52.王弟妃と交霊会
宮殿は王族の住まいであるとともに、多くの行政機関が集う政治の中心であり、かつ、社交の重要な場でもある。
宮殿内には貴族がある程度の期間生活できる居住区もあるし、高位貴族の夫人によるサロンもあちこちで開かれている。
ほとんどはお茶会の形をした内輪の集まりであるものの、参加者が公爵家や侯爵家、裕福で影響力の強い伯爵家となると、半公的な社交の場として機能するようになる。
こうしたことは、ラプンツェルも王弟妃になってから学んだことだ。
最初は貴族の社交など右も左もわからず戸惑うばかりで、恥をかくことも多かったけれど、最近は静かに微笑んでうなずいていれば大抵の場面はやりすごせると学ぶことができた。
それは物の分からぬ王弟妃という評価になり、侮られるばかりであるけれど、代わりに大きな失敗をすることもない。
こうした振る舞いは王族の妃ならば率先して流行を作り、社交界に影響力を示さなければならないのだと教育係には難色を示されたものの、できないことを無理にやってアンリの恥になるくらいならば、多少足りない女だと軽んじられているほうがマシだ。
「王弟妃殿下、この度はご懐妊おめでとうございます。臣下一同、心から喜んでおります」
「ありがとうございます、ベシャメル侯爵夫人」
「今回のお茶は、おなかに子供がいても影響のない薬草茶を用意いたしましたわ。私も公子がお腹にいたとき、よく飲んでいましたのよ」
「心遣い、感謝いたしますわ。エディンバラ公爵夫人」
目を細め、微笑んで、相手の名を呼び感謝の言葉を添えてその場をやりすごす。それが王宮で学んだやり方だ。
たとえ相手が自分の名を呼ぶことがなくとも、彼らは友人ではないのだから、傷つく必要もない。
それでもアンリと結ばれ、アーデルハイドが生まれて三人で暮らすことも許された。
アーデルハイドが生まれたばかりの頃は、毎日が辛かった。
生まれたばかりでふにゃふにゃとしたわが子を抱きしめていられたのはほんの短い時間のことで、すぐに別室で休ませると言われ、それきり何か月も会えない日々が続いた。
あの頃はアンリとも滅多に会うことができず、毎日気が狂いそうだった。
生まれた娘は無事なのか、ちゃんと育っているのか、健康なのか、寒い思いをしていないか……あらゆる悪い可能性を考えて、この手で守れない己の不甲斐なさを嘆き、中々体力が戻らず寝付くことが多くて、そのせいかろくに眠ることもできず、悪い想像は折り重なるばかり。
ようやく少し回復して自分の足で会いにいった娘は、本当に可愛かった。
こぼれそうなほど大きく目を開き、こちらをじっと見つめてくる。手を伸ばして言葉にならない声でこちらに手を伸ばし、抱きしめると安心したように微笑んでくれた。
アンリと一緒にいるためなら、どんなに軽んじられても構わないと思ったけれど、この子を守れるならば、一層、どんな扱いにも耐えられる。そう思った。
毎日アーデルハイドの笑顔をみることができて、ほとんど日を跨がずにアンリとも会える今は、なんと満ち足りた日々だろう。
辛いことなどなにもない。
「そうそう、王弟妃殿下。本日はすこし変わった趣向を用意しているのですけれど、よろしければ王弟妃殿下も参加なされませんか?」
今日のサロンの主催者であるメディロ侯爵夫人が、扇で口元を隠して笑いながらそう告げる。
この人のことは、正直苦手だ。侯爵家の中でもかなり強い権勢を誇っていて、ラプンツェルは噂でしか知らないけれど、一時はその親族の令嬢がアンリの婚約者候補の一人だったらしい。
そのせいか、普段から当たりの強い女性だ。直接的に攻撃してくるわけではないけれど、遠回しにこんなこともわからないのかとか、出自が卑しいから仕方がないというような意味の言葉であてこすられる場面も多い。
「交霊会ですか……」
最近宮廷で流行っているという話は聞いていたけれど、妊娠がわかってからは離宮から離れない日々が続いていたので、誘われたのは初めてだった。
「確か、霊媒師を通して魂を呼びよせ、預言者や偉人、亡くなった家族や友人と話すことができる、というものでしたか?」
「はい。望む相手と会えるか、その相手が過去の記憶を明瞭に持っているかどうかは、呼び出す霊媒師の力 に左右されるのだそうですよ」
そう言うと、メディロ侯爵夫人はハンカチを目元に当てて、涙を拭う仕草をする。
「わたくし、知人からよい霊媒師を紹介してもらったのです。最初は半信半疑でしたが、死者はどれだけ問いかけても答えをくれないという空しさに疲れていた頃でしたので、早くに亡くした姪と言葉を交わすことができて、とても心を慰められたので、お抱えに迎えましたの。ですので、王弟妃殿下もぜひと思いまして」
「亡くなった家族と……」
ラプンツェルには、公式には家族はいないことになっている。
育った環境は決して大きな声で言えるものではなかったし、公に知られたとすればますます嘲笑の的になるだけだろう。
自分だけならばそれでも我慢するけれど、それがアーデルハイドに及ぶかもしれないと思えば、口をつぐむ以外の選択肢はなかった。
だから、王弟妃ラプンツェルは、幼いころに森に捨てられて生き延びた子供だったということになっている。
両親はおらず、顔も知らないと。
扇で隠していても、笑っている目元に意地の悪いものが浮いていると思ってしまうのは、自分の心が見せる幻なのだろうか。
くすくすと低く響く笑い声は、本当に自分に向けられたものではないのか?
「私は、会いたい相手がおりませんので他の皆様にお譲りいたしますわ」
微笑んでそう告げながら、胸に鋭い棘が刺さるように、痛みが走る。
本当は、会えるものなら、母に会いたい。
もう一度会って、声が枯れるまでごめんなさいとありがとうを言いたい。
たくさん愛してくれたのに、大事に育ててくれたのに、大好きだったのに。
お互い興奮状態で、言わなくていいことを言い合って、傷つけあって、自分の知らないところで死んでしまったという、母に。
「あら! いいではありませんの、王弟妃殿下!」
「そうですわ。もしかしたら王弟妃殿下ご本人も気づいていない、心の底で会いたいと思っている方が出てきてくださるかもしれませんわよ!」
「さあ、どうぞお座りになってくださいな!」
貴婦人たちは口々にそういうと、強引に丸いテーブルの椅子のひとつに座らせられる。
「あの、私は……」
「さあ、とびきり高貴なお方の大切な人を、ここに呼び出してちょうだい」
メディロ侯爵夫人が高らかに告げると、使用人たちが一斉にカーテンを閉じ、ランプの灯も消されて室内が暗くなった。
少しして、テーブルに燭台が置かれ、テーブルの中心がぼんやりと明るくなると、向かいに黒いローブをあたまからすっぽりとかぶった者がいつの間にか座っている。
ゆったりとしたローブで体形が隠れていて、男か女かもわからない。これが件の霊媒師なのだろう。その前には一抱えほどの大きさの丸い水晶玉が置かれ、僅かな光を弾いて怪しく輝いていた。
「待ってください、メディロ侯爵夫人、私は――」
言葉の途中で、キィン、と重たい金属を叩いたような音が響く。自分以外の参加者はすでに慣れているようで、誰も微動だにしなかった。
「あなた様の、会いたいと願う方の魂を、ここに呼び出します。皆様は目を閉じて、心を穏やかに保ち、魂よ来たれと唱えてください」
「魂よ来たれ」
「魂よ来たれ」
「魂よ来たれ」
「魂よ――」
テーブルを囲んだ貴婦人たちの声が唱和され、異様な雰囲気に、彼女たちの態度をやり過ごすことになれていても、さすがに怖くなってくる。
霊媒師はぶつぶつと聞き取れない呪文を唱えると、ぱちん、ぱちんとそこら中から何かが弾けるような音が響いた。
「魂が……抵抗しています……ですが、近くまできています。皆様、もっと強い祈りを……」
魂よ来たれ。その声がどんどん大きくなっていって、いつしか全員の声がひとつの音の塊になって、あたりにわんわんと響いている錯覚を覚える。
本当に錯覚なのだろうか。もしかしたらここに母が、来ているのではないか。
最初は軽く手をたたくような音だった破裂音が、バチッ、バチッと乱れて響く金属同士がぶつかり合うような音に変わり、どんどん大きくなっていった。
やがてパァン! と何かが破裂するような音が響き、部屋全体が揺れると誰かの悲鳴が重なる。
「きゃあ!」
「いやっ、何!?」
「む、虫、虫が!」
「蛇よ! わたくしの足に絡みついて……いやぁ!」
悲鳴と怒声でパニックになった音が、暗闇に響き渡る。その中にどさり、と何か重たいものが倒れる音がして、息を呑んだ。
「カーテンを開けなさい、はやく!」
ずいぶん久しぶりに大きな声を出した。使用人たちが慌ててカーテンを引き、外の光が窓からさっと差し込んでくる。
「きゃあ、きゃあ! 蜘蛛が!」
「落ち着いてください、皆様! 誰か、人を呼んできて!」
下手に動けばパニックになった貴婦人たちに突き飛ばされてしまいそうだ。ほかに冷静な人は残っていないのかとあたりを見回すと、テーブルの上には粉々に砕けた水晶玉の欠片が飛び散っていて、向かいに座っていた霊媒師の姿はなかった。
いや、床に、黒いローブが広がっている。どさりと響いた重たい音の正体に気が付いて、青ざめる。
「早く人を!」
混乱は冷めやらず、場が落ち着くのにそれから少し、時間が必要だった。
※ ※ ※
宮殿の王族専用の応接間に移動し、温かい白湯を呑んだところで、少しだけ、気持ちが落ち着いた。
ほかの夫人たちはそれぞれの居室に戻り、事情を聴かれているところだろう。
「では、暗くなった後に何か破裂した音が響いて、明るくなったところで霊媒師が倒れていたということですね」
「ええ。その前に皆様が虫が出たとか蛇が出たとか、ひどく取り乱されて、あたりは真っ暗で、私も何が起きたのか、よくわかっていないのです」
「なるほど……暗い中で同じ呪文を繰り返し唱えている間に、一種の混乱状態になられたのでしょうね。皆様、今は落ち着かれていると聞いています」
「あの……霊媒師はどうなったのでしょうか」
「そうですね……あまり、状態は良くないようでした」
言葉を濁しているものの、助からなかったという意味だろう。痛ましさに唇を引き締めると、騎士は深く礼をして、控室を出て行った。
「……すこし、一人にしてちょうだい」
育児室のメンバーではなく、本宮にいるときに身の回りの世話をするためについている召使いたちは、優雅に礼を執ると足音を立てずに控室から出て行った。
隅々まで礼儀作法が行き届いている彼女たちには申し訳ないけれど、育児室の少しバタバタした世話係たちと一緒にいるほうが、心が休まるのはなぜだろう。
「………」
一人になって、静かな部屋の中でそっとソファの肘置きにもたれかかり、瞼を下ろす。
会いたい人はいた。
けれど、魂は抵抗していると言われ、最後は弾けて、ああなった。
それを、どう思えばいいのだろう。
――今更、私になんて、会いたくなんてないわよね。
仕方ないことだ。
育ててくれた、愛してくれた、そんな人を失望させ、命を失うほどに嘆かせてしまった。
いくら後悔しても時は巻き戻らない。だから。
そっと新しい命が宿っているおなかを撫でて、幸せだと言い聞かせる。
母をああまで嘆かせて手に入れたアンリと家族たちだ。大切にしなければならない。
自分は、幸せでなければならない。
「私は、幸せだわ」
そう自分に言い聞かせ続けていた。
これまでと同じように。




