんぞ!」と叫び、小森がギターの弦を軽く弾いてテンポを取り始める。
雅の声が、次第に音楽室に響き渡った。
文化祭前日、準備に追われる学校全体の空気が、どこか高揚感に満ちていた。装飾が施された廊下には、クラスごとのポスターや案内板が所狭しと並べられている。
「……明日だな」
京太がベースを片付けながら呟いた。誰も返事をしなかったが、その言葉は四人の胸に深く響いた。音楽室には、夕暮れが差し込んだ柔らかな光と、楽器が奏でた余韻だけが残っていた。
ユウヤが先に口を開く。
「まあ、俺たちにできることはやっただろ。あとは、やるだけだな!」
彼の言葉はいつものように明るく、けれど少しだけ力が入っていた。
「そうだね」
雅はギターケースを閉めながら小さく頷いた。その声には緊張と期待が入り混じっていた。小森は静かに弦を拭き、机の上に置いた筆談ノートを閉じると、そっと微笑んだ。
「これで、放課後に集まるのも最後か」
京太のその一言が、室内の空気を少しだけ重たくした。
ユウヤがスティックをクルクル回していた手を止め、雅がマイクスタンドを片付ける手をゆっくり下ろした。
小森だけが静かにみんなの顔を見回しながら、いつものノートを取り出し、ペンを走らせた。
「私たち友達です。また集まります」
ノートに書かれたその文字が京太たちに見せられると、一瞬の沈黙の後、雅がクスリと笑った。
「……そうだね。また集まればいいだけだもんね」
雅の声がどこか安心感を運んできた。ユウヤが腕を組みながら大げさに頷く。
「じゃあ、写真撮ろうよ!」
雅が急に言い出した。その提案に全員が顔を上げる。
「写真?」
京太が少し戸惑いながら尋ねると、雅がすでにスマホを取り出してカメラモードにしていた。
「ほら、みんなこっち来て!」
雅が手招きすると、ユウヤが「おお、いいね!」と先に立ち上がり、京太と小森を引っ張るようにしてカメラの前に並んだ。
「もっと寄って!」
雅がタイマーをセットして、自分もカメラの前に急いで座る。シャッター音が鳴り、画面に映った四人はぎこちなくも自然な笑顔を浮かべていた。
写真を確認した雅が「もう一枚!」と言い、全員がまた同じようにポーズをとる。その瞬間、京太がふと思い立った。
「……ちょっと待った」
京太の声に全員が動きを止める。彼は一歩前に出て、改めて三人を見回した。
「……なんか、今さらだけどさ」
京太は少し照れたように頭をかきながら続けた。
「ありがとう。お前らがいなかったら、こんなバンドとか絶対やってなかったし、ここまでこれなかったと思う」
その言葉に、雅が目を丸くし、小森が少し驚いたように京太を見つめた。ユウヤだけが「何真面目になってんだよ」と笑い飛ばす。
「いや、マジでさ。……文化祭、絶対成功させような」
京太がそう言うと、ユウヤが大きく手を叩いた。
「おっしゃ、明日思いっきりやるぞ!」
雅も「うん!」と力強く頷き、小森はまたノートに文字を書いてみせた。
「一位のバンドぶっ飛ばしましょう」
その文字を見た全員が大きな声で笑うと、最後のシャッター音が室内に響いた。
体育館で機材のセッティングを終えたユウヤと京太は、教室から響く笑い声や呼び込みの声が混じる校舎の中を歩き始めた。
「小森と雅、ちゃんと迎えに行かないとな」
京太が言うと、ユウヤが肩をすくめて答えた。
「だな。つーか、雅はメイド喫茶でしょ?絶対面白いよな。それより先に小森んとこ行こうぜ。ケバブ屋だっけ?」
二人は校庭に出て、ケバブの屋台が並ぶスペースへと向かった。
しばらく進むと、遠くからでも小森が忙しそうに働いている姿が見えた。エプロンをつけ、注文を受けるときだけわずかに笑みを浮かべ、手際よくケバブを包んで渡している。
「意外と馴染んでんな、あいつ」
ユウヤが感心するように呟いた。
屋台に近づくと、小森が二人に気づいて手を振った。ユウヤはさっそくメニューの看板を指差す。
「これ、激辛ケバブ一つね!」
その瞬間、小森が少し目を丸くして彼を見たが、すぐにクスリと笑みを浮かべ、厨房に戻った。
手際よく赤黒いソースを塗り、具材を挟み、さらに赤いスパイスを振りかけたケバブを彼に差し出した。
「おー、ありがとな!」
ユウヤは勢いよくケバブを受け取り、大きな口で一口頬張る。そして次の瞬間。
「……っ!!!」
ユウヤの顔が真っ赤になり、声にならない悲鳴が喉から漏れた。両手をバタバタさせ、跳ねるように足を動かす。
「おいおい、大丈夫かよ」
京太が呆れたように言うが、ユウヤはそれどころではない。
「これ、なんだよ!辛すぎんだろ!」
その横で、小森が同じ激辛ケバブを手に取った。
そしてそれを一口。涼しい顔をしながら、そのまま平然と食べ進める。
「え……?」
ユウヤが驚愕の表情で小森を見つめる中、小森はノートを取り出し、さらさらと文字を書き始めた。そして、そのページをユウヤに向けて差し出す。
「雑魚」
京太が思わず吹き出した。
「お前、最高だな」
ケタケタと笑う京太の横で、ユウヤは「俺だって辛いのいける方なんだよ!」と必死に反論するが、汗だくで説得力がまるでない。小森はその様子に満足したように、わずかに微笑みを浮かべた。
ちょうど小森が担当の時間を終えて、三人で雅のメイド喫茶に向かうことにした。
教室に近づくと、「Welcome to Maid Cafe♡」と書かれたカラフルな看板が目に入る。その横には制服姿の男子生徒が立ち、何ともぎこちない笑顔を浮かべていた。教室の中からは笑い声や注文を取る声が漏れ聞こえる。
「お、ちゃんと盛り上がってんじゃん」
ユウヤが感心しながら教室に足を踏み入れると、すぐにメイド服を着た男子生徒が近づいてきた。
「いらっしゃいませ、ご主人様!」
高めの声でそう言いながら、三人を席へ案内する。
「……なんか、想像と違うな」
京太がぼそりと呟くと、ユウヤが笑いを堪えるように肩を揺らした。
窓際の席に腰を下ろすと、メニューが渡された。表紙には可愛らしいフォントで「オムライス」「パンケーキ」「スペシャルドリンク」などが並んでいる。京太がメニューを眺めている間、小森は静かにメイドたちの動きを目で追っていた。
「オムライス、行っとくか」
京太が適当にメニューを指差すと、ユウヤがニヤリと笑う。
「じゃあ俺はパンケーキだな」
注文した料理が運ばれてくると、まず目に入ったのは京太のオムライスだった。皿の中央に、ケチャップで書かれた文字が大きく浮かんでいる。
「Crux」
「おい、なんだこれ……」
京太が皿を凝視する。
その様子を見て、オムライスを運んできたメイド服の男子生徒がにやりと笑った。
「今日、楽しみにしてるよ。お前らのライブ!」
その言葉に京太は驚きつつも、「どういうこと?」と聞き返した。
「放課後の演奏、噂になってるぜ。練習してた音がグラウンドまで聞こえてたからな」
そう言いながら、ケチャップボトルをくるくる回す。
「なんだよ……噂になってたのかよ」
「まあいいじゃん。注目されるってのは悪いことじゃないっしょ」
ユウヤが軽く肩を叩く。
小森は静かにそのやり取りを見守りながら、手元のスマホを触っていた。
「で、雅は?」
京太がふと思い出したように尋ねる。
メイドは少し考え込むような表情を浮かべた後、首をかしげた。
「ああ、そういえば……今日見てないな」
その一言がやけに冷たく響く。
京太はスプーンを置いて、何か考えるように視線を落とす。ユウヤは落ち着かない様子で、無駄にケチャップの容器をいじり始めた。
そのとき、小森がそっと携帯を持ち上げて二人の方に向けた。画面には、文字ではなくシンプルなメッセージが映し出されている。
「ごめん、体調悪くて無理かも」
京太の目が一瞬大きく見開かれる。その後、驚きが冷たい焦りに変わり、次に口を開いたのはユウヤだった。
「……ちょ、待てよ、それって――」
声が途中で掠れる。
「これ……雅から?」
京太が尋ねると、小森は小さく頷いた。携帯を握るその指先が、ほんの少しだけ震えているのが見えた。
「どういうことだよ、昨日だって普通に――」
京太の言葉が途中で途切れる。雅が笑顔で話していた光景がふと脳裏をよぎるが、それが余計に現実感を失わせた。
「マジかよ……」
ユウヤが頭をかきむしるようにして立ち上がりかけるが、そのまま腰を下ろした。手持ち無沙汰にケチャップの文字を見つめる。
京太は頭の中で必死に状況を整理しようとする。
「どうする……」
ぽつりと京太が呟くと、ユウヤが静かに目を閉じた。小森も携帯を置き、じっと画面を見つめている。外の喧騒が妙に遠く感じられた。
三人はステージの控え室にいた。
「とりあえず、文化祭実行委員にメンバーが遅れるって伝えて、順番を後ろにしてもらおう」
京太の提案に、ユウヤがすぐに頷いた。
「それしかねえな」
小森も無言で頷くと、京太は慌ただしく控え室を飛び出していった。
実行委員の机にたどり着いた京太は、息を切らしながら事情を説明する。担当の生徒は一瞬驚いた表情を浮かべたが、「分かった。他の演目と調整するよ」と静かに頷いてくれた。
その言葉に一瞬だけ安堵したものの、足取りは軽くならなかった。
控え室に戻ると、小森とユウヤがそれぞれ無言で何かを抱え込んでいた。小森は携帯を握りしめて画面を見つめたまま、まるで固まっているかのように動かない。
ユウヤは壁にもたれて腕を組み、時計をじっと睨んでいる。
「……連絡は?」
京太が聞くと、小森は小さく首を横に振った。返事はまだない。
その時、体育館から明るい音楽が響いた。ステージのオープニングが始まったのだ。歓声が遠くから聞こえてくる。それはまるで、静まり返った控え室の中とは別世界の音だった。
「雅……早く来いよ」
ユウヤがポツリと呟く。声には焦りが滲んでいる。
ステージでは一組目の演目が始まったようだ。カーテンの開く音、演劇のセリフが体育館の壁越しにぼんやりと聞こえてくる。その音が京太たちをさらに煽った。
「もう始まってる……」
ユウヤが呟き、腕時計を何度も見た。その針がやけに速く進んでいるように思えた。
一組目の演劇が終わると、大きな拍手が聞こえた。それに続いて、二組目が紹介されるアナウンスが流れる。舞台袖を歩く足音が響き、次は漫才が始まったらしい。
遠くから聞こえる笑い声に、京太は軽く膝を叩いた。
「くそ、何してんだよ」
京太の呟きに、小森がわずかに視線を動かすが、何も言わない。
やがて三組目のグループが呼び込まれ、合唱の歌声が流れてきた。会場は盛り上がっているようだったが、その雰囲気は控え室の三人には届かない。ただ、時計の針の音だけが妙に大きく響いている気がした。
雅からの返事はまだ来ない。時間だけが容赦なく進んでいく。
5組目の演奏が終わり、控え室の外から拍手が湧き上がる。その音に、京太たちは肩を落とした。何度もスマホを確認するユウヤが、小さく舌打ちをした。
「終わったな……」
ユウヤが壁に頭をもたれさせて呟く。その声は冗談でも自虐でもなく、ただ冷静な現実を受け止めているようだった。
「いや、まだ分かんねえだろ」
京太がそう言うが、その言葉に自分自身すら説得力を感じていないのがわかった。
体育館の外から、6組目の演奏が始まった。ギターの音が響き、会場の空気が熱を帯びているのが伝わってくる。それを聞きながら、ユウヤが突然口を開いた。
「……俺と京太で即興漫才するしかないな」
「は?」
京太が振り返ると、ユウヤは真顔だった。その目には焦りと諦めが混ざり、どこか本気で覚悟を決めたような光が宿っていた。
「いや、マジで。他に手がねえだろ。歌わなくても、ステージに立つことはできる。そうすりゃ、思い出は作れる」
京太は呆れて笑おうとしたが、その笑いすら喉で止まる。
ふざけているわけではない。ユウヤの声には、本気でこの窮地を何とかしようとする必死さが滲んでいた。
6組目のバンドの演奏が終わり、観客の大きな拍手が聞こえた。その音が控え室まで届いた瞬間、京太の心臓がひときわ大きく跳ねた。
「終わった」
自分でも無意識に呟いていた。
その時だった。
小森がスマホを無言で画面を操作し始めた。その動作に京太とユウヤは目を向ける。いつもより少し力が入っているように見える指先が、画面を叩くように動いている。
そして、小森がスマホを持ち上げ、画面を二人に向けた。
そこには、短い一言だけが書かれていた。
「私が歌う」
京太とユウヤは、まるで時間が止まったかのように動きを止めた。
「……は?」
京太が、呆然とした声を漏らす。隣ではユウヤが目を大きく見開いていた。
「いや、歌うって……お前、声出ないだろ――」
その言葉を言い切る前に、小森が口を開いた。
「私が歌う」
その瞬間、時間が止まったように感じた。京太とユウヤの視線が、小森の顔に釘付けになる。声――本当に声だった。文字でも、ノートでもない、小森の声だった。
「……今、喋った?」
ユウヤが掠れた声で尋ねる。
小森の表情はいつもの控えめなものではなく、何かを決意したような強さが宿っていた。
「いや、ちょっと待て、小森……」
京太が言葉を続けようとしたその時だった。
「Cruxの皆さん、準備をお願いします!」
文化祭実行委員の声が、控え室に響き渡る。
体育館の外からは、観客たちのざわつきが波のように聞こえてくる。
「行くよ」
小森が言った。
彼女はギターを手に取り、ステージへの道を歩き始める。
「小森、本当に……?」
京太が問いかけるようにその背中を見るが、小森は振り返らない。
「おい、行くぞ!」
ユウヤが京太の肩を叩く。
京太は息を吐き、動き出した。小森の後ろ姿が、控え室の光を抜け、体育館のステージの方へ吸い込まれていく。その背中を追いかけながら、二人はステージに向かった。
「Cruxの皆さんです!」
司会者の声が再び響く。その瞬間、体育館のざわつきがさらに大きくなったように感じた。
体育館全体がざわついている。
「あれ、小森が……マイクの前にいる?」
「あの子、声出せるの……?」
観客席のあちこちから漏れる小声が、ざわざわと広がっていく。
そのざわめきの中、小森はステージ中央のマイクスタンドの前に立っていた。
ギターを構える姿はいつもと変わらないのに、その背中から漂う雰囲気はどこか違っていた。
普段の彼女の姿からは想像できないほど堂々としている。
「おい、京太……」
ユウヤがステージ後方からぼそっと言った。その声には、半信半疑と驚きが混じっている。
「今、俺たち……小森の声、聞いたよな?」
京太は答えなかった。ただ、ステージ中央に立つ小森の背中をじっと見つめていた。
小森はゆっくりと指を動かして弦を鳴らした。
高く澄んだ音が、一瞬にして体育館のざわつきをかき消した。静寂が音の余韻とともに会場全体を包み込み、ざわざわとした観客たちも、次第に息を潜めていく。
その瞬間、京太の頭の中で何かがかちりとはまった。
小森がステージに立つその姿が、記憶の奥底にある情景を一気に引き寄せた。
—あの日、Aoiのライブで見たあの光景。
脳裏に鮮明に浮かび上がる。
「……小森、お前」
体育館の全員が、小森に注目していた。普段から目立たないようにしている彼女が、今、ステージのど真ん中でスポットライトを浴びている。その光に照らされる姿は、普段の小森とはまるで別人のようだった。
小森はギターを抱えたまま、マイクにそっと口を近づけた。その動きに、体育館中の視線が吸い寄せられる。
そして、彼女の声が体育館に放たれた。
透明で、柔らかく、どこか儚い響き。だけど、その芯には確かな力があった。彼女の歌声は一瞬にして空気を変えた。観客が耳を傾け、息を潜める。小森の声はアカペラのまま、ワンフレーズだけ歌い上げる。
「あの日の涙も 傷ついた心も 夜空に浮かぶ星のように――」
その一節が、体育館の隅々まで響き渡った。観客の静寂が次第にざわめきに変わる。
歓声が一気に沸き上がる。拍手や「おお!」という驚きの声が体育館全体に広がった。
その反応を受けて、小森は一瞬だけ目を伏せたが、すぐにギターを抱え直した。その指先が弦に触れると、次の瞬間、ユウヤのドラムが力強く会場を揺らす。
京太のベースがそこに加わり、低くうねる音が全体を包み込む。
小森のギターがその上に鮮やかなメロディーを重ねた。
一つになった音が、会場を満たしていく。
観客の熱気がどんどん高まっていくのを感じながら、京太はステージの端からちらりと観客席を見た。みんな立ち上がり、音に合わせて体を揺らしている。その光景を確認してから、京太は目を細めて笑い、小さく頷いた。
「行くぞ!」
ユウヤがスティックを振りかざし、全員の音がさらに重なり合った。その瞬間、体育館が音楽で満ち、ただの空間だった場所が一つの世界に変わった。
サビに差し掛かると、小森の声はさらに深みを増し、体育館全体を包み込むように響き渡った。
それまで穏やかだった彼女の歌声は、どこか力強さを宿し、まるで天井を突き抜けて空に届くような感覚を与えた。
彼女の歌声は観客一人ひとりの胸に触れていく。
その音に心を動かされたのか、観客の中にはじっとその場で動かず、歌に聞き入る者もいれば、手拍子を送る者もいた。
普段、人目を避けるようにしていた小森。その彼女が、今この瞬間、体育館全体の視線を堂々と引き受けている。その姿は、控えめで目立たなかった彼女を知る人たちにとって、まるで別人のようだった。
最後のサビに差し掛かると、小森の声にはこれまで以上に感情が乗せられた。震えるような力強さと、どこか痛みを孕んだ柔らかさが絡み合い、歌声が空間を切り裂き、塗り替える。
「繋がって輝く 僕らだけの物語」
ラストフレーズを歌い上げた瞬間、体育館は静寂に包まれた。誰もが声を出さず、呼吸すら忘れているようだった。
次に響いたのは、誰かが手を叩く音だった。それが徐々に増え、拍手の渦が体育館全体に広がった。歓声が湧き上がり、その中心で小森は、ギターを静かに下ろしながら、わずかに口元を緩めていた。
ユウヤは勢いそのままにスティックを握った手を高々と突き上げていて、その顔には達成感と興奮が滲んでいる。
隣では京太が肩で息をしながらも、口元には安堵と笑みが混じっていた。
小森はギターを静かに抱えたまま、深く一礼をする。
その仕草があまりに慎ましく、それでいて力強かったため、観客たちはさらに大きな拍手を巻き起こした。
「……すげぇよ、小森」
京太は、ステージ中央に立つ小森の背中をじっと見つめながら、そう呟いた。
小森が顔を上げた。スポットライトを浴びたその表情は、わずかに微笑みを浮かべている。その笑顔に観客たちの拍手は、さらに勢いを増した。
「おい、おい……反則だろ」
ユウヤが小声で笑いながら言った
体育館の入り口付近、薄暗い影の中に雅は立っていた。ステージの上、小森がギターを抱えて微笑んでいる。その姿が観客の歓声とともに雅の胸に突き刺さる。
拍手と熱気に包まれた体育館の空気は、まるで自分だけが別の時間軸に取り残されたような、そんな感覚にさせた。
足元に視線を落とす。
握りしめた手の中に爪が食い込む。
その痛みが、自分がここにいるという確かな感覚を与えてくれる気がして、力を抜くことができなかった。
「私がここに立つべきだったんじゃないの?」
頭の中で誰かが呟く。けれど、そんな自分を打ち消すように、もう一人の自分が冷たく囁く。
「いや、結局また逃げたんだろう?」
雅は深く息を吸い込む。
再び顔を上げると、小森の姿が視界に入る。その小さな体が眩しかった。
「もう、見ていられない」
胸の奥で呟くようにそう思うと、雅は振り返った。
背後から響いてくる歓声や拍手は、距離を取るたびにどんどん遠くなっていく。
薄暗い廊下に一歩ずつ足を進めるたび、雅の心は少しずつ静けさを取り戻す。だけど、その静けさがどうしようもなく寂しく、心に重たくのしかかってくる。
「応援するって言ったくせに……」
あの喫茶店のことが、頭の中でぐるぐると繰り返されていた。パフェを食べながら、小森がノートに書いてくれた「応援する」という文字。あの時はどれだけ心が軽くなったか、どれだけ嬉しかったか。自分の夢を初めて口にして、それを肯定してもらえた――そう思っていた。
小森の歌声を聴いた瞬間から、雅の心には別の声が響き始めていた。
「あれは嘘だったの?」
その言葉が頭を何度も往復する。
「なんで、あんな風に歌えるの隠して……」
気づけば口に出していた。誰もいない夜の廊下に、その声は静かに吸い込まれていく。
体育館の中からは、まだ歓声が聞こえてくる。そこにいたくない。
雅は一歩、また一歩とその場を離れるように歩き出した。
小森のギターの音が、歌声が、耳に残って離れない。
あの練習の日々、後ろでギターを弾いていた小森の姿が浮かぶ。
自分が歌詞を間違えても、笑って「いいよ」と頷いてくれていた。
けれど、今日の小森の姿はどうだ? 雅がいなくても、体育館を飲み込むような存在感を放ち、誰よりもステージの中心に立っている。
「私の歌を、どう思ってたの……?」
その疑念が、どうしても消えない。
喉の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚が襲ってくる。涙が頬を伝うのが分かっても、手を伸ばしてそれを拭う気にはなれなかった。
「……私には無理なんだよ」
夜空を見上げた。星がぽつりぽつりと浮かんでいる。それを見つめながら、雅は少しだけ笑ったような気がした。自嘲するような、そんな笑いだった。
「やっぱり……私は……」
体育館を出た京太たちは、まだライブの余韻に浸っていた。
夜の風が熱くなった肌を冷やし、頬に当たるたびに少しずつ現実に引き戻されていく。
すれ違う生徒たちの声が耳に入ってきた。
「めっちゃ良かったよな、さっきのバンド!」
「あのボーカルの子、誰だろ?」
「ギターもめちゃくちゃ上手くなかった?」
そんな声を聞きながら、ユウヤが横を歩く小森をちらりと見た。
「なぁ、小森」
ユウヤがぼそっと切り出した。
その声は妙に低く、真剣さが混ざっている。
「なんで声出ないふりしてたんだよ」
その問いに、小森は立ち止まり、小さく「ごめんなさい」とだけ呟く。
小森とユウヤが会話をしている。
それがもう京太には非現実的だった。
「……え、マジで喋れるんだよな」
ユウヤが続けて言うが、小森はそれ以上何も言わなかった。ただ、ごめん、の一言だけが響いている。
その時だった。
「お姉ちゃん!」
背後から、明るい声が弾けるように響いた。
三人が振り向くと、そこには、小森そっくりの女の子が立っていた。
髪型も、背丈も、違いを探す方が難しいほど、瓜二つだった。
「えっ……?」
京太とユウヤが同時に声を漏らす。驚きと混乱が入り混じり、二人の視線が交差する。
小森は大きくため息をつき、ゆっくりとその女の子の方に歩み寄った。
「ちょっと、渚、来てたの?」
その言葉を聞いた瞬間、京太の中で何かが引っかかったように止まった。
「渚……?」
京太の頭が真っ白になる。
「お、久しぶり! 京太くん!」
渚と呼ばれたその女の子が、ニコニコと親しげに手を振った。
京太の混乱はさらに深まる。
「え……お、俺?」
「そうそう、あの時はハンバーガーごちそうさまでした!」
その言葉を聞いた瞬間、京太の脳裏に、ある記憶が微かによぎる。
「ハンバーガー……?」
Aoiのライブの日のことだ。
その記憶をたどろうとする京太の横で、小森が苛立ったように渚の肩を掴む。
「余計なこと言わなくていいって言ったでしょ!」
「だって、全部話しちゃった方が早いじゃん!」
渚は全く悪びれる様子もなく、にっこりと笑う。
「どういうことだよ…」
京太がようやく絞り出した言葉はそれだった。
小森は深いため息をつき、肩を落とした。その仕草は諦めたようで、どこか吹っ切れたようでもあった。
「……もう好きに話しなよ」
そう言って、小森は渚に視線を向ける。
渚は待ってましたとばかりに一歩前に出て、京太を真っ直ぐ見た。
「えっとね、まず説明するけどーーあの日、Aoiのライブを一緒にライブを見たのは私でした!」
「……は?」
京太は思わず声を漏らした。
「でもね、そっちが勝手にお姉ちゃんだって勘違いして話しかけてきたんだからね!間違えたのはそっち!それにチケットだって持ってなかったのに入れてあげたんだから感謝してよね!」
渚は誇らしげに言うと、突然思い出したように指を鳴らした。
「あ、でもハンバーガーでチャラか!」
京太の脳は完全に追いついていない。
「いや、待って……どういうことだ?」
渚がケラケラと笑いながら話す横で、京太は頭を抱えた。
「あのさ……説明が雑すぎるんだよ!」
「京太この子と知り合いなのか?」
ユウヤが口を挟もうとしたが、渚はそれを無視して言葉を続けた。
「だからさーー簡単に言うと、みんなと一緒に毎日練習してた小森葵が、あのシンガーソングライターAoiだよ」
静寂が訪れた。
京太もユウヤも、全く言葉が出てこない。渚の言葉が、あまりにもあっさりと、意味不明なことを言うから。
「ほら、だから!」
渚はまるで当たり前のことを言うように、小森を指差す。
「Aoiなの!」
小森は何も言わず、ただ視線を逸らした。