61.静寂の庭と太陽の子
東屋でのんびりとひとりお茶を楽しんでいると、木立がカサカサと揺れて黒つぐみのじゃれあう声が響いてくる。
国の中枢にある王宮の中とは思えないほどあたりはとても静かで、なんだか安らかな気分だ。
「……少し奥に行きたいわ」
ふと思い立ちそう告げて立ち上がると、世話係たちは慌ててそばに駆け寄った。急に歩き出したりはしないけれど、東屋は階段があるし、それなりに長く風に当たっていたのでそろそろ離宮に戻って欲しそうな様子だ。
「妃殿下、あまりご無理をなさらないでくださいね」
「冷えておられませんか?」
「まあ、大丈夫よ。今日は天気もいいし、気分がとてもいいの」
そう言って笑い、離宮のさらに奥にある門をくぐる。
世話係たちに言ったように今日はとても気分がいいけれど、大きくなったお腹は重たく、慎重に足を進める必要があった。
世話係たちは転んだら一大事とばかりに、左右にぴったりとついてくれている。
離宮の庭のさらに奥にある壁に囲まれた区画は、半ば自然の状態を維持しているため、ハイヒールで歩くのはまるで向いていない。今はかかとのない柔らかい靴を履いているためちょうどよく、レンガ敷きの小道をゆっくりと奥に進んでいく。
「妃殿下、どうか手を取ってください」
「まあ、みんな心配性ね」
そう笑ったものの、本気で心配している様子の世話係に手を取ってもらう。
お腹が大きくなって多少足元のバランスが悪くなっているのは事実だし、何より、お腹の中にいるのは五年ぶりに新しくこの国の王族に加わる赤ちゃんだ。
今から男の子か女の子かと周りはとても騒がしく、先日はこの国の国王である義兄から、必要なものがあれば何でも遠慮なく言うようにと直々に言葉をもらったばかりだった。
現在この国で唯一の幼い王族であるアーデルハイドは世界一かわいい女の子だけれど、やはり王子がほしいというのが周りの思惑らしい。
そっとお腹を撫でて、手のひらから湧き上がってくる愛しさに微笑む。
次も女の子でも良いし、男の子でもきっと可愛いだろう。最愛の夫であるアンリの赤ちゃんだ。アーデルハイドと同じ、世界一可愛い子供に決まっている。
奥に進むと古ぼけた石造りの家があって、見るたびに懐かしさに胸がいっぱいになった。
この家は赤ん坊から十二歳ぐらいまで暮らした家を、アンリが移築してくれたものだ。容姿も服も名前すら、すべてあの頃とは違ってしまった今となっては、子供時代を懐かしむことができるのは、この場所だけである。
家のテラスに上がり椅子に座ると、世話係たちはほっとした様子だった。
「少しだけ一人にしてちょうだい」
「しかし妃殿下」
「少し離れてくれているだけでいいわ。私はここでゆっくりしているから」
目を離して何かあれば、彼女たちだけの責任ではすまないことは、王族として暮らした六年間でよくわかっている。
目の届くところにいても構わないから、ほんの少しだけ離れていてほしい。そう告げると世話係たちは一礼して、足音を立てずにしずしずと離れていった。
離宮の庭も静かだったけれど、ここはひときわ生き物の気配が少なく、静寂を保っている。
けれどそれは決して心細くなるものでも不安をかきたてるものでもなく、その静けさの中に溶けていくような穏やかな気持ちにさせてくれた。
ぼんやりと庭を見つめていると、あの頃、体型が出ない大きなローブを身につけて、フードを目深にかぶったまま畑の世話をしている母の姿を思い出す。
今でも少し目をそらし、庭に視線を戻したら、そこには母が居てくれるような気がしてしまう。
そんなはずもなく、もうこの世界のどこにも母はいないのに、身勝手なそんな感傷に浸りたくて何度もここに足を運んでいる。
――ごめんなさい、おばあさん。
――私になんて、会いたくないわよね。
そっと目を伏せて懐かしい面影を追ってみても、母が自分に笑ってくれる顔を思い出すことは難しかった。
まるで自分にはその資格がなくなったというように。
愛されていることが当たり前になって、甘えて、ひどいことを言って、傷つけた。
どんな顔を向けてもらい、優しく頭を撫でられるのはどんな感触だったのか思い出して、自分に与えられた愛を確認する行いは、あまりにも恥知らずな気がしてしまう。
「ごめんなさい」
静かな空気に溶けるような独りよがりの謝罪をこぼしても、返事はどこからもない。
ただ謝って、謝って、生きているかぎり謝り続けることしかできない。
しばらくうとうとしていると、ふいにカサカサと落ち葉をかき分けて進むせわしない足音が近づいてくる。
まぶたを開けると、ちょうどテラスをアーデルハイドが駆け上がってきたところだった。目が合うと、まるで太陽の光が差し込むようにパッと笑顔を向けてくれる。
「ママ、寝てたの?」
「いいえ、目を閉じていただけよ」
微笑んで手を広げると、アーデルハイドは嬉しげに近づいてくる。姫様! と世話係たちが声を上げるのと同時に、アーデルハイドはぴたりと足を止めた。
「えへへ、そっとね」
「そうね、そっとね」
優しい娘は、まだ幼いのにお腹の中に小さな自分の弟か妹が入っていることがわかるらしい。息を殺して椅子に座る私の足に、そっと抱きついてくる。
「アディ、魔法の授業は終わったの?」
「うん。それでママが帰ってこないから迎えに来ちゃった」
柔らかい金の髪を優しく撫でると、アーデルハイドは目を細め頬を赤くして、くふくふと笑う。
一つの欠けもない幸福を見ているようで、胸に痛みと喜びの両方が広がっていく。
「ママ、どうしたの?」
「なにが?」
「泣きそう? ううん、おなか痛い?」
昔から妙に聡いところのある娘は、青い瞳を心配そうに曇らせて一心にこちらを見つめてきた。
この子のこういうところは、不思議と母によく似ている。
母も、隠していても私の体調や気持ちに関することを見透かすようなところがあった。
「なんでもないわ、アディ」
そう言って笑うと、アディは輝く太陽のように笑ってくれる。
「アディ、ママ、だーいすき」
「ママもアディが大好きよ。おうちに帰ってお茶をしましょうか」
「うん!」
アーデルハイドと手を繋ぎ、世話係に左右を挟んでもらうようにテラスから降りてしばらく進み、肩越しに懐かしい家を振り返る。
――ごめんなさい。
「ママー?」
「なんでもないわ、アディ」
世界一可愛い娘と並んでゆっくりと歩き、気持ちを切り替える。
母親が不安な顔をしていれば、子供はすぐに気づいてしまう。
アンリだってそんな妻を見れば、心を痛めるだろう。
――私は誰よりも幸せになって、夫を、そして子供たちを幸せにしなければならない。
それが母親を犠牲にして夫を、そして今の暮らしを手に入れた、私の生きる意味であり義務だから。
そうでなければ、母があまりにも報われないから。
気持ちを切り替えて、アーデルハイドが今日受けた授業の内容を聞き、先生に褒められたと誇らしげに報告するのに笑って、その頭をなでる。
あの頃の面影を追うことのできる唯一の場所、溶けるほどに静かだった庭に、明るいアーデルハイドの声が響くのも、決して悪い気持ちにはならなかった。




