53.王都に落ちる影
「んっ?」
「姫様? どうなさいました?」
「ううん。なんか急に、首の後ろが痒くなったみたい」
チリッと痒いような痺れたような感覚に集中が途切れ、声が出てしまったのを傍にいたテレサは聞き逃さなかった。何でもないよと笑おうとしたのに、そうする前に生真面目な女官はすっと立ち上がって背後に回り込んでいる。
「姫様、少し失礼します」
こうなると確認するまでテレサも落ち着かないだろうとじっとしていると、長く伸ばした金の髪をかき上げられる。とっくに急に走った感覚は消えていて、気のせいだったかと思うくらいだ。
「虫に刺された様子はありませんし、かぶれなどもありませんね」
「うん、もうなんともない。静電気かなあ」
ぽりぽりと掻いてみたものの、特に何の感覚もないのですぐに元の作業――城下の見回りをしてくれているロビンとモイラに意識を接続しなおすことにする。
王城を中心として円形に広がる王都は広大で、様々な地区に様々な人たちが暮らしている。
ロビンには東西側を、モイラには南北側を飛んでもらい、それぞれの景色を俯瞰するけれど、一見すると普段とそう大きく変わっているという感じはしなかった。
たくさんの人が暮らし、その暮らしを支えるために物流は盛んで、人の行き来も多い。いつもと変わらない王都の姿だ。
でもなんとなく、女性だけの姿が少ない気がする。
なんとなく、道行く人々の表情に不安と恐れのようなものが浮いている気がする。
そして代わりに、警邏している兵士や騎士の数が、いつもより多いようだ。
普段ならば頼もしいと思われるだろうその姿も、今はなんだかピリピリとした緊張感をまとっていて、住民の不安を煽る要素になってしまっているようだった。
モイラが商店の看板に降り立ち羽を休めていると、ぼそぼそと扉の前に積まれた木箱をベンチ代わりにしている労働者たちの声が聞こえてくる。
「なあ、あの噂、聞いたか?」
「小間物屋の娘っ子がさらわれたって話だろう? 近くの路地にでっかい血だまりが残ってたって話じゃねえか。最近どこに行ってもその話だよ」
「いや、それはガセで、赤いケープだけ置き去りになってたってことらしいぞ」
「そういや西側の商家の娘も燃えるような赤毛だったって話を聞いたな。人狼は赤いものが好きなのかねえ……」
中年の男たちは、くわばらくわばらと悪いものを遠ざけるように繰り返すものの、その口調はどこか他人事みたいだ。
騎士団で聞いた話では、被害者はほとんどが十代前半から後半くらいの若い女性で、かつ王宮に勤めているとか商家のお嬢さんといった、それなりに裕福か安定した暮らしをしている子ばかりらしい。それもあって、人によってはあまり自分に関係のある事件とは思えないのだろう。
ロビンのほうに意識を向けると、開いた窓の雨よけに止まっているところだった。
中からは、かすれた泣き声が聞こえてくる。
「あなた、ポニーはどうして見つからないの? 警備隊は、何をしているのですか」
「皆懸命に探してくれているよ。そんな風に言うものではないよ」
「でも、あの子がいなくなってもう二週間も過ぎたのですよ! あの子ひとりで、どこに隠れるというのです!」
どうやら、被害者の一人の自宅をロビンが見つけたらしい。さすが塩対応でも、仕事のできる使い魔だ。
「警備隊の話では、もしかしたら王都の外に連れ去られてしまったのではないかと……その可能性も含めて、探してくれているということだから」
いやっ、と悲鳴のあと、すすり泣く声が続く。
「どうしてあの子がそんな目に、どうして……ポニー」
聞いているだけで、胸が締め付けられるみたいな気持ちになってくる。
大切な子供を奪われた母親の気持ちというのは、どんな生き物だって変わらないと思うから、なおさら。
ポニーという子のほかにも、被害者たちにはみんな身を案じる家族がいて、友達がいて、いなくなった彼女たちを心配しているはずだ。それを思うと、私もどんよりとした気分になってしまう。
ロビンが何かを見つけたように首を巡らせて、視線が移動する。黒ツグミはもともと目がいいけれど、今は私との契約で五感がかなり強化されているので、遠くにあるものでもよく見える。
王都の灰色の石畳の向こうから、騎士服を着た三人の男性がこちらに向かって進んでくるところだった。
――あ、パパだ!
パパは騎士服に身を包み、凛々しい表情で白い馬を走らせている。その両脇には同じく騎乗した騎士が控えていた。
こんな時に何だけれど、仕事中のパパは本当にかっこいい。目つきが真剣だし、きりりとしている。パパと伯父さんは顔立ちが似ているけれど伯父さんのほうが男らしい雰囲気があると思っていたけれど、こうしてラプンツェルや私から離れているところで見たほうが、実際に並べてみる時よりよく似ている気がした。
ラプンツェルと私の前では、結構デレデレしているんだなあ。いつものパパからたっぷりの愛情とデレを引くと、伯父さんっぽくなるらしい。
パパはロビンが止まっている軒の下で馬を止めると、軽やかに馬から飛び降りた。しばらく待つと室内に知らせの声が届き、泣き声が止まって、戸惑うようなやり取りが伝わってくる。
ポニーが見つかったのかとか、そうでないなら会いたくないとか、そんな彼女を宥める声がしばらく続いたけれど、最終的には二人で部屋を出ていったらしく、静かになった。
ひょいと窓から中を覗き込む。
どうやらここは、夫婦の私室兼寝室らしい。二人とも出て行ってしまってドアが閉まっているので、ロビンは飛び立って建物の周りをぐるぐると回り、やがて別の窓を見つけてその窓べりに置かれた鉢植えの影に止まる。
季節は初夏を迎えたばかりだけれど、今日は天気がよくて少し蒸し暑いので、開いている窓が多いのは助かった。
「こちらは、お嬢さんのもので間違いないでしょうか」
パパの、いつもより低い声が聞こえる。ちらりと首を巡らせて中を覗くと、テーブルの上にはきれいに装飾された靴が並んで置かれていた。
靴自体は丁寧に作られたもののように見える。ロビンの目を通してみると人間の目で見るのとでは色が違って見えるけれど、それを差し引いても全体的にまだらにくすんでいて細かい傷が多く、長く使っていたものか、乱暴に扱われていたような印象だ。
靴に使われている紐は、左右で固結びにされていた。
「ポニーの誕生日に贈ったものです。職人に作らせた一点ものだったので、間違いありません」
「これは、どこで……」
「王都の水路の、下水に流れ込む柵に引っかかっていたのを巡回の兵士が発見しました。おそらく袋に入れてまとめて捨てられ、封が解けて中から出てしまったものではないかと思います。結び目が柵に引っかからなければ、流されていたでしょう」
「そんな……」
「ガレットさん、ポニー嬢がいなくなった日のことを、もう一度話してください。どんな些細なことでも構いません。後から気づいたことや、当日でなくても最近気になっていたことなどは――」
「いやっ、聞きたくありません!」
「ドロテア!」
「あなたも、あなたたちも、もうポニーがこの世にいないと思っているんでしょう!? あの子は生きているわ! どうしてここにいるの、あの子を探して、探してよ!」
「落ち着きなさい、ドロテア!」
何かが割れる音、悲鳴、泣き叫ぶ声……。それがしばらく続き、少し静かになった後、消沈した男性の声が響く。
「申し訳ありません、あの日のことは何度も妻と話し合いましたが、心当たりになるようなことはないのです。いつものように近くの店に買い物を頼んで、あの子はお気に入りの靴とケープを羽織り、出かけていきました。それが、最後でした」
「ガレットさん……」
「本当に、なぜ、こんなことに……」
これ以上は到底、家族の話を聞ける雰囲気ではなかった。パパもそう判断したんだろう、引き続き捜索を続けるので、どうか気を落とさないようにと繰り返し、建物を出た。
ロビンの目で馬で去っていくその背中を見送って、目を閉じる。
――ありがとうロビン、もういいよ。
そう伝えて意識をそらし、王宮の私室で、目を開く。
何とも言えない後味の悪さが胸の中に渦巻いていた。
パパはパパの仕事をしていて、それは王都の治安維持のためではあるけれど、私はパパが優しく子煩悩で、家族を大事にする人だって知っている。
きっと盗み聞きしている私より、目の前の状況にもっとつらい気持ちになっている。
「姫様、お戻りなら、お茶をお入れしましょうか?」
「ううん、だいじょうぶ」
心配げに声をかけてくれたテレサに首を振って、クッションを抱きしめて、ふうー、とため息をついた。
「あのね、テレサ。本当かどうかわからないんだけど、城下に人狼が出たみたい」
「まあ……」
「カミラやエリナと同じくらいの年の子たちが、何人もいなくなって、帰ってこないんだって」
今だって大問題だけれど、もしも人狼ならば、この先も定期的に行方不明になる人間は出るのだろう。
人狼は用心深く、気配を殺すのも人に紛れるのも上手い。もしかしたらモイラが見下ろしていた噂話をしていた労働者の中の一人がそうだったとしても、不思議ではないのだ。
人狼はその発生の過程からいくつかのルーツを持つけれど、共通して魔力や魔素の量が常人より多く、異質だ。
魔女が魔女を見ればそうとわかるように、人狼も見ればわかる。私が魔素を操れる範囲内にいても、わかるだろう。
「……ねえ、テレサ。私が城下に降りてみたいって言ったら、協力してくれる?」
「もちろんです。姫様の望みならば、なんなりと。ですが、今の状況では姫様が城下に降りることは、殿下と妃殿下がお許しにならないと思います」
「うん」
「ですので、策を弄する必要がありますが」
その言葉に、しっかりと頷く。
この頼みは一歩間違えば、テレサの進退にも関わる責任問題に発展する可能性もあるのに、テレサは迷うことなく承諾してくれる。
私が普通の子供ではないと知ってからこの二年、テレサは基本的に私の頼みなら何でも聞いてくれるようになった。
私が悪意のある何かではなく、あくまでこの国の王女で、パパとラプンツェルを大事にしている子供が基本だって、わかってくれているのだろう。
「授業のない日に、伯母さんのところに行くって口実でここを出て、こっそり外に出るのはどう?」
人狼が人間を食べるのは、人間側からすればとんでもないことではあるけれど、人狼側からすればキツネがウサギを狩るような、鹿が若芽を食むような、ごく当たり前の営みをしているにすぎない。
魔女だった頃の私は当たり前にそう思っていたし、マルグリットも人狼に興味を示すとは思いにくい。
なにより、私もこれ以上マルグリットに借りを作るのは避けたい。何しろ今でも債務が折り重なっている状態なのだ。特に返済を急かされたりはしていないものの、ここぞというときに身動きできない可能性は、できるだけ下げておいた方がいいだろう。
幸い、マルグリットもアリバイ作りくらいでとやかく言うような性格でもないので、それくらいの口裏なら合わせてくれるはずだ。
「では、授業のない日に合わせて市井に出ても目立たない服をご用意いたします」
「うん、おねがい」
テレサにも危ない橋を渡らせてしまうことになるけれど、いざというときは絶対に私が守る。
――魔女だった頃なら、近くに人狼が出て若い娘が軒並み食べられてしまったって聞いても、きっと何も感じなかっただろう。
ラプンツェルが狙われているなら話は別だけれど、そこには善も悪もない。高い場所から水を入れたコップをさかさまにしたら、水は下に向かって落ちていくことに善悪は関係ないように。
だから、被害者が哀れだとか家族が可哀想だとか、そんな理由で関わろうとするのは、人間としての私のエゴだ。
前世の一般人の頃は、こんな問題に関わることもなかったし、何の力もなくて、関わりようもなかったから、気づく機会もなかったけれど。
今でもちょっと魔女なんて思っていながら、私の根っこはすっかり人間のものになっていたようだった。




