56.魔女を敵に回したら
「姫様、姫様……」
かすかに私を呼ぶテレサの声に、時々軽く揺さぶる振動が混じる。眠気と呼ぶにはあまりに強い感覚は強烈で、意識を集中しようとすると端から思考をぐちゃぐちゃにかき回されるような、嫌な気分だった。
私は寝起きはかなりいい方だ。赤ん坊の頃はともかく生活リズムが整ってからは朝がつらいと思ったことはないし、地脈とつながり膨大なエネルギーを体に循環させているため肉体の状態異常はほとんどなく、風邪をひいたりすることもない。
そうした事情もあって、今世でこんな感覚に陥ったのは初めてなため、一瞬でこれはおかしいと気づくことができた。
「ん、むー」
指先まで泥が詰まったみたいに重たい手を動かして、自分のおなかに当てる。魔力を操作するのもだいぶ難儀したけれど、幸いじわじわと回復していくにつれ、頭がクリアになっていった。
「……テレサ、頭をこっちに」
私を抱きかかえているテレサも、ひどい顔色だ。いつもきれいに整えている髪は乱れているし、不安と恐怖を押し殺した青ざめた顔をしている。
テレサの頭に触れて、あちこちで滞っている体内の魔素を循環させる。
体の中に残った毒は、あまり大急ぎで解毒しようとすると内臓に負担がかかる。よほど致命的なダメージを負っていない場合は、乱れた流れを正しいものにして、あとは自然に任せた方がいい。
それでも少しはましになったようで、ほっとテレサは息を漏らした。
「ありがとうございます、だいぶ楽になりました」
「テレサ、ケガはしていない?」
私が意識がない間に何かひどい目に遭ったのではないかと確認すると、テレサはしっかりとうなずいた。
「私も先ほど目を覚ましました。気が付いたらここにいて、そばに姫様が横たわっていて、心臓が止まるかと思いましたが……」
「ならよかった」
カフェの個室に乱入してきた男たちに、テレサと共に口に湿った布を当てられて、一瞬で意識を失った。何らかの薬を使ったのだろうし、私たちを攫ったやつらは扉からではなく、出入り口があるとは思わなかった壁の隠し扉を開いてなだれ込んできた。
間違いなく店もグルだし、個室に案内したのも意識を奪ったのも他の客に気取られないようにするためで、かなり慎重で、かつ手馴れていて、組織的な犯行であることがうかがえる。
王都は国の中心、かつ王のお膝元ということもあり、巡回の騎士や兵士も多く、治安はそう悪いものではない。
今日歩いただけで瘴気はあちこちに凝っていたけれど深刻なものではなかったし、来る道すがらだいぶ散らしたから油断したというのは、言い訳にもならないだろう。
でも、私もテレサも無事ならば、いくらでも巻き返しは利く。
「ここ、どこだろ。どこかの建物の中みたいだけど」
内部は薄暗いけれど、レンガ造りのしっかりとした建物だ。大人の男性でも手が届かないところに光取り用の窓があり、そこから差し込む光だけが光源になっている。
元は倉庫かなにかに使われていたんだろう。がらんと広い建物で、足元は床ではなくむき出しの踏み固められた土だ。
立ち上がると、テレサがスカートの土を払ってくれる。少し汚れは残ってしまったけれど、この程度をきれいにするのは簡単なので、後でテレサの分もあらためてもとに戻しておこう。
「テレサ、あたりを探るから、もし誰か来たらすぐに揺り起こして」
「わかりました」
しっかりとうなずくテレサに大丈夫と告げるように手をぎゅっと握ったあと、目を閉じて、集中する。
王宮には太い地脈が走っているし、王都にも網の目のように細かい地脈が流れているので、力には困らない。ほんの少し探るだけで、近くに数人の人間がいるのはわかった。
『いくら何でも女はトウが立ちすぎだし、子供はガキすぎるだろう』
『受付に来たときはもう少し若く見えたんだがなあ。ガキは別にいいだろ。きれいな顔をしてるし、人売りに高く売れる』
『変な色気出しやがって。俺たちは言われた仕事をこなしてりゃいいんだよ』
なんとも不穏な会話だけれど、ここで近くにいるのが拉致の犯人かどうか迷うより、悪人としてわかりやすいのは助かる。
『女もまあ、使えなきゃ俺たちで楽しんだ後に売っちまえばい。オーダー品にするには年が行っているが、ありゃあ中々いい女だったぜ。俺は十五、六のガキより、ああいう方が好みだね』
ぞわ、と背筋が凍るようなべっとりとした口調に、すぐに怒りのほうが沸いてきた。
テレサは伯爵家に生まれてきちんと礼儀作法や教養を学んだ生粋の伯爵令嬢だ。
長く王族に仕えて、王族の女官という貴族の女性としては最高の栄誉を与えられている人でもある。
控えめな性格も相まってテレサ自身はそういうことを全く鼻にかけることはないけれど、本来、下級貴族だってそうおいそれと声を掛けられるような立場じゃない。その所作は美しいし、丁寧にきれいな発音で話す。なんといってもまだ二十二歳、前世の私より若いくらいである。
そんな人に対して、ずいぶん言いたい放題言ってくれるじゃないか。
意識を奪うだけなら簡単だ。でも、ただそれだけでは気が済まなかった。
――恨めしい。
『あ? おい、何か言ったか?』
『いや、俺はなにも……お前か?』
『変なこというなよ。っていうか、女の声だったような』
――恨めしい……帰して。私を帰して。
魔素の便利なところは、目に見えないくらい薄くても操る者にとっては手や目の代わりにその場を探ることができるところで、これは普段私が主に使っているやりかただ。
その他にも振動させて音を作り出したり、濃度を濃くしてゆらゆらと見える影のようにすることもできる。
普段魔力や魔素に関わらずに生きている人間からすれば、理解不能なものだろう。
『おい、なんだよ、ふざけてんのか?』
『馬鹿野郎、こんなふざけ方、どうやって』
――許さない。
――許さない。
――ユルサナァイ!
『ひぃっ!』
がたがたっ、と椅子やテーブルにぶつかる乱雑な音が響く。
魔素を探るやり方ではロビンやモイラのように自分の目の代わりに見るほどの精度で状況を確認することはできないけれど、それでも場の混乱が伝わってくる音だ。
拉致された被害者が何人いるかはわからないので、とりあえず五人分の影になるよう魔素を操って部屋のあちこちに出現させる。ついでに見た目以上に恐怖を感じるように少し精神にも干渉しておいた。
こういう魔素や魔力の使い方は魔女の頃は思いつきもしなかったし、アーデルハイドとして生きている中でも必要のないものだ。
こういう風に使うこともできるというのは、ほとんどが前世の日本人だった頃に触れたコンテンツからの発想なので、前世で平凡に生きた甲斐も――あった、のか?
『うっ』
『おい、どうし――ぐうっ』
『なんだ、体が……』
どさどさっ、と倒れる音が続き、やがてあたりは静かになった。少し遅れて、かさかさっ、と建物の敷地の外から小さな動物や虫たちが逃げ出す気配が続く。
魔女や魔法使いほどわかりやすくなくても、人間にも魔素が流れる回路みたいなものがある。そこをちょっと無理目に振動させれば、回復を早くすることもできれば一瞬で意識を奪うことも可能だ。
命にかかわることもなく、しばらくすれば勝手に目を覚ます。むしろ誘拐なんてしておいて、受ける報復としては軽微なくらいだろう。
建物の周囲はそれなりに大きな空き地になっていて、たぶんもともとこの場所は一時的に何かを保存しておくための倉庫で、荷馬車などが出入りしていたんだろうと思える建物だった。建物の裏には水路が走っていて、ここでも荷物の上げ下ろしをしていたのだと思う。
今は空き倉庫のようになっているけれど、頑丈そうな建物だし、攫ってきた対象が悲鳴をあげても周りには聞こえそうもない。
「……水路」
「姫様?」
ぽつりとつぶやくと、私をしっかりと抱きかかえていてくれたテレサに声をかけられる。
顔を上げると、不安げにこちらを見下ろしている。それに大丈夫だとうなずいた。
手をかざして破片は外に飛び散るように天窓を割ると、あまり待つこともなく二羽の鳥がそこから中に入ってくる。モイラが私の腕に飛びついてきて、ロビンはテレサの肩にゆっくりと止まった。
「テレサ、今からお願いすることを、してほしいの。テレサの身の安全は、絶対に守るから」
行方不明の娘のうち、ポニーという子の身に着けていたものは、水路で見つかった。
まとめて布袋に入れて流したものの結び口が外れて、たまたま水路の格子に引っかかったのだろうとパパは言っていた。
それがどういう意味なのか、なんだか分かった気がする。
過去を見る魔法がないわけでもないけれど、魔力の消費量が大きすぎて、今の私では使うのは難しいし、今回は私だけに分かる事実があっても仕方がない。
必要なのは誰の目から見てもそうとわかる、客観的な事実だ。
「モイラ、テレサのとこにいて。壁を崩すから、まずはここから出よう」
モイラが素直にテレサに飛び移るのを確認して、てくてくと歩いてレンガの壁に手を押し付ける。
経年であちこち黒ずんで、硬くて、冷たいレンガだ。大の男の人が槌か何かで殴りつけても、そう簡単に壊れたりはしないだろう。
でも、この世界はどんな物質も大小の違いはあっても魔力を含んでいる。その魔力の流れを熱したナイフをバターに差し込むように断ち切るなんて、魔女にはとても簡単なことだ。
――セルジュ、元気かなあ。
昔、私の育児室の壁をどんがらがっしゃんと物理でぶちこわした魔法使いを思い出す。もしもこの場にいるのがセルジュなら、とっくにこんな建物は灰燼に帰しているだろうし、誘拐の実行犯だって命はないだろう。
セルジュは敵に回したら怖い魔法使いだ。マルグリットもたぶん、敵には全く容赦はしないだろう。
私はちょっとだけ魔女だけれど、パパとラプンツェルに大事に育てられたので、あの二人に比べればもう少し穏健派だ。
でも、敵に必要以上の慈悲を掛けるつもりもない。
テレサが屈まなくても通れるくらいの大きさで、斜めに切れ込みの入った壁を魔力を込めて押すと、ゆっくりと傾いて、ズウン、と重い音を立てて向こう側に倒れた。
壁の向こうはやはりレンガ造りの通路になっていて、こちらは窓が多く、外からの光が差し込んでいる。
「行こう、テレサ」
「はい、姫様」
倒れた壁を乗り越えて、通路に出ると、走り出す。
怒りが背中を押すままに走る私だけれど、五歳児の全力疾走に意外と体力勝負の女官であるテレサも静かについてきてくれた。




