54.姫のお忍びと王都の街並み
私がマルグリットの王妃宮に気まぐれに足を運ぶのは昔からよくあることだったので、専任の女官であるテレサとともに王妃宮に行くというのを疑う人はいなかった。
そして、王妃宮は主が引きこもりで近くに侍る使用人は最低限にしているので、建物の規模の割に人気がない。パパとラプンツェルと私が暮らしている離宮も住人の身分の割に使用人は少ないほうだけれど、王妃宮の使用人の仕事は掃除以外はマルグリットの部屋にデザートを運ぶことと言われているくらいなので、本当にガラガラだ。
そんなわけで、一度王妃宮に入り、マルグリットに口裏を合わせてもらってテレサの用意した服に着替えてこっそり裏口から出ても、誰にも見咎められることはなかった。
人がいたらいたで、魔素を操って気配を綺麗に消すこともできるけどね。警戒の必要が少ないのは気が楽だ。
いつもはテレサや世話係が用意したふわふわひらひらのドレスが多いけれど、テレサが用意してくれたのは少し裕福な平民が着るような、動きやすくてベルトでサイズの調整の利くワンピースに厚めの上着、その上からフード付きのケープという組み合わせである。
「お似合いですと言うと問題があるかもしれませんが、姫様は本当に何を着てもお似合いになりますね」
「えへへ、そう?」
はい、と微笑みながら頷き、テレサは私の髪を丁寧に結ってくれる。
髪を細かく結い上げて、フードですっぽりと隠すと元の色はすっかりわからなくなった。
こちらの世界ではキラキラ光る金髪というのは結構珍しくて、ほとんどが王族か高位貴族に出る色なので、隠したほうがいいということになった。
しみじみ、平民とは思えない美貌と金髪の持ち主だった魔女の家の隣に住んでたおかみさんは、何者だったんだろう。
没落貴族の落胤とか何かしら訳ありだった可能性がだいぶありそうな気もする。
思えばあの夫婦、血のつながりとしては今は私の祖父母なんだよなあ。
ロビンと契約をし、体調が落ち着いてから改めて元暮らしていた家を見に行ってもらったことはあったけれど、魔女の家は移築されて今は更地のままだったし、隣にあった夫婦の家も取り壊されて新しい住人が暮らしていた。
あの夫婦には特に情もなければ思い入れもないけれど、ラプンツェルの実の親だし、どこかで元気でやっていればいいとは思う。
「それでは、参りましょうか、姫様」
「うん!」
王宮から出る方法はいろいろとあるけれど、テレサのように伯爵令嬢という身分があれば、かなり簡単らしい。
宮殿には中長期に滞在している貴族も多く、全ての家門の馬や馬車を管理するスペースを省略するために、貴族専用の貸出可能な軽馬車がある。
テレサがローベルト伯爵家の家人と名乗り、身分を現す紋章入りの金のバッジを見せて外出申請を行い、同時に馬車も借り受ける仕組みらしい。
その馬車に乗り込んでしまいさえすれば、身分の証明はすでに済んでいるので中を検められることもなく外に出ることができた。
念のために魔素を操って隠密効果のある魔法を練っていたけれど、本当に門で声を掛けられることすらなかった。警備が結構ザルではないかと心配したけれど、テレサ曰く、ふたりが並んで乗ればいっぱいの軽馬車は危険物の持ち込みの心配も少ないので、もともとこんなものらしい。
そうして王宮の門を抜けて五分ほど走るともう王都の中心街に入った。ロビンやモイラの目を通して知っている景色ではあるけれど、こうしてみると普段の視線の高さに妙に驚いてしまう。
空を飛ぶ鳥と五歳児の視点なのだから、色々と違うのは当たり前だ。それに人の気配や食べ物の匂い、複雑にまじりあった魔素の流れなんかも、お城とは全然違っていた。
「三時間ほどで戻ります」
テレサは御者にそう告げて、数枚の銅貨を手渡した。これは馬車の料金ではなく、御者への心づけということらしい。
用意してくれた服もそうだけれど、私に自由になるお金がないので馬車の借り賃とかこうした心づけも、全部テレサが自腹で払ってくれているものだ。
雇い主だというのに雇われ人にタカっていていいのだろうか。いや明らかによくない。
「テレサ、いつかお金、まとめて……ううん、三倍にして返すからね」
我ながら詐欺師みたいな言いぐさだと思いつつそう告げると、テレサはあら、とかすかに笑った。
「いいんですよ。姫さ……アディのために何かできるのが、私の幸せなんです」
人込みで姫様と呼ばれるわけにもいかないので、あらかじめテレサお姉ちゃん、アディと呼び合うと決めていたので、それに合わせて「うん!」と元気よく返事をする。
「それより手を離さないでね、アディ」
「はーい」
お互い手袋をはめた手をぎゅっとつなぐ。
テレサとは私が生まれた直後からの付き合いだし、これまでもうんと近い場所にいた人だけれど、そうやって名前を呼び合って手をつなぐと、今までとは違うとても親密な気持ちになった。
「どこか行きたいところはありますか?」
「とりあえず、そこら辺を歩いて回りたい」
「では、参りましょう」
私の体が小さいということもあるけれど、今世で初めての人込みは、中々歩きにくかった。
人が多いとはいえ、人口密度で言えば前世の休日の都心のほうがずっと高いだろう。通勤の満員電車に比べれば全然マシではあるのだけれど、どうもこっちの人はあまり周囲を見て歩くことをしないらしく、しょっちゅう人にぶつかりそうになって結構怖い。
初めて生身で感じる、国の中心地である王都の熱気は大変なものだった。
大声を出して店の呼び込みをしている人がいる。大丈夫なのかと思うほどうずたかく商品を積んだ荷車が走っているかと思ったら、ちょっと身なりのいい紳士風の人が足早に通り過ぎて行ったりもする。
野良犬が日陰に寝そべっているし、路地裏の暗がりをちょろりとネズミの尻尾が翻るのが見えたりもする。
いろんなものが雑多でごちゃまぜ。それが王都の印象だ。
でも、案外こういう雰囲気嫌いじゃない。
今の私からすればかなりの非日常だし、こんなに無遠慮な距離に不特定多数の人間がいるのも、ずいぶん久しぶりの感覚だった。
何を見ても物珍しく、あまりきょろきょろしないように意識していると、ふわん、と甘いいい匂いが漂ってきて、そちらに視線を向ける。
通りには色んな屋台が並んでいて、カットされたリンゴが串に刺されたものに視線が向かう。どうやら焼きリンゴらしく、すこししんなりとしつつ黄金色に色づいているのがなんともおいしそうだ。
「アディ、気になりますか?」
「ん、うーん」
気にはなるけど、自分のお金があるわけではないし、テレサが負担してくれるとわかっている前提でねだるのも気が引ける。
それにお忍びの王族だし、屋台のものを食べたいといったらテレサを困らせてしまうかもしれない。
色々と考えて歯切れが悪くなると、テレサはにこりと笑って屋台に向かい、焼きリンゴをひとつ頼んでくれた。
「これなら手をつないだままでも食べられますから」
「ありがとう! テレサお姉ちゃん!」
どうぞ、と手渡されたリンゴは、蒸したものをカットしたあと、砂糖を掛けて焦げ目がつくまで焼いたものにシナモンを掛けてあるらしい。人込みを避けて建物の壁際に寄り、口に入れるとアップルパイのフィリングのような味にしゃくっとした感触が残っていて、おいしかった。
「おいしい!」
「よかったです」
一つが小さいから私でも食べきれそうだ。もぐもぐと咀嚼していると、ぱたたっ、と羽音がして、肩が少し重たくなった。
「ロビン」
黒ツグミというには二回りほど大きくシャープなシルエットの使い魔は、美味そうなものを食べているなとじっと手元を見てくる。
「だめ、これは砂糖とかスパイスかかってるから、ロビンには体に悪いよ」
使い魔の契約によってロビンの体はだいぶ強化されているとはいえ、元はか弱い小鳥だ。ナッツや果物、たまにパンのかけらをあげることはあるけれど、人間用のお菓子を与えるのはさすがに抵抗がある。
主人の心使い魔知らずで、不満がビンビンと伝わってくるけれど、これについては譲るつもりはない。ぱくぱくと急いで焼きリンゴを口に入れて、証拠隠滅してしまう。
「ピィ!」
「ロビン、戻ったら何か用意しますから、アディを困らせてはいけませんよ」
テレサが優しく言うと、ロビンは鳴き止み、しばらくして希望を伝えてくる。
「ひまわりの種とくるみ入りのライブレットがいいって」
ライブレットは、いわゆる黒パンで、私の食卓にはほぼ上がることのないものだ。どこでそんなものの味を占めてきたのだろう、この使い魔は。
「では、用意しますね」
「ピッ!」
ころりと機嫌がよくなったロビンは、飛び立つでもなく私の肩に止まったままだ。
どうやらこのままついてくるつもりらしい。まあ私についていればそこらを偵察する仕事がサボれるもんねと思っていると、ケープごしに頭を突かれてしまった。
人が多く、賑やかではあるけれど特筆するほどの異変は感じない。しばらくテレサと大通りをゆっくりと歩いていると、不意にガラガラと荷物が崩れる派手な音が響き、足を止める。
「おい、もう一回言ってみろ!」
「おう、耳も目も節穴のテメェのために何度でも言ってやらぁ! ここの扱ってる野菜は育ちも形も悪い上に、味も最悪だってな!」
「この野郎!」
視線を向けようとすると、さっとテレサに上着で視界を遮られてしまう。
子供に荒っぽいものを見せないようにという優しい気持ちからだろう。私が普通の子供でないと知っていても、テレサには今でも、小さなころから世話をしている子供のままだ。
「だいじょうぶ、テレサ」
「ですが……」
荒くれた現場から私を庇うようにしているテレサを無理に退ける必要もない。視界を使わなくても、魔素を操れば手に触れるようにその場で起きていることはわかる。
うーん、この辺り、ちょっと、瘴気が強いな。
人が多い場所はどうしても、人間の強い感情が魔素と混じりあったものが凝りやすくなる。悲しいかな、人間にとっての強い感情は喜びや幸福、満足感よりも不満や怒り、悲しみが優位になりがちだ。
そうしたマイナスの感情と魔素が交じり合ったものは、瘴気と呼ばれている。瘴気は呪いというほどの力はない、いわば「ちょっと嫌な気分になる空気」程度のものだけれど、その瘴気がこの辺りは、少し濃すぎる気がする。
ちょちょい、と純粋な魔素をぶつけて瘴気を散らすと、つかみ合って今にも殴り合いに発展しそうになっていた二人が、はた、と正気になったような顔をして、掴み合っていたお互いの襟首をほとんど同時に離した。
「……今回は、勘弁してやらあ」
「こっちのセリフだっての。ったくよぉ」
ふたりの大柄な男性は、きまり悪そうにぶつぶつと言い合い、見物するように囲んでいた人たちも毒気を抜かれたように散り始める。
「んー」
意識を凝らすと、それほど濃くはないものの、あちこちに瘴気の塊があった。
瘴気は人が多く暮らしているところには普通に漂っているものだし、人里に関係なく森の中にも時々やけに瘴気が濃い場所があったりもするから、王都に漂っていても特に不自然ではない。
ただ、少し数が多く、濃度も濃いのが気になる。
活気があるように見えるけれど、今回の人狼騒ぎは確実に、王都の中に不安や恐怖を広げていっているのだろう。
これも、ロビンやモイラの視界を通しているだけでは気づけなかったものだ。
「テレサお姉ちゃん、もう少し、その辺を歩こう」
「ええ、わかったわアディ」
テレサと手をつないで再び歩きながら、魔素を広げて人狼の気配を探しそこらじゅうを探り、かつ濃すぎる瘴気を散らしていく。
事件を追うだけでもパパは大変なのだ、おまけに治安まで悪くなったら、ますます離宮に帰ってこれなくなるだろう。
親子三人の幸せな毎日のために、できることはせっせとやっていこうと張り切りながら、私とテレサは王都をてくてくと歩くのだった。




