9.宮殿と親族と××
その日は、朝から何だかいつもと雰囲気が違っていた。
いや、思えば数日前から予兆はあったのだ。なんだかメイドたちがそわそわしていて、目配せをしあったり、浮ついたような空気になったり、時々ため息を漏らしていたり。そうして妙にざわついた感じではあったものの、魔素を介して周囲の会話に耳をそばだててみても、異変らしきものの決定打は見つけられなかった。
なので、朝の命の糧――お乳をありがたく頂いた後、少しうねりのあるらしいふわふわのアーデルハイドちゃんの髪にブラシを入れられ、なんだかやたらと装飾の多い子供用のドレスを着させられた時も、今日はなんだかドレスに気合が入っているなぁくらいにしか思わなかった。
「姫様はやはり、白いドレスがお似合いになられますね」
「ベビーピンクと最後まで迷いましたが、こちらにしてよかったわ」
「ああ、でもやっぱり、そちらも見て見たかったです」
マーゴとテレサがいつも通り、でれでれとした様子でそう言うけれど、単純に浮かれているわけではないというのは魔素を介して伝わる彼女たちの心の波からなんとなく理解できる。
期待? 不安? 心配だろうか。とにかくそれに近いものを育児室のメンバーが抱いていて、でもアーデルハイドちゃんを不安にさせないために、わざと明るく振る舞っているような感じがする。
そうこうしているうちに、まだ朝日も眩しい時間に育児室にパパが現れた。
パパは仕事が忙しくて、育児室に現れるのは夜だけだ。三十分ほどをここで過ごして、夜更かしさせないようにと短い時間で去っていく。
これで、今日がいつもと違うことは確定だ。何が起きるのかと思っていると、マーゴに抱っこされて、すぐにパパに手渡された。
何気に上着を着ているパパに抱っこされるのは初めてだけれど、今日は肩のふさふさや胸に沢山付けている金ぴかのバッジ類は全て外されていて、王族というより貴族が自宅で寛いでいるときのような服を着ている。多分素材は絹で、つるつるで、抱っこされて頬で触れるとひんやりしていた。
「おはようアディ。今日のご機嫌はどうかな?」
「んまっ!」
「元気そうだね。よかった」
一目で新品と判る真っ白な手袋越しに頭を撫でられて、殿下、御髪が乱れてしまいますとマーゴに注意された。すっ、と無言でテレサがブラシを取り出して、ささっと再び髪を撫でつけられる。赤ちゃんのヘアスタイルだというのに、芸能人もかくやという厳しさだ。
「アディ、今日は私と、少し庭以外の散歩をしよう。ちょっとだけ王宮の中を見て回って、人とお話をするだけだから、君はいつも通りにしていて構わないよ」
王族なのに、パパはマーゴやメイドたちより演技が下手だ。少しとかちょっととか強調しすぎて、却ってそこに何か面倒なことがあるのが透けて見える。
赤ちゃん相手に全力投球すぎる育児室のメンバーの方が変わっているのかもしれないけれど、これでは赤ちゃんではなくてもちょっと不安になるというものだ。
とはいえ、大人に抱っこされたゼロ歳児に拒否権などない。育児室を出て、いつも庭園に出るために右に曲がる通路を今日は左に曲がり、更に進む。
通路は左右に広く、えんじ色の絨毯が敷かれていて、足音はほとんどしない。パパの後ろには見覚えのある従者の他にもう一人、同じ年くらいの騎士がついていた。
通路には立派な絵が沢山飾られていて、高い天井には天井画がびっしりと描きこまれている。今世では育児室と素朴に整えられた庭しか見たことがなかったので、ほんの数分歩いただけでこの建物に掛けられた気の遠くなるような手間と資金と労力に、圧倒された。
前回は人間だったといっても、ごくごく平凡な一般人だったし。赤ちゃん相手に一喜一憂していても、こんな場所で当たり前に生活できるパパはやっぱり生粋の王族なんだろう。
やがて廊下を進むと、天井まで連なる窓が等間隔に続く広間に出た。大きなシャンデリアがいくつもぶら下がっていて、窓際にはランプを持ったデザインの、黄金色の彫像が置かれている光景は荘厳の一言で、赤ちゃんながらに圧倒されてしまう。
「うあ」
あれって本当に金なんだろうか。金は結構柔らかい上にかなり重たい素材なので、大きな彫像を作るのは向かないらしいけれど、メッキか何かかな。
触ってみたいなと思ったけれど、パパは後でね、と囁いて、そこからさらに少し歩いた。
パパに抱っこされてゆっくりと流れていく光景は、まるで夢の国ツアーのようだった。やたらと顔の綺麗な男女が半裸で踊る天井画や、光を弾く黄金の額縁に彩られている、英雄の絵。大きな窓を彩る精密なレリーフ、傷一つなく磨き上げられた、大理石の床。
そういったものに見入っているうちに、やがてパパが足を止める。いつもとは違う光景にすっかり目を奪われていたことと、パパに抱っこされていることで安心して周辺を魔素で探ることも忘れていたけれど、やあ、とフランクに掛けられたことで、近くに別の人がいたことにようやく気が付いた。
そこにいたのは、数人の人間だった。全員、アーデルハイドちゃんは初めて見る顔だ。
声を掛けたのは長身の男性で、ふわっとした金髪を短くしていて、自信満々そうな笑みを浮かべていた。
男性はまだ若い。前世の私とそう変わらないくらいだろう。後ろにいるのは白を基調に青のポイントをあしらった騎士服を着た人たちと、もう一人、黒いドレスを着ている女性がいるけれど、こちらは背の高い男性が死角になって姿が見えなかった。
「兄上、偶然ですね。散策ですか?」
「ああ、妃が二人で歩きたいというのでな。お前も娘と朝の散歩か?」
「はい、娘に広間を見せてやろうと思いまして」
「なるほど、今日は神に祝福されたよい朝だ。こういうこともあるだろう」
わざとらしくうんうんと頷いた後、ずいっ、と顔を近づけられて、思わず顎を引く。
なるほど、超イケメンのパパの兄というだけあって、とても整った顔立ちだった。青い瞳はきりっとしていてパパより太い眉は力強さを感じさせる。
全体的な顔立ちは似ているのに、どこか気弱げなパパとは違い、輝くような自信にあふれている。それだけで随分印象が違う、別のタイプの美形に見えるらしい。
そして、パパの兄ということは、この国の王様ということだ。
ここまでお膳立てされて偶然もなにもない。最初からここで落ち合う段取りだったのだろう。なんで兄弟でそんな面倒なことをするのかと思わないでもないけれど、王族というのは、色々とあるんだろう、きっと。
「なるほど、美しい娘だ。おまけに、大変利発だと聞いているが」
「このように非常に愛らしい見た目ですので、どうしても周囲が可愛がってしまうのです。一般的な赤ん坊と、そう大きくは変わりませんよ」
「お前も一端に父親らしいことを言うようになったのだなあ。どれ、我が姪を抱かせておくれ」
手を差し伸べられて、パパの上着を小さなおててでギュッとつかみ、頭を押し付ける。赤ちゃんなりの全身での「いや」の表現だ。
「どうした? こちらにおいで、我が姪よ」
「兄上、アディは人見知りが始まった頃合いなのです。赤ん坊とは普段見慣れない人間を避けるものなのです」
パパは、いつだかマーゴに説明されたことを丁寧に繰り返すとまるっとしたアーデルハイドちゃんの背中をぽんぽんと叩く。
「あと五年……いえ、十年もすれば物の道理も覚えるでしょうから、それまでお待ちを」
「長いな!?」
「子供を育てるということは、根気が必要なのです」
「あら、それでしたら、頻繁に会えばよろしいですわ」
パパのほんの少し自慢げな声に。半ば割り込むように、よく通る甲高い声が響く。
「陛下は天に祝福された素晴らしい方ですもの。あと数回もお会いすれば、大事な伯父として認識されるようになるでしょう」
「おお、マルグリット。それはよい案だな」
「いずれ私たちの娘になるかもしれない子ですもの。早く仲良くするに越したことはありませんわ、陛下」
ほほほ、と笑うその声を聞くたびに、まだまだ短い首の後ろがざわざわする。
「義姉上……それにつきましては、まだ確定したことではないはずです」
マルグリットと呼ばれた女は、白魚のように細く白い指を頬に当て、ほう、と息を吐いた。
「そうは申し上げましても、結婚して五年にもなるのに、私ときたら不甲斐なくも陛下の子を身ごもることが出来ないのですもの。国の安寧のためにも早い方が良いのではないかと、私は思いますわ。本来なら私の方から身を引き、陛下には新しい王妃を迎えていただくべきなのでしょうが」
「そんなことは許さんぞ。マルグリットは私が神の前で生涯を誓った相手だ」
「ふふ、困ったお方ですわね」
伯父さんは一瞬でアーデルハイドちゃんのことはどうでもよくなったらしく、ほっそりとくびれたマルグリットの腰を抱くと、いちゃいちゃしはじめた。パパにさりげなく見ないように頭を撫でられつつ、この状況について、頭がついていかない。
なんだこの茶番。
アーデルハイドちゃんを抱くパパの腕は緊張しているけれど、パパの後ろにいる二人の従者と騎士はどこか白けたような空気だった。
けれど、反面王様の後ろにいる騎士たちは、感動して今にも泣き出さんばかりに小刻みに震えている。こんなに空気が違う事ってある?
「シリル殿下、妃殿下は今も体調を崩していると伺っております。幸い私はこの通り、健康にだけは不自由しておりませんし、養育を乳母任せにはせず、良い母になれるよう努力もいたしますわ。どうぞ前向きに考えて下さらないかしら」
「義姉上の若さと美貌です。いずれ王国の未来に相応しい男子が生まれるでしょう。アディはこの通り、まだ生まれて数か月の赤ん坊ですし、ことを急ぐ必要はありませんよ」
パパはあえて明るく応じたけれど、なんとなく王妃マルグリットとの、対立の空気が伝わって来る。伯父さんも人目をはばからずイチャイチャしている割には一方的に王妃の味方ということもないようで、まあまあ、ととりなすようにさりげなく、二人の間に割って入った。
「確かに急ぎすぎるのもよくないだろう。生後一年の祝福の儀を終えてから考えてもいいではないか」
王様がそう言ったことで、ひとまず話は終わった。今日の予定はこれで済んだらしく、それぞれが散歩に戻る空気になる。
その前に、どうしても確かめておかねばならない。縋りついていた指を解いて、パパに抱っこされたまま、振り返る。
先ほどは王様の陰になって見えなかった王妃マルグリット。ドレスだけでなく、長く伸ばした髪も、瞳も、月のない夜のように真っ黒で、肌は白く、唇だけが血のように赤かった。
見た目は非常に美しい女性だ。タイプは違うけれど、この世でもっとも愛らしいラプンツェルと並んでも、決して見劣りはしない美貌である。
「ふふ、本当に愛らしいお顔だこと。またお会いしましょうね、アーデルハイド殿下」
けれど、そのあまりの異質さに、震えた。
「アディ? おしっこか?」
「おお、赤ん坊を連れているのに、引き留めてすまなかったな。ではな、シリル」
「はい、それではまた、兄上」
パパに抱っこされたまま歩き出しても、その背中越しにあの女のねっとりとした視線が追ってきているような、そんな気がした。
間違いない。
――あいつ、魔女だ。
なぜ魔女が一国の王の妃なんてものに納まっているのか。
周囲はなぜ、あの異質さに気づかずにいられるのか。
赤ちゃんの小さな頭では、中々思考が追い付かなかった。