25.夢の胡蝶
長い夢を見ていた気がする。
長い、とても長い夢だ。
始まりは深い森の地脈の上にそびえる、年老いた白樫の木の根元だった。
森の始まりよりさらに古い時代からそこにあり、地脈の力で千をはるかに超える年月を生きたその白樫の木から、朝露がしたたり落ちるように生まれたのが、その魔女だった。
魔女は生まれ落ちた瞬間から自我があり、知恵があり、成体としての肉体があった。魔女は自分の母である白樫の木に寄り添い数百年をその森で暮らしたけれど、ある日その森から、大規模な火災により追い立てられるように立ち去ることになった。
白樫の分身である枝を一枝もらい、魔女は彷徨った。最初は生まれ故郷である森に似た場所を探したけれど、気に入らなかったり、すでに他の魔女の縄張りだったりした。結局魔女が選んだのは、そう太くない、けれどほどほどの力を持った地脈が漏れている小さな家だった。
そこは人の街の外れにある廃屋だった。もう長く人が暮らしておらず、持ち主も定かではない家だ。そう広くはないが庭があり、雑草があちこちから洩れるように顔を出した、朽ちたレンガの小道もあった。
魔女は静かにそこで暮らし始めた。時々人間の徴税官が来たけれど、住んでいるのが魔女だと分かると顔を引きつらせて去っていった。近隣から少しずつ人間の気配が減っていったけれど、魔女にはどうでもいいことだった。
魔女は庭に、白樫の分身の枝を植え、大切に育てた。
魔女にとって大切なのは、自分が暮らす環境と、母である白樫の木と、その木の根が地脈に接続しているかどうか、それだけだ。少しずつ庭を整備し、香りのいい草を植え、家を片付けた。
ある日、病み疲れた様子の人間の番が、小さな人間を抱いて訪ねてきた。
この庭にある薬草を分けて欲しいのだという。
魔女は香りの良さで庭に植える草を決めていたけれど、そのうちのひとつが病の特効薬になるのだと番のメスは言った。
魔女にとって庭に生えるものは草一本でも大切な自分の肉体のようなものだ。魔女には人間とは引き換えに出来るものではなかった。
けれど、浅く息をする命脈が尽きかけている小さな人間を見ると、静かに凪いでいた魔女の心に、僅かに波が立った。
結局自分でも理解出来ない気まぐれで、魔女は人間の番に求められた薬草を分けてやった。その対価にと渡された金属の塊は、家の隅の物入れに放り込んだ。
それから時々、同じように薬草を求める者が訪ねて来るようになった。
年老いた母が苦しまないように安らかになる薬が欲しい。
両親に会いに行くために丘を越えたいので、狼除けの護符が必要だ。
どうかこの子の病気を治してください。
魔女が手を貸したのは、そうした願いを口にする者ばかりだった。
時には商売のためにと訪ねて来る者もいたけれど、それらは決して魔女の家の門を越えることは出来なかった。
少しずつ、長い時間をかけて、魔女の住み着いた家の周りに、再び人が暮らすようになった。それもまた、魔女にとってはどうでもいいことだった。
時々人が訪ねてきて、望んだものを用意してやる。対価にと渡された金属の塊は物入れに放り込み、そんなことを繰り返して時間は過ぎていった。
ある日、邪な思いを抱くものは弾いてしまうはずの塀を乗り越え、魔女の庭に不躾な盗人が入った。
盗人は魔女の畑からチシャをむしり取り、卑しい盗人らしく慌てて再び塀を越えて出て行った。
無造作にむしり取られた畑を見て魔女は嘆き、涙を落とした。長い月日で大きく成長した白樫の木がさわさわと風に揺れる葉擦れの音で慰めてくれたけれど、怒りを鎮めるのは大変だった。
あれは隣に住む人間。妻と腹にいる子の相性が悪く、どちらも命に関わる状態だと白樫は言う。
チシャには精神を落ち着け、バランスを取り、肉体を若く保つ効能がある。魔女の庭で育てられているそれを見て、本能的にそれが必要であるのだと思ったのだろうと。
白樫のとりなしで、一度は許すことにした。踏み荒らされた畑を均し、新しい種を植え、この種が芽吹く頃には悲しみも癒えているだろうと。
だから、二度目は許さなかった。
地に伏せて、涙ながらにこのままでは妻は死んでしまうと訴える盗人の、一番大切なものを盗んでやろうと思った。
盗人にとって一番大切なものは、妻だった。最初は妻を寄越せと求めたけれど、男は青ざめながら、腹の子なら差し出せると告げた。
無事に生まれたら、必ずあなたにその子を渡す。だからそれまで、妻のためにチシャを分けてくれないかと。
その図々しい言葉を発する男の目はギラギラと輝いていて、妻の無事以外はなにも必要がないのだと、人間の心に疎い魔女にも理解できた。
ここで追い出しても、また盗みに入るだろう。
人間は群れで生きる生き物だ。同族を殺されることを何より疎むことは知識の上で知っていた。
仕方なく、チシャの畑をひとつ、その男にくれてやった。月満ちて、男が生まれた子を妻から奪い、魔女に差し出してきたその日まで。
――ラプンツェル。
太陽が降り注ぐ、よく実った麦畑のような黄金色の金髪に、真夏の空を映しとったような澄んだ青い瞳。こちらを見て嬉しそうにきゃっきゃっと笑ったかと思うと、次の瞬間には火が付いたように泣き始める。
魔女に助けを求めて来ながらびくびくと怯えた様子を隠さない人間たちとはまるで違う。その小さな小さな人間は、無垢で剥き出しの感情のまま、魔女を翻弄した。
きちんと食事を与えなければあっという間に飢えてしまう。食べ物だって何でもいいわけではない。瞬きをするような間に首が座り、体を起こすようになって、よろよろと歩き始めた。
「だぁー」
魔女を見ると、嬉しそうに笑う。ころんと転んで、一拍置いてからわんわんと泣き出す。
小さな手で魔女の指を掴んだまま眠りについて、庭に出るようになると、綺麗だという理由だけで魔女の庭の花を全部毟ったこともあった。
他の人間なら絶対に許さないことも、その小さな人間だけはどうしても怒れなかった。二度としては駄目だと言い含めながら、きょとんとして、頬を膨らませ、唇を尖らせる様も愛しかった。
駆け出すその背中が、怖かった。振り返って笑ってくれると、安心した。
いつかどこか遠くに行ってしまう気がして。それはある日突然、やってくる気がして。
何百年と生きて、魔女にとって大切なのは母である白樫の木と生まれた森だけだった。それが失われた後は、母の分身である白樫と地脈の上に造った庭、それだけだ。
けれど、その全てを捨ててもいいと思えるほど、大切だった。
だから、決して失われないように、他の誰の手も届かないところに置くことにした。
街から離れた場所に塔を作り、可愛いその子を閉じ込めた。
魔女は白樫の庭から離れては生きてはいけない。毎日その塔に通い、食べ物を運び、娘に歌を歌い、退屈しないようにたくさんの本と綺麗な服を用意して。
娘は笑っていたから、それでいいのだと思っていた。
魔女に大切なものはとても少なかった。
魔女は、人間に興味がなかった。
だから、人間を大切にする方法も、間違ってしまった。
けれど、愛だけは本物だった。
守ってやりたい。傷つけるもの全てから遠ざけてやりたい。ずっと傍にいてほしい。どこにも行かないでほしい。
独りよがりでも、自分勝手でも、どれだけ間違っていたとしても。
そこにあったのは、確かに愛だった。
長い、長い夢を見た。人間に生まれて、両親に抱かれ、あやされ、抱きしめられて。きょうだいが生まれ、友達が出来た。
そうしている間に二本の腕では抱えきれないくらい大切な物ばかりになってしまって、感情を抑えきれず大切な人を傷つけて、自分も傷ついて、尊重され、自分も人を大切にする方法を少しずつ知っていった。
そうして、人を知れば知るほど、二度と抱きしめられない太陽のような娘に申し訳なくて、可哀想で。
けれど二度と、ごめんねもありがとうも伝えられなくて。
夢から、覚めなければ。
けれど、今の自分はいったい誰なんだろう。
間違ってばかりだった魔女?
平凡に、けれど大切な物ばかりだった人間?
まだ幼い小さなお姫様?
全部の意識が混ざって、混ざって。
混沌とした夢は優しいぬかるみのように体を包み込んで、そこから這い出すことが出来なかった。




