26.お叱りと借り
赤ちゃんというのは、口に何かが触れればちゅうちゅうと吸い込んでしまうものだ。
駄目だと言われても気が付いたら自分の指や枕カバーをしゃぶっていたりするし、時々無性に前世の赤ん坊時代に使っていたおしゃぶりが恋しくなったりする。
これはもう本能だから仕方がない。離乳食も始まっているしそろそろおしゃぶりも卒業の時期ではあるけれど、やっぱり口に触れたら吸ってしまう。そんなものだ。
「ん、んむう……」
ちゅう、と吸ったそれは温かくて柔らかくて気持ちよかった。お乳は出ないけど、何だかもっと濃密なものが体の中に入って来る。ぷはっ! と苦しそうな声とともにそれが遠のいて、一気に悲しくなってしまった。
今のもっと! もっと欲しい! 赤ちゃんは気に入らないことがあれば泣くのが仕事だ。ふぇえ、と喉から小さい声が漏れる。
「おいっ、起きたのか!? 大丈夫か」
「ぷ、ふぇ、ぷええ?」
ぺちぺちと頬に何かが当たる感触に、閉じていた目をぱちっと開く。青い長い髪の魔法使いが思ったより至近距離で覗き込んでいて、その口の周りはなぜかべたべたと濡れていた。
えっ、ていうか今ぶった? お姫様のアーデルハイドちゃんをぶった? パパにもぶたれたことないのに?
「だぁ! あぁ!」
抗議の声を上げるのに、セルジュははぁー、と間延びした息を吐き、それから不愉快そうに口を拭う。ちょっと待って。その口元なんなの。
さっきまで吸っていた生温かいものが何だったのかと理解した。待て、さすがに前世は成人まで生きた人間として見逃せない。やっと前歯が生えたばかりなのに、アーデルハイドちゃんが虫歯になりやすくなったらどうしてくれる。
「そんな目で見るなよ。あのな、俺だってやりたくてやってたわけじゃねえっつーの。そこのところ、勘違いするなよ」
「………」
「……ああ、今喋れないんだったか。せめてだぁとかぶぅとか言ったらどうなんだ」
性犯罪者に話す言葉はない。いや、セルジュはどう見たって年齢ヒトケタなので罪に問うことは出来ないんだろうけれど、アーデルハイドちゃんよりずっと年上なのは間違いないのだ。世の中にはやっていいことと悪いことがある。
だが次に吐き捨てるようにセルジュから出た言葉は、もっと衝撃的なものだった。
「ちっ、初めてでもあるまいに。お前の口なんて数人でローテーションで口をくっつけてたっての」
「………」
「おい? 折角生かしたんだから死ぬなよ?」
あ、だめだ。目を逸らしていたけど頭がぐるぐるするし、力が入らない。今の衝撃的な言葉が駄目押しになって、小さな両のおててで口を閉じたまま、ぽてり、と再び体から力が抜けてしまった。
* * *
次に目が覚めた時は、ベビーベッドの周りにはむっつりとした表情のままのセルジュの他、クリスとなぜかマルグリット、マルグリットの肩に止まったロビンまでいた。
「んぁ? っぶ!」
なんなんだこのメンツはと思う間もなく、顔面にロビンが羽を広げてぶつかってくる。小さな小鳥とはいえ渾身の体当たりは赤ちゃんには中々きつい。顔の上でバタバタと翼を羽ばたかれては、なおさらだ。
「ぷぁ! だぁ!」
「あらあら、気持ちは分かるけど、だめよぉ。まだ意識が戻ったばかりで不安定なんだから」
マルグリットはむんず、とロビンの胴体を無造作に掴んで引き離してくれる。それが腕を掴まれて吊り上げられた自分を思い出して、両手を広げる。
マルグリットは弱いものに本当に無頓着だけれど、小鳥なんて赤ちゃんと同じくらい壊れ物なのだ。特に執着もなく手放したマルグリットの手から、お腹の上に落ちて来たロビンを撫でる。
それで、これは、どういう状況なのだろう。
窓の外は暗いので、夜なのだろう。魔女と魔法使いと隣国の王子がこんな時間に王女の部屋に来ているということは、間違いなく不法侵入だ。
「お前、自分が死にかけた自覚はあるか」
「だぅ」
「その原因にも心当たりがあるな?」
「……あぅ」
みるみるセルジュの目じりがつり上がってくるのに、分が悪いのを理解する。
よくよく見れば、マルグリットもクリスも、どこか咎めるような目をしている。初めにロビンが突っ込んできたのも、抗議の意味が強かったのだろう。
でも、だって仕方がないじゃない。ラプンツェルが限界だったのは明らかだった。放っておけば明日だって迎えられなかったかもしれない。いてもたってもいられなかったのだ。
「あぅ、だう、だぁ」
話を変えたくて、自分の唇を指差し、セルジュを指す。乙女の唇をべちゃべちゃに奪っておいてどういうことなの。責任取りなさいよ。いや変な責任を取られるのも困るので、せめて怒らないでほしい。
「ああ? 口移しで魔力を吸ってやったのは、感謝されるならともかく、恨まれる覚えはねえぞ」
「あう?」
「あなたねえ、呪いと魔力が体の中でパンッパンッになってて破裂寸前だったのよ。目とか鼻とかあちこちから血が出てたし、もうすごい不細工で」
「……あぅ」
「そのままにしておけば間違いなく死んでいたから、魔力と親和性の高い僕たち三人が交代で魔力を吸うしか対処法がなかったんだ。一度に全部は吸い出せないから、ある程度吸ったらそれが自分の体になじむまで待って、交代制で処置をしたんだよ。――女の子の唇なのに、ごめんね? でも他に方法がなかったんだ」
唯一、クリスだけは申し訳なさそうに、そして分かりやすく状況を説明してくれた。
アーデルハイドちゃんの体は小さくて魔力を収める器としては足りなすぎる。その魔力が体の中で暴れていたのを、三人が少しずつ吸い出してくれたということらしい。
まあ、魔女の口づけは魔力を注ぎ込むものなので、その逆も理論としては理解出来る。魔法使いも事情はそう変わらないのだろう。
「まあ、命があっただけよかったじゃない。残った魔力でしばらくだるいかもしれないけど、もう心配はいらないわよ」
うん、と頷いた後、ラプンツェルはどうなったのだろうと思う。
ラプンツェルを衰弱させていた呪いは一度アーデルハイドちゃんの体で飲み込んで、そのあと純粋な魔力に分解されて三人が吸い出してくれた。けれど、ラプンツェルはかなり衰弱していた。
ちゃんと元気になるだろうか。そもそも、目が覚めるまでどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
「お前は二十日近く不細工になりながら寝てたよ。あと、お前のママは無事だ。余計な心配させないよう、お前の状態は伝えてないが、もうしばらくしたら自分の足で歩いてお前に会いに来るはずだ」
「アンリ殿下は君と君のお母さんの間を行ったり来たりして、本当に大変そうだったんだよ。元気になったら、たくさん優しくしてあげてね」
口の悪いセルジュとあくまで紳士のクリスの間に視線を行ったり来たりさせながら、うんうんと頷いて、その拍子にぽろっ、と涙がこぼれ落ちた。
「ふ、ふぇぇ、えっ」
よかった。
よかった、ラプンツェル。
若くて、美しくて、未来の可能性に満ちた、幸せになるのが相応しい私の娘は無事だった。
こんなに嬉しいことはない。生まれてよかったと齢ゼロ歳で心から思う。
「じゃあ、そろそろ私たちへの「対価」のお話をしましょうか」
喜びに浸っているところに、いつものようにのんびりと、そして空気は一切読む気がないマルグリットの声が響く。
「ぶぇ……?」
喜びと感傷の涙は一瞬で止まった。セルジュはにやにやと、クリスは少し困ったように微笑んでいる。
「魔女と魔法使いに借りを作ったんだから、安くはないわよ?」
マルグリットの言葉は、もっともだ。
かつてちしゃの畑ひと区画で生まれたばかりのラプンツェルと引き換えた身だ、よくよく理解している。
しかし、命を救われた借りを、三人分とは、どれほどの対価を要求されるのだろう。
「あぶ……」
アーデルハイドちゃん、ゼロ歳児。
今世はお姫様で、かつ多重債務者になったようだった。




