35.テレサの涙
「おうひさま、バイバーイ!」
手を振って背伸びしてドアを開けると、すぐに外側から警備をしていた兵士がドアを押さえてくれる。
控えの間には育児室の世話係メンバーのカミラとエリナが待っていてくれた。
「姫様、楽しく過ごされましたか?」
「うん! おかしもらった!」
「よかったですね」
マルグリット自身はバターも砂糖もたっぷり使ったハイカロリーなお菓子を好むけれど、私のお土産には優しくほろほろ溶けるボーロを用意してくれる。
赤ちゃんの頃から、人間はちっちゃいうちは、大人と同じ食べ物は刺激が強くてお腹を壊したりするのだとせっせと伝えてきた甲斐があるというものだ。
この三年で、育児室の年少組のカミラとエリナもすっかりお姉さんっぽくなって、そっと差し出されたカミラの手をぎゅっと握る。
王妃宮のある王宮から育児室のある離宮までは馬車での移動になるので、こうして世話係の誰かに連れてきてもらう必要がある。毎回その時手の空いているメンバーが帯同してくれるけれど、マルグリットは基本的に王様以外を部屋に入れないので、毎回こうして控室で待っていてくれる。
私が生まれた時、私の傍には乳母のマーゴのほか、テレサ、サラサ、カミラ、エリナの四人の世話係がいた。マーゴ以外はみんな十代の貴族出身の少女たちで、ぶっちゃけ、王女であるアーデルハイドの幼年期の世話をしたという箔があると都合のいい、王統派の貴族の出身である。
とはいえみんな心から私を可愛がってくれたし、大好きな私のお姉ちゃんたちという位置付けだ。
エリナにマフラーをぐるぐると巻いてもらい、もこもこの帽子を被って、手袋を嵌めさせてもらう。転んでも痛くないくらいぶ厚いコートを着てようやくマルグリットの離宮を出ると、空気はとても冷たかった。
「ちゅべたい」
「お寒いですか? 姫様」
「だいじょうぶ!」
こちらの世界に子供は風の子という言葉があるかは知らないけれど、冬生まれということもあってか、あまり冬の寒さを辛いとは思わなかった。
どうしても耐えきれないくらい寒ければ、魔素を振動させて周囲の空気だけ少し温めることもできる。
「はぁー……いき、しろいねー」
「大事な姫様がお風邪を召したら大変ですから、すぐに戻りましょう」
「離宮に戻ったら、温かいミルクをお入れしますね」
「うん!」
カミラが馬車のドアを開けてくれて、エリナが抱っこして馬車に乗せてくれる。ゆっくりと育児室のある第二王子の離宮まで移動している間に、瞼が重たくなって、目を擦る。
「姫様、おねむですか?」
「んー……」
マルグリットのスイーツ愛に付き合っていたら、あっという間に丸々とした幼児になってしまうので、どれだけお菓子を出されてもセーブして食べているつもりだけれど、それでもお腹が満ちるとまだまだ眠たくなってしまう。
そろそろお昼寝は必ずしも必要ではなくなってきたけれど、こうして離宮から出かけた日は普段と違って少し疲れるのか、眠くなることが多い。
「姫様、ベッドまでお運びしますから、お眠り下さい」
「んぅ……」
「お目覚めになられたら、ミルクをお淹れします」
「んふ」
左右から優しく撫でられて、いい気分になって目を閉じると、眠気に耐えきれずことりとエリナの膝に横たわる
私は王族だし、もう少し大きくなったら頭を撫でてもらったりすることもなくなるのだろうけれど、赤ちゃんの時からずっと傍にいておしめを変えたり吐き戻しの着替えをしてくれた世話係の面々は、今でも小さな子供に当たり前にそうするみたいに触れてくれる。
ぶ厚い上着の上からぽんぽん、と優しく叩かれると、そのリズムが心地よくて、とろとろとすぐに眠りに落ちていった。
* * *
お姫様のベッドは、ふわふわの雲みたいだ。
すごくいい羊毛を使っていて、冬でもとても温かい。もふもふの枕に頬ずりして、いつの間にベッドに移動したのだろうと思う。
カミラとエリナが起こさないようにそっと運んでくれたのだろう。上着とドレスの上衣も脱いで、柔らかい幼児用のシュミーズ姿になっていた。
とろとろと瞼を持ち上げると、育児室改め私の私室になった部屋のカーテンは開いていて、外はまだ明るい。起きている時間より寝ている時間の方が長かった赤ちゃんの頃と違って、最近は一日の半分くらいは起きていられるようになった。
もう目は覚めているけれど、冬の昼間のベッドの中がとても心地よくて、もう少しこうしていたい。
でも、温かいミルクを入れてくれると言っていたし、昼食を終えて夜のドレスに着替えるためにラプンツェルが戻ってくるかもしれないから、そろそろ起きたほうがいいだろう。
心地よさと理性の間で揺れていると、不意に、ぐすっ、と洟を啜る音が耳に届く。
鼻を鳴らした時のようなものとは違う、微かに震える吐息も混じる、湿っぽい音にドキッとした。
私の周囲はいつも笑顔と愛に溢れている。パパもラプンツェルもマーゴも世話係の四人娘も、私を見れば溢れんばかりの笑顔になり、世界一可愛いお姫様だと甘く優しく声を掛け、愛情いっぱいに接してくれる。
けれど、私には前世で社会人になるまでの記憶がある。人はいつだって笑ってばかりいるものではないし、表に出さない悲しみも苦さも抱えていたりするものだ。物語のお姫様のような暮らしをしていたって、この世界にも苛立ちや葛藤があり、嫉妬や差別意識があることは、もう分かっていた。
だから、いつもニコニコと笑って傍にいてくれる人の中に必ずしも喜びしか詰まっていないわけではないのも当たり前だけれど、身近でこんな風に悲しみを抑えきれないような音を聞いたのは、初めてだった。
目を閉じて、身じろぎしないまま魔素を操り、傍にいる人を探る。
――テレサ?
テレサは、四人娘の一番のお姉さんで、マーゴに次ぐ育児室のリーダー的な存在だ。
光沢のある深い青色の髪と紅茶色の瞳をした穏やかで理性的な美人で、私が赤ちゃんだった頃はまだ十代半ばで少し浮ついたところのあったカミラやエリナを、そっと導くように指導することもあった。
物静かな性格だけれど仕事はてきぱきとこなして、口が堅く、宮廷内で貴族に言い寄られてもそつなくかわす。パパとラプンツェルとマーゴの信頼も厚くて、団欒の時の給仕も任されるほどだ。
気の強いサラサは嫌なことがあれば自室で無言で枕を殴っていることもあるし、カミラとエリナは休日には嫌味な本宮の女官長や仕事をさぼってばかりの厨房の下働きを愚痴の肴にすることもあるけれど、テレサは一人で静かに本を読み詩を諳んじるような、絵にかいたようなおしとやかな貴族の令嬢だった。
そんな彼女が窓の外に目を向けて、少し俯いて、肩を震わせている。
ベッドからの角度ではテレサの顔は見えないけれど、魔素を操ることのできる範囲内は、私にとっては自分の目で見て指で触れるのとほとんど変わらない。
ぎゅっと唇を引き結び、はらはらと涙をこぼしているのだって、分かってしまう。
まだまだ小さい体だけれど、胸がぎゅっと痛む。
私はこの世界に悲しみがあることを知らないわけではない。
けれど、いつもそばにいて自分に優しくしてくれる、笑顔の素敵なお姉ちゃんが一人で震えながら泣いているのは、やっぱりすごく、辛く感じてしまった。