22.パパの覚悟、ママの後悔
西の離宮の開いた窓から、黒い小鳥がひらりと体を滑り込ませる。
セルジュの張った結界のおかげでこれまで入ることが出来なかったけれど、どうしてもラプンツェルに会いたい。一目見るだけでもいいからと頼み込み、窓を開けてもらっておいたのだ。時々梁に止まっては使用人たちをやりすごしつつ、おおまかな部屋の場所もあらかじめ聞いていたので、そこはすぐに見つかった。
女性的なラインの細やかな装飾を施された扉は、一目で特別な人の部屋なのだと解る。薄く開いた隙間から中に入り込めば、豪奢な内装に小鳥の目でぱちぱちと瞬きをする。
家具や絨毯、壁紙など、全体は白で統一されていて、差し色としてベッドからゆったりと重たげに垂れさがる天蓋のカーテンやクッションは濃いピンクが配置され、フレームや刺繍は黄金があしらわれていた。
天井からぶら下がる、カットされたクリスタルが配置されたシャンデリア、黄金のフレームのランプに指輪を付けた指でうっかりひっかいたら台無しになりそうな真っ白なサイドボードの上にはこれまた白い陶器の花瓶が置かれていて、淡いピンク色の薔薇が活けられている。
豪華で、豪奢で、ほんの少しのチープさも感じさせない。どれも一流の職人が作り、維持のために多くの使用人が必要な、文字通り物語に出て来るお姫様の部屋そのものだった。
音を立てずにシャンデリアに止まり俯瞰する。部屋の中にはベッドの傍にパパがいて、椅子が用意してあり、そこにはクリスが座っている。ベッドから伸びたほっそりとした白い腕に手を重ねていて、その様子をセルジュが少し後ろで静かに見守っているようだった。
天蓋から下ろされた薄布のカーテンの向こうには、横たわるラプンツェルは目を伏せて、クリスが手に触れているというのに、静かな寝息を立てている。
一瞬だけセルジュと目が合ったけれど、今日の面会は内々に承諾を得ていたので、すぐにふっと逸らされた。
「状態は、かなり悪いです。白魔法を注げば一時は回復しますが、まるで穴が開いているみたいにそこから生命力が抜けていくみたいで」
「……」
顔色の悪いクリスが、子供らしからぬ重たげな口調でそう告げるのに、隣にいたパパは何か言いかけて、口をつぐむ。
何とかならないのかと、言いたそうな様子が伝わって来る。
けれど、言えないのだろう。なんとか出来るならとっくにしているはずだ。パパだってきっと、それは解っている。
「妻は……あとどれくらい」
「アンリ殿下。どうか気弱にならないでください。僕が傍についています。体調が悪くなったらいつでも駆けつけますので」
クリスが明るい口調で言う。それも、パパを元気づけるためのものだろう。魔力を使い過ぎたのか、クリスこそ顔色が悪いままだ。
そんなクリスに、パパはゆっくりと、首を左右に振った。
「……娘には……アーデルハイドには、母との別れは、きちんとさせてやりたいのです」
パパはそう言って、微笑んだ。
痛くて痛くて、でもどんな顔をしていいのか分からずに、仕方がないから笑っている。そんな顔だった。
「妻は、彼女の母親と、彼女の知らない場所で死に別れてしまいました。妻は今でもずっと、それを後悔し、嘆いています。アーデルハイドはきっと、幼な過ぎて母親のことは覚えていられないでしょうが……妻と同じ思いをさせたくはないのです」
優しい声だった。
寂しそうな声だった。
「妻も、別れを告げないままでは、きっと未練になるでしょう」
「アンリ殿下……」
「今はまだ、その覚悟をするのは早いですよ」
感傷を含ませない声でセルジュが告げる。
「少なくともクリス殿下が滞在している間は、妃殿下の命が途切れることはありません。どうかそれは、ご心配なさらないでください」
「ウルム王国一の魔法使いである貴殿がそう言うのでしたら、信じましょう」
「クリス。お前も少し休め。真っ青だ」
「私は、大丈夫だよ」
「そうやって無理をして、ここぞという時に力を使えなければ共倒れになるだけだ。アンリ殿下。しばらく退出を。ああ、窓は少し開けておきましょう。今日は暖かいですし、風の入れ替えと太陽の光は気力の維持に不可欠なものですので」
公称で七歳とは思えない口調できびきびと言い、セルジュが軽く手を払うとカーテンが揺れ、窓の鍵がひとりでに少し開く。ふわ、と夏の風が入り込んできて、確かに爽やかだ。
「三十分ほどしたら勝手に閉まるようにしておきましたので」
「あなたは、本当にすさまじい魔法使いですね」
「人より多少器用なだけです」
普段、育児室にいるときは綺麗な置物みたいに静かに控えているだけなのに、セルジュは一国の王弟であるパパに対しても慇懃無礼ギリギリの言葉遣いで話しているらしい。いいのかと思うけれど、誰も気にしていない様子を見ると、セルジュはそれが許されている立場なんだろう。
三人が退出する前に、もう一度ちらり、とセルジュがこちらを見る。
制限時間は三十分だと言いたいのだろう。ロビンの労働時間も考えれば、それで十分だ。
扉が閉まり、気配が遠のいたのを見計らって、シャンデリアから天蓋に、カーテンの隙間を縫ってベッドの上に降り立つ。
ラプンツェルは、ずっと眠っている。もう起きる体力も、ほとんど残っていないのかもしれない。
前に会った時より更に痩せたようだ。肌に張りがなくなって、唇も鮮やかさを失くし、ひび割れている。
枯れる寸前の花のようだ。それでも、私の娘はどうしたって、美しかった。
――ラプンツェル。
この世で一番幸せにならなければならない娘だと、今でも信じている。それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
一体いつから? 誰がこんな優しい子をここまで恨むことができるというのか。
抱きしめたい。寄り添いたい。幼い頃、悪夢に泣きながら飛び起きたあの夜のように、大丈夫だよと背中を撫でて宥めてやりたい。
――妻は今でもずっと、それを後悔し、嘆いています。
どうして? 魔女の執着と束縛から逃れて、自由に、幸せになれたんじゃなかったの?
私はそれでよかったのに。
ロビンが、あまり強い感情を伝えて来るなと苦情を告げる。育児室のベビーベッドの中でぐず、と洟をすすり、ロビンの体を通じて一度だけ、ラプンツェルにそっと寄り添い、それから周囲を見回す。
目的のものはすぐに見つかった。それを咥えてカーテンの隙間から外に出て、セルジュが開けておいた窓の隙間から部屋を出る。
こんなものをどうするんだという疑問は黙殺し、目的のものを受け取ると、ロビンはその日の仕事を終えたとばかりにとっとと育児室から出て行った。
「だう……」
手元に残ったのは、長く美しい、金色の髪。
それをぎゅっと握りしめて、目を閉じる。
あとはその日がくるまで、静かに待つだけだ。
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