29.秘密の庭と思わぬ再会
よちよちと歩くアーデルハイドちゃんをテレサとサラサは根気よく見守って歩調を合わせてくれていた。
白い花の咲くハナミズキの木には小鳥たちが止まり、そろそろ繁殖シーズンを終えて遠からず渡りに入る鳥たちも、思い思いに鳴いている。庭園には濃い紫のヘリオトロープが甘い芳香を放ち、視線の低い位置には色とりどりのアスターが思い思いに咲いていた。
パパがラプンツェルのために作ったという庭は、初夏の薔薇の季節も素晴らしかったけれど、夏の終わりが近づいた今の時期もやっぱりきれいだ。これだけあれこれ植えているのに萎れた花はひとつもなく、葉は青々としていて病気や虫がついているものもない。
庭師の腕もいいのだろうけれど、それ以上に手間と予算を惜しまずに維持しているのが伝わって来る。
もう少し進むと少しずつパセリやセージ、ローズマリーといった薬草や香草が増えていった。
こういう感じ、なんだか懐かしいな。区画ごとにレンガで区切って畑を作るのは、魔女時代によく使っていたやり方だ。混植することで相互にいい作用を起こす組み合わせもあるけれど、こうすると分かりやすいし肥料や水やりの管理も楽だった。
「だぅ?」
もう少し進むと、レンガの壁に行き当たる。壁には白いドアが付いていて、アーデルハイドちゃんではドアノブに手が届きそうもない。
ここで庭は終わりかとテレサとサラサを見上げると、テレサがあらあらと笑って少し先に歩み出て、ドアを開けてくれた。
「一応、ここまでは登城が許されている他の貴族も特別な許可はなしで散策できるようになっているんですけど、ここから先は王弟殿下と妃殿下の秘密の庭なんですよ。離宮に勤めている人間は許可が出ていますので、入ってみますか?」
何それ面白そう。ドアに続く低い階段をよちよちと登り中をくぐると、そこはやけに鬱蒼とした雰囲気の庭になっていた。
多分庭師があまり手を入れていないのだろう。雑草が伸び放題というわけではないけれど、荒れ果てない程度に自然のままにしているというのかな。貴族育ちのテレサとサラサにはこうした庭は歩きにくいんじゃないかと思うけど、先ほどまでと変わらず、アーデルハイドちゃんの少し後ろを慣れた様子でついてきた。
植えられているものはハーブも多いけど、毒草も混じっていたりして、かと思ったら普通の野菜類なんかがひょっこり顔を出していたりする。その季節に植えてみたいものを植えてみたという感じで、てんでバラバラで趣味がよく分からない。
でもなんだろう。この庭は、すごく懐かしい感じがする。
雨風に晒されて経年で角の取れたレンガ。一見手はあまり入っていないように見えるけれど、畑の土は黒くてふかふかで、こだわりを持って土から作られているのが分かる。
先ほどまでの庭園にはそれなりに背の高い木が多かったけれど、こちらは低木ばかりだ。いや、いずれ大きくなる品種も植えられているけれど、まだ若木ばかりだった。
「……だぅ」
まるで呼ばれるように、何かに惹き付けられるように、自然と小さな足で奥に進む。
そこにあったのは、小さな石造りの家だった。
かろうじて二階建てではあるけれど、一階の厨房とその傍にある小さな寝床だけでほとんど用を成してしまうので、二階は収穫した野菜や薬草、香辛料などを保存する場所として使っていた。
軒は日持ちさせるために野菜を干したり、まじないに使う香草をぶら下げたり、季節によっていろいろと使い道がある。玄関以外からも勝手口から直接庭に出ることが出来て、住んでいるときはむしろ、そちらのドアのほうが利用する頻度が多かった。
間違いない、魔女として生きていた頃……ラプンツェルを引き取る前から暮らしていた家だ。
どれくらいこの家で暮らしただろう。百年は越えていると思うけど、それ以上は二百年なのか三百年なのか、詳しい期間はおぼろげだった。これは二度も生まれ変わったからというより、魔女の頃からそうだった。
春と夏と秋と冬を繰り返すことだけが魔女にとっての一年であり、人間の作った暦なんて興味も関心もなかった。そもそも明確な寿命のない魔女は時間の感覚も曖昧になりがちで、春夏秋冬を何百回繰り返したかなんて考えたこともなかった。
だからその家を見た時、長く過ごした場所が懐かしいというより、昔自分がしでかした失敗をそのまま見せられているようないたたまれなさ、気恥ずかしさがまずあった。
だって、この家で長い間暮らしていて、魔女は近くにいた人間たちに少しも興味なんて持たなかった。自分の殻に閉じ籠っていたというのとも違う、最初から違う生き物の営みとしか思っておらず、実際、何世代も人々が入れ替わる中でそれを惜しむことも悲しむこともなく過ごしていた。
この家だってただ長く住んだというだけで、愛着や執着があったわけじゃない。ちょうどいい地脈の上に庭を造って、余った場所に雨風をしのぐための家を造った、それだけだった。
今思うとなんて寂しく、頑なで、独りよがりな生き方だったのだろう。魔女なんてそんなものだってずっと思っていたけれど、まがりなりにも王妃として暮らして下手ながら人ともちゃんと関わっているマルグリットを見ると、あの頃の私にも別の過ごし方があったのではないかなんて、思えてしまう。
この家が、どうしてここに?
元々あの家があった場所に王宮が後から出来たなんてことはないはずだ。だったら家をここに誰かが移築したはずで、それが誰かなんて、決まっている。
望んだのはラプンツェルで、パパが、その願いを叶えたのだろう。
パパにとってはとりわけ、魔女は邪魔な存在だったはずだ。今でもあの整った顔には茨でついた傷跡が残っていて痛々しいし、赤ん坊だったラプンツェルを攫ってさらに閉じ込めて自由を奪い、自分と結ばれるのを邪魔した憎い存在だっただろうに。
振り返って、扉から家までの道に改めて、ああ、そうかと納得した。
野放図に好きなものを好きなだけ植えて鬱蒼とした正門は人々を遠ざけるのにちょうどよかった。
レンガを積んだ高い塀は、畑を狙う盗人を阻むためのものだった。
見覚えがあるはずだ。この場所は間違いなく魔女が長く過ごし、ラプンツェルも幼年期までは共に暮らした、あの魔女の家を模して造られた場所だ。
よちよちと歩き、勝手口の方に回る。赤ちゃんの低い視界からは家に阻まれて見えなかった、魔女の畑と、その奥には――。
「ぅあ、あ、あっ」
「姫様?」
「どうなさいました?」
ぽろっ、と蓋が外れたように涙があふれだす。テレサとサラサが驚いたように延ばした手をすり抜けて進み、記憶にあるより細く、まだ頼りない若木に縋りついた。
白樫は、触れればほんのりと柔らかく、優しい愛情を伝えてくる。それは本当に微かなもので、明確な意思というより気配や雰囲気といったものに近い。
それでもはっきりと分かる。間違いない、これは私の白樫。私を世界に産み落とした、母なる木だ。
本体は森と共に燃えてしまった。
共に放浪し、庭に埋めた株は魔女と共に枯れ落ちた。
そのはずなのに、どうしてここに?
「ふぇっ、あっ、うぇ、あーん!」
そんな疑問は次から次に湧き上がって来る感情と涙によってかき消され、まるで幼子が生き別れた母に巡り合ったようにただひたすら、白樫に縋りついて泣くことしかできなかった。




