16.キッスと子守歌
夜にぐっすり眠れるって素晴らしい!
赤ちゃんの特権であるはずのそれを久しぶりに享受して、寝覚めもばっちりになると、暗い気持ちも自然と晴れてきて、なぜあんなにくよくよしていたのかと、そちらの方が不思議になるくらいだ。
マルグリットは話せばわかる魔女だった。赤ん坊には睡眠が絶対に必要なのだと説明したところ、それなら仕方がないと納得して、それきり夜な夜な訪問することもなくなった。
おまけに熟睡し、離乳食を食べ、そよそよと春の風に当たっていると昼間からパパが育児室を訪ねてきてくれた。ここしばらく赤ちゃんなのに命の危機に瀕したばかりのせいか、こういいことが続くとテンションが一気に上がってしまう。
「ぱっぱ!」
「アディ、久しぶりだ……おお」
四つん這いから立ち上がり、パパに向かってふらふらと歩き出すと、パパはその場に膝を突いて両手を大きく広げてくれる。
「アディ、こっちだ、おいで!」
「んむー!」
右足を出して、震えて力が抜ける前に左足を出す。右、左、右、左。何度かバランスを崩しそうになりつつ、パパに向かって進む。
たくさん眠って英気を養っただけあって、今日は調子がいい。いける気がする。
そうしてとうとう、パパの腕にゴールすると、そのまま抱っこされてくるくると回された。
「ぷぁー!」
「すごいぞアディ! もうこんなに歩けるようになるなんて、将来は女性騎士様かな!?」
親馬鹿もいいところのパパにムフゥ……とご機嫌な表情で鼻息を漏らす。抱っこされて回ればメリーゴーランドのようで面白く、きゃっきゃっと笑い声が出た。
「今日は随分元気が良さそうだな」
「はい、ここ数日はずっとお顔の色も良く、お元気な様子ですわ」
「今までは少しお元気が無かったので、育児室の一同もとても心配していたのですが、本当によろしゅうございました」
ソファに座ったパパの膝に乗っていると、ガラスの器に盛られた真っ赤な苺が運ばれてくる。アーデルハイドちゃんの器は小さく四つにカットされていて、パパが串で刺してあーんしてくれた。
日本の苺と比べるとかなり酸味が強く、それを抑えるためだろう、砂糖が掛けてある。甘酸っぱくて美味しいけれど赤ちゃんには酸味が結構強く感じられた。
これは、練乳が欲しいかもしれない。こっちにもあるのかなあ、練乳。
「美味しいかい? アディ」
「ちゅっぱ!」
「酸っぱい? もう酸っぱいって言えるのか。素晴らしいなあ私の娘は」
ニコニコと満面の笑みで言うパパの、親馬鹿さといったらない。まあ、褒められて嫌な気分になるほどアーデルハイドちゃんは偏屈ではないので、ニコニコと笑うパパに笑い返して差し出されるままに苺を口に入れる。
そうして美しい父子の交流を行っていると、にわかにドアのあたりがざわざわとざわめき出した。
素早く魔素で探り、すくっ、とパパの膝の上で立ち上がる。バランスを崩したところでパパがとっさに抱えてくれたけれど、両手はもう心がそう望むまま、扉の方に向かって伸びていた。
「アディ、どうしたんだい」
「ままっ!」
ラプンツェルが、扉を隔てた向こう側にいる。
侍従もメイドたちも、早くドアを開けてくれればいいのに、どうしてそうしないのかもどかしくてジタバタともがいていると、パパが抱っこしてくれて、立ち上がる。
「殿下、お待ちを」
「よい。――扉を開けよ」
アーデルハイドちゃんに対している時とは違う、威厳のある声でパパがそう言うと、制止しようとしていた侍従もすぐに胸に手を当てて頭を下げて、メイドたちが扉を開けた。
「アデル!」
「ままーっ!」
ああ、ラプンツェルだ。私の可愛い、大切な娘。
体調が思わしくないという話は事実だったのだろう、久しぶりに会う娘は色白の肌がさらに白くなっていて、やつれが目立つ。それなのに容色に衰えた様子は見られず、まるで雨に打たれる白い花のように可憐で儚げで、赤ちゃんですら庇護欲が刺激される有様だった。
ラプンツェルは真っすぐにアーデルハイドちゃんに駆け寄ろうとして、一拍置いて、抱いているのがパパであると気づいたらしい。戸惑ったように足を止めて、おどおどと周囲を見回して、それからスカートをつまんで、礼を執った。
「――ご無礼を、殿下」
「いや、いい。マーゴ、この部屋の人払いを」
「殿下、ですが」
「二度言わせるな」
何か言いたげな様子の侍従の声を遮ってパパが言うと、侍従は一瞬だけ表情に苦いものを浮かべたけれど、すぐに従順な使用人の顔になって、頭を垂れる。
「ドアの外に警備を置いて、他の者は控えの間に」
侍従がそう指示すると、育児室のメンバーもパパの後ろについてきた騎士たちも、まるで打ち合わせしていたようにするするとその場から立ち去り、扉が閉まるといつもの育児室には親子の三人だけが残された。
「――殿下」
切なげな、今にも泣き出しそうなラプンツェルに胸が痛む。パパもそうだったのだろう、寂しげに微笑んで、アーデルハイドちゃんを左手で抱えると、空いた右手を大きく広げた。
「二人きり、いや、アディと三人だけだ。名前で呼んでおくれ」
パパの寂しげな言葉にラプンツェルはぐっと泣くのを我慢するような表情になると、胸に手を当てて、苦し気に言った。
「アンリ……」
「ラプンツェル」
二人はしっかりと抱き合うと、アーデルハイドちゃんの頭の上でキッスをした。いや、見ないよ、みないみない。出歯亀の趣味はないし、娘としても義母としても、家族のそういうシーンって見たいもんでもないしね。
こういう感覚、一回日本人をやったからなのかな。お父さんとお母さんは全然そういうところを子供に見せるタイプの親じゃなかったし……。二人とも元気かなあ、なんて今世の両親に挟まれながら気配を消しつつ、前世の両親のことを思い出していると、やがて二人は少し離れて、でもぴったりと腕を組んだままソファに腰を下ろした。
「アンリ、アデルに会いに来ていたのね」
「ああ、少し時間が出来てな。だが、そろそろ戻らねばならぬ」
「もっと早くに来ればよかったわ」
「無理をしないでくれ。君はまだ万全じゃないんだ」
名残惜しいのはパパも同じなのだろうけれど、いつもパパの滞在時間はこんなものだ。きっと短い休憩時間や空き時間を縫ってきてくれていて、ここでラプンツェルと会ったのもただの偶然で。
二人は夫婦なのに、全然会えていないんじゃないかという予想は、どうやら正解のようだった。
「体に、気を付けて」
「ああ、君も。今日は会えてよかった」
離れるのが辛い。二人がそう思っているのが、見ているだけで分かる。
「ぱぱ……」
「アディ、ママと会うのはアディも久しぶりだろう? うんと甘えさせてもらいなさい」
「んっ」
最後にもう一度抱擁して、二度振り返って、パパは育児室から出て行った。多分その時に扉の向こうの護衛に何か言ったのだろう、いつもは育児室には必ず他に誰かいるのに、しばらく誰も入ってこなくて、ラプンツェルと二人きりだった。
「アンリ……」
はらはらと、ラプンツェルが泣いている。
その姿は、ちっとも幸せそうじゃない。
――ここにいるのが辛いなら、出て行ってしまえばいいのに。
パパだって外をふらふらしていて魔女の塔のラプンツェルを見つけたのだから、親子三人で慎ましくも幸せに生きていく方法もあるのではないだろうか。
駄目なのかな。王族って、そんなもんなんだろうか。
「アデル、ごめんなさいね。折角会えたのに、泣いてばかりで、ごめんなさい」
「うあぁ、うーっ」
泣かないで、ラプンツェル。私の大切な娘。
涙を止めてあげたいのに、感情が高ぶってどうしようもなくて、泣き出してしまう。
赤ちゃんって本当にままならない。そう思っていると、ラプンツェルが抱きしめて、ゆらゆらと優しく揺らしてくれた。
そうして、涙で掠れて、すこし低い、甘い旋律の歌が、耳を優しく撫でる。
春の雲、ほほえむ朝に小鳥が歌う。白い花の野のほとり、あなたが目覚める朝がくる。
夏の光、風が吹く丘にうさぎが遊ぶ。黄色い花の丘のふもと、あなたが笑う、昼下がり。
秋の空、あかねに染まる、森の中。赤い木の実の実る下、帰ろう、帰ろう、あなたの家に。
冬の夜、銀月の空、雪の窓。あたたかなベッドの柔らかな中。おやすみ、おやすみ、可愛い子。
いい子、いい子、可愛い子。私の愛しい宝物。
柔らかい旋律に、胸がぎゅーっと引き絞られるようだった。
それは昔、泣いてばかりいる人間の子供をどう扱っていいか分からずに、不器用に抱き上げて歌った、魔女の子守歌だった。
ああ、娘よ。ラプンツェル。
私との暮らしは逃げ出したいほど、あなたにとって窮屈なものだったのではないの?
悪い魔女はいなくなって、あなたは思い人と結ばれて、可愛い娘まで生まれたのに、どうして幸せそうではないの?
生まれた世界が違って、人間として生きるほどに自分があなたにしたことが何から何まで間違いだったと分かってしまって。
ずっと、ずっと、あなたの幸せを祈ってきた。それしか、することが出来なかったから。
「ふぇ、ふええ……」
「アデル、泣かないで。大好きよ。大切な私の宝物」
魔女は身勝手で、一方的な愛情で菜園を囲うように美しく育った娘を囲って、誰にも奪われないように、逃げられないようにして、それが愛だと思い込んでいた。
だから、王子様が迎えに来て、娘は王子様と結ばれて、魔女がいなくなったあとはそんな暮らしを思い出すこともなく、ハッピーエンドを迎えてくれただろうと、ずっと信じていた。
私ですら、不器用に歌った子守歌なんて忘れていたというのに。
感情が溢れて、泣いて、泣いて、赤ちゃんの体が泣き疲れて眠ってしまうまで、ラプンツェルは歌い続けてくれた。
「愛しているわ、私の可愛い子」
魔女がとうとう、最後まで向かい合って伝えることの出来なかった言葉を、優しく、優しく繰り返しながら。




