8.大好きな〇〇
庭園の林檎とオレンジの木に花が咲くようになったころ、結構長く、ラプンツェルが会いに来れない日が続いていた。
繰り返すけれど、赤ちゃんの体感時間は長い。すごく長い。人間は生まれてから二十歳までと二十歳から寿命が尽きるまでの体感時間が同じだとSNSで見た覚えがあるけれど、それが真実なら赤ちゃんの一日は成人の十日くらいに感じるかもしれない。
それまでも三日四日と会えない日はザラだったけれど、二週間も過ぎると段々不安になってきて、春と夏の境目くらいになるともう不安は爆発寸前まで膨れ上がっていた。
それでも爆発しなかったのは、我ながら不本意だけれど、ク……パパがそれまでより頻繁に訪ねてくるようになったからだ。
パパの訪れはいつも夜だ。寝ているなら起こさなくていいとひそひそとマーゴと話しているけれど、魔素を比較的自由に使えるようになったため、気配の察知はかなり精度が上がっていた。
今ならこの離宮に誰かが忍び寄るだけで、そうと判る。もうちょっと大きくなってさらに魔素の扱いが上手くなれば、この宮殿くらいは自分の支配領域に置くことができるようになるかもしれない。
そんな疲れることはしたくないけど、ともかくパパは三日と空けずに愛娘、アーデルハイドちゃんの育児室を訪ねるようになった。
「ぱぁぱ」
「おお、アーデルハイド。今夜は起きていたんだね」
いそいそと手を洗い、従者に上着を預ける様子は最初の緊張した様子と違っていて、大分赤ちゃんに慣れつつメロメロだと一目でわかる。傍についているマーゴもメイドたちも使用人らしく落ち着いた表情を保っているけれど、口元がうっすら微笑んでいて嬉しそうだ。
「うん? またちょっと重たくなったかな?」
レディに対して失礼なことを言うけれど、最近のパパは抱っこもすっかり上手くなって、高い高いなんてこともしてくれるようになった。視界が高くなってぐるっと回る感じが面白くて、きゃっきゃっと笑うと調子に乗ってぐるぐる回される。
乳母のマーゴもメイドの四人も王女様にそんなことはしない、出来ないので、こうした遊びは今のところパパだけの特権だ。
ひとしきりぐるぐると回して遊んでもらった後は、ソファに落ち着いたパパの膝にちょこんと座る形になる。パパが育児室では食事をしないと告げてあるので、お茶のようなものが出されることはなかった。
「ラプンツェルはまだしばらくこちらに来られそうもないんだ。寂しいだろうけれど、ママを忘れないであげておくれ」
「まんま?」
「ああ、今、少し体調を崩していてね。元々産後の肥立ちが良くなくて、ずっと寝付いていたんだが、アーデルハイドがあまりに可愛くて、何度もここに来ていただろう? 無理が祟ってしまったのだろうと侍医に言われてしまったんだよ」
「んまぁ」
魔女の記憶より痩せて儚げな雰囲気になっていると思ったけれど、出産がかなり大きなダメージだったらしい。
この世界の医療がどのくらいの水準か分からないけど、平民は医者に掛かることは滅多になくて薬草師の薬に頼っているくらいだから、前世の近代医療などはまだまだ遠い未来の話なのだろう。
お産は命懸けだ。前世でもそうだったけど、この世界ではなおさらだ。
栄養状態も衛生状態もいいとは言えないだろうし、産褥でこの世を去る女性は多く、だからこそ隣の旦那さんは身重のおかみさんのために魔女の庭を荒らすなんて蛮勇に出たのだから。
魔女としての私が傍にいたら、早く回復するよう手助けが出来ただろうか。人間には興味はなくても効能のある薬草については詳しかったし、遠方から貴族の使いが薬草を売って欲しいと訪ねて来ることもたまにはあったから、効いていたのだとは思う。
この城の医者の腕はどうなっているのだという憤慨もある。
これまで傍にいて育ててくれるマーゴやメイドたちに全く不満はなかったけれど、アーデルハイドちゃんはゼロ歳児だ。母親が寝付いているなら、どうして抱っこして連れて行ってやらなかったのかという気持ちもあった。
そのどれも、一度人間を経験したからこその感情だ。魔女の頃の「私」は娘がとても可愛かったけれど、出産によって体調を崩すなんて理解することは出来なかっただろう。
まあ、魔女って文字通り木の股から生まれたりするし……そもそも人間の愛や恋や欲望やらというものと無縁の存在なのだ。
私だって魔女だった頃は娘が特別だっただけで、人間の子供ならみんな可愛いと思っていたわけではなかった。
「ぱっぱ」
娘をあやしながら疲れと不安に顔色の悪いパパの頬をぺちぺちと叩く。絵に描いたようなイケメンは笑顔を頑張って作っていた。
「うん、ママが回復するのを一緒に祈ろうな」
「んっ!」
っ、と指を指すと、パパは思わずというようにそちらに視線を向ける。
庭は初夏の薔薇が満開で、今日の昼の散歩ではしゃいでいたら、テレサが庭師に頼んで摘んでもらって飾ってくれた。中心がピンク色で外に向かうほど花弁が白くなっていく可愛らしい品種の薔薇だ。
「薔薇? きれいだね?」
「んーんっ! これっ、まんま!」
「ママ? ……ママに持って行ってやれと言いたいのかい?」
「んっ!」
パパはぽかんとしたようにマーゴを見るけれど、マーゴも驚いて手のひらで口元を隠している。
分かってる。これはゼロ歳児がするには、ちょっとやりすぎな意思表示だ。
でもね、大体パパとラプンツェルの関係は、ちょっとおかしい。
ママが会いに来れなくなったアーデルハイドちゃんが心配なのはわかるけど、こんな時くらい妻であるラプンツェルの傍にいてあげればいいのだ。
だって、ラプンツェルにとってこの宮殿で頼りになるのは結局、パパだけなんだから。
寄り添って手を握って、早く元気になってくれ、愛しているよとでも囁けばいい。
魔女の私としてはちょっと複雑ではあるのだけれど、アーデルハイドちゃんにとっては紛れもない両親だ。
赤ちゃんにとって、両親が仲良くしているにこしたことはない。
ラプンツェルだって平民から王弟妃なんてものになってしまった以上、パパの寵愛が身分を保証する全てと言ってもいいだろう。
王族の権力は絶対だから、パパが滅茶苦茶ラプンツェルを愛しているとアピールすれば、自然と流言だって減っていくはずなのだ。
普通の赤ちゃんとして振る舞うと決めたのに危ない橋を渡っている自覚はある。なにしろ魔女の私の言葉で王子は塔から身投げまでしているのだ。魔女を裁く法律はないけど、今の私はほとんどただの人間の赤ちゃんで、おおむね無害で無力な存在だ。今罪に問われたら裁きから逃れる術はない。
だからあんまりやりすぎてはいけない。分かっている。分かっているんだよ。
「んまー、ままぁ」
「そうか、ママが薔薇を綺麗だと言ったのを、覚えていたんだね」
色んな感情が胸に渦巻いて、グズグズとぐすりだすと、パパは私を抱っこしたままゆらゆらと揺れてあやしてくれる。それだけで気持ちが安定して、安心してしまう。
あー、もう、我ながらちょろいと思うよ。
娘にこそこそと手を付けやがって、クズ、卑怯者ってあんなに憎んでいたのにさ。
パパに抱き着けばラプンツェルとは違うけど、安心しちゃうんだ。タコだらけの手で背中をぽんぽんってされると嬉しくなっちゃうんだ。
私の気持ちはまだ複雑だけど、アーデルハイドちゃんはパパが大好きなんだよ。
「ママのお見舞いに行ってくるよ。アディが会いたがっていたと伝えるからね」
「んっ」
「いい子だ。可愛い賢い私の娘」
頬にちゅっとされて、やわらかい赤ちゃんのほっぺにザラッと伸びてきた髭が触れてすごく痛い。
「やっ!」
思わずぷいっとそっぽを向くと、パパはショックを受けた顔をしていたけれど、しょんぼりと私をマーゴに手渡した。
「また来るよ。お休みアディ」
「んっ」
控えていたカミラがさっと薔薇を紙に束ねてくれたものを持って振り返るパパにばいばい、するとパパはデレデレと表情を崩して育児室を出て行った。
魔素でパパの居場所を追うと、ちょっと小走りになって離宮を出ていくところだった。
きっと急いでラプンツェルに会いに行くのだろう。
ころんとベビーベッドに横たわり、拗ねたように毛布をちゅぱちゅぱとしゃぶる。
あーあ、もう、しょうがないなあ。
ほんとはとっくにそうだった。
クズ男なんて、もう思えない。
腹を立てていたのに、呪いあれ! くらい思っていたのに。
パパは、ちゃんとアーデルハイドちゃんのパパなのだ。
生まれてたった数か月で、大好きなパパになっちゃったのだ。