13.使い魔と新しい手段
――なんでこんなことになったんだっけ。
いつもはチリひとつ落ちていないよく整えられた育児室が崩壊している光景を前に、そんな考えても仕方がないことを思ったのは、多分現実逃避だったのだろう。
吹き飛んだ立派な樫で造られた扉、パステルピンクの壁紙が貼られた可愛い壁には大きな亀裂が入り、飾ってあった風景画のフレームが大きく傾いている。天井からぶら下げられたシャンデリアは衝撃にいまだにゆらゆらと揺れていて、危なっかしいことこの上ない。
視線の先にいるのは、長い黒髪が魔素のエネルギーに煽られて逆立つように揺れている、いかにもな魔女と、魔力が飽和してぱちぱちと火花のような音を立てている中に佇む、まだ幼い容姿をした少年である。
どちらも殺気を隠すことなく溢れさせていて、魔女だった頃も一般人として過ごしている間も荒事には無縁だった私には、はっきり言って、ものすごくおっかない。
情操教育によくない日々を送っているとは思ったけれど、これはあんまりだ。アーデルハイドちゃんが普通のゼロ歳児だったら、夢に見て夜泣きが起きるレベルである。
ああ、本当に、なんでこんなことになったのだっけ。
ぴりぴりと赤ちゃんの柔肌に触れる、吹き荒れる魔素の嵐を感じながら、まだ平和だった朝日の差し込む、今朝のことを思い出す――。
* * *
春も盛りで、開け放した窓からそよそよと吹く風も心地よい日だった。
離乳食をもぐもぐと頂いた後はいつものように朝寝をするためベビーベッドに横たわり、マーゴやメイドたちの意識がこちらから離れたのを確認して、カーテンを揺らす窓の外に意識を向ける。
魔素を探れば、今日も育児室のある離宮周辺は人が少なく平和なものだ。意識を集中させるとひらひらと舞う蝶や走り回るリスの気配なんかも伝わってくる。
その中から目的の生き物を探して、ゆっくりゆっくり、庭園を意識で探る。
――いた。
アーデルハイドちゃんのいる離宮の庭は果樹が多いこともあって、生き物もそれなりに多く出入りしている。その庭木のひとつに止まっている鳥に意識を向けると、ぴょこん、とあちらもこちらに気づいたのが伝わってきた。
鳥は枝から羽ばたくとまっすぐにこちらに飛んできて、開けたままの窓から室内に入り、ベビーベッドの手すりに止まる。
全身が黒い小鳥だ。前世でいうと冬の雀のような丸っこいフォルムで、愛嬌のある顔立ちをしている。こちらでは黒ツグミと呼ばれている春に求愛の歌を歌う小鳥で、森でも街中の公園でもよくみかける種類だ。
赤ちゃんだからといつまでも手をこまねいているのも飽きてきたことだし、少し攻めの姿勢にでることにする。
『私はアーデルハイド、あなたとの間に使い魔の契約を結ぶことを希望する。名と寿命、五年後から毎日ひとつかみの果物を七年、その報いとする』
黒い小鳥はくるくると首を巡らせたあと、報酬の果物を十五年分とふっかけてきた。
これはアーデルハイドちゃんが責任をもって用意して差し出さねばならないものだ。王女の立場なので果物くらいどうにかなるとは思うけれど、一日でも途切れさせてそれに使い魔が不満を抱くと、契約者側にもそれなりのペナルティが与えられる。
魔女の庭園を持っている時は果ての見えない寿命があるし、庭に実る果樹から勝手に持って行ってもらえばいいので気にしなくていい程度の報酬だけれど、人間の身で十五年は中々重い。二十歳なんて、下手したらアーデルハイドちゃんは娘に孫を抱かせている可能性すらある。
『八年は?』
ビィ、と鳥が鳴く。十四年と半年と譲歩を見せて来た。
『……八年と半年』
ピィビィ、と十四年と伝えられ、何度か交渉を繰り返した結果、十年と七カ月と二週間で手を打つことになった。
まあ、なんとかなるし、何とかするしかないだろう。鳥も納得したらしく、ぴょんと手すりから、アーデルハイドちゃんの枕元に降り立った。
「んあ……」
後は契約として、この鳥に名前と一滴の血を与えればいいのだけれど、名前はともかく、血はどうすればいいのかとはたと気が付く。
アーデルハイドちゃんはお姫様だ。当然そのお肌には傷ひとつない。鳥に軽く突いてもらってもいいけれど、野生生物はばい菌が怖いし、なにより飛び込んできた鳥に突かれて怪我をしたなんてことになったら、マーゴやメイドたちが責任を問われることになりかねない。
歯で傷つけようにも、ようやく下の前歯に二本だけ、小さい乳歯が生えてきたばかりだ。この歯はとても薄くて、無理に指を齧ったら歯の方が折れそうでちょっと怖い。
ビィ、と鳥が急かすように鳴く。
――ええい、これしかない。
モゴモゴと歯の生えていない歯茎を擦り合わせて、なんとか薄い歯で唇の裏に傷をつける。ちょびっと痛いけれど、赤ちゃんの口の中は柔らかく、血の味がじわっと口の中に広がった。
今生初の出血である。痛みはそれほどでもないけれど、不快な感覚にはすぐに泣きわめきたくなる赤ちゃんの本能を抑えるほうが大変だった。
「んむ……」
後は指をしゃぶって唾液と血の混じったものを差し出すと、鳥はその小さいくちばしでつんつんと指をつつく。少量だけど十分だったようで、ふわっ、と鳥の黒い羽がさらにもう一段黒く染まり、漆黒の小鳥に変化した。
『私の名前はアーデルハイド。お前の名前はロビン。ここに主従の契約を成し、ロビンをアーデルハイドの使い魔とする』
ビィ、と再び鳥は鳴き、すっと一度ベビーベッドの手すりに飛び乗ると、そのまま入って来た窓から飛び去って行った。
目を閉じると、魔素を介していた時とは違い、風景がはっきりと頭に浮かんでくる。
鳥の視野は広く、かつ遠くまでかなり鮮明であり、紫外線を見分ける能力もあることから人間の目で見るのとは大分違うけれど、使い魔は血を介した契約なので分身のような存在でもあり、アーデルハイドちゃんが魔素を介して見ることが出来る外まで、どこまでも見に行けるのは大きな進歩だ。
育児室のある離宮の外の風景と音を拾うことが出来れば、得られる情報は飛躍的に増える。
それに、使い魔に鳥を選んだのは別の理由もあった。
これも上手く使えば、今後の状況の変化に役に立つだろう。
――よしよし、万事うまく行っている。
何より、自由に外を見ることが出来るのは、かなり楽しい。
まずは、ラプンツェルの部屋を探してみよう。
赤ちゃんの体感時間が長いこともあり、もう随分長く会えていない気がする。
体調が思わしくないと聞いているけれど、それも心配だ。
今どうしているのか、顔だけでも見たい。
――成人した王族の一人だから、王宮の深い場所か、もしかしたら別に離宮を持っているかもしれない。
高い位置から王宮を見下ろし、ゆっくりと降下する。
焦りが一番の難敵だ。娘に会いたくても、小鳥は人間の赤ちゃん以上に繊細な生き物だ。闇雲に探し続ければ使い魔の――ロビンの体力が先に尽きてしまう。
ロビンを操る時間は、一日に三十分。
それでも育児室でころころと転がり続けているよりは、気持ちの上で随分楽だ。
新しく手に入れた仲間と手段に浮かれる気持ちを抑えながら、視界はゆっくりと王宮の中に降下していった。




