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11.魔女の来訪

 その日もせっせと歩く練習をし、急に歩いてばかりでは怪しまれるとハイハイをしては連れ戻され、たっぷりとお乳を頂き、最近むずむずする前歯のあたりを手でいじったりしつつベビーベッドに寝かされてぽんぽんと優しく叩かれているうちに自然と目を閉じる、変わり映えのない日々だった。


 パパ、今日も来なかったなあ。なんだかんだで最近は三日に一度は顔を見せてくれていたのに。太陽がもう五回くらい昇ったり沈んだりしているのに、パパが育児室を訪れる気配もない。


 忙しい王族にとっては誤差の範囲といえばそうかもしれないけれど、赤ちゃんの体感時間ではとても長い日々だ。明日は来てくれるだろうか。ちゅぱちゅぱと無意識に指をしゃぶりながらそんなことを考えながら眠りに落ちた。


 そのまま朝までぐっすりのはずだったのに、頬に何かが当たる感じがして、熟睡から意識が引き上げられる。つんつんつん、とかすかな刺激とノックするような連続した動きにむう、とむずかりながら手で払うと、しばらくは収まるものの、しばらくするとまたツンツンツン、と頬をつつく感触がする。


「むうう」


 眠りを妨げられて嬉しい人はいないだろうけれど、赤ちゃんのそれは特に罪深い。寝返りを打つと、今度は後頭部を突っつかれて、それどころかピリッと痛みまで走った。

 髪を引っ張られた!? 正当なお姫様であるアーデルハイドちゃんの髪を!?


 さすがに驚いて目を開いて振り返り、暗い室内に漆黒の髪を垂らした黒い瞳の魔女がベビーベッドを覗き込んでいる姿に直面して、ぎょっと息を呑んだ。


「あらぁ、起きた?」


 暗がりの中、笑みの形になった真っ赤な唇にそう囁かれて泣きわめかない子供がいるだろうか?


 こんなのはもうファンタジーではなくホラーだ。ジャンルが違う。自慢じゃないけど私は前世が魔女だったというのにホラーは映画も小説もてんで苦手で、特に振り返ったら何もいなくてほっとしたのに再び前を見たら敵が立っていたというタイプのホラーは心底苦手なのだ。


「ひぎっ」

「静かにして、泣かないでちょうだいね。いえ、泣きたければ泣いてもいいけれど、人間の記憶を消すのを繰り返すと、壊れちゃうから、あんまりやりたくないのよね」


 人間ってすごくもろいのよねえと笑いながら言うのは、間違いなく先日王妃として対面したマルグリットだった。

 壊れるとはこの場合、泣きわめくことで飛んでくるだろう、隣の部屋に控えている乳母とメイドたちのことだろう。


 やると言ったらやる。魔女には駆け引きなどという概念はないし、そんなことをする必要もない。


 駆け引きが成立するのは、対等か、能力にそれほど大きな差がない相手とのみだ。人間と魔女では力の差が大きすぎる。人間と駆け引きをしようなんて物好きな魔女が、滅多にいるとも思えなかった。


 いるとしたら、人間に僅かな希望を与えて絶望する顔を見るのが好きというような、何の救いもない場合だけである。赤ちゃんの育児室に夜中に現れるような魔女が後者でないことを、今は祈るしかなかった。


「あ、あう~?」


 こてん、と首を傾げて、無邪気な赤ちゃんの不思議がる仕草をすると、マルグリットは同じ方向に首を傾げ、つんつん、とアーデルハイドちゃんの頬をつつく。


「むんう」

「つつかれるの嫌?」

「うん」


 普通にうんって言ってしまったけれど、マルグリットは納得したようで指を引いてくれた。


「人間の赤ん坊って、本当に小さいのね。こちらが何を言っているかも分からないし、何でもかんでもすぐに忘れちゃうって本当かしら?」


 実に魔女らしい疑問だが、そうした疑問を抱く理由は、とてもよく分かる。

 娘を育てていた時、人間の子供というものの脆さ、突飛さ、持続性のなさに何度も驚いたものだった。目で見たもの、耳で聞いたものの全てを忘れない魔女とはもう生き物の根本が違い過ぎる。


「私ねえ、貴女と仲良くなりたいのよ。長いことママに会えていないなら、そろそろママのことを忘れてしまったんじゃない? こうして会っていれば、段々私がママって気持ちにならないかしら?」


 なるわけない。微塵もない。その言葉自体、腹立たしい。


「んむぅ」


 苛立ちにまかせてころんっ、と転がってマルグリットに背中を向けると、手が伸びてきてむんずと片腕を掴まれて、あっと思う間もなく吊り上げられる形で体を持ち上げられた。


「あら、思ったより軽いのね」

「んむーっ!」


 なんてことをするんだ! 脱臼したらどうしてくれる!

 魔女は怪力だ。華奢な体躯で大岩くらい簡単に持ち上げてしまう。下手に暴れれば放り投げられてしまうかもしれない。


 冗談抜きで、赤ん坊や子供というものを経由していない魔女に子供の脆さは理解できないから、悪意なくそういうことをするのだ。


「やーなのっ!」

「あら、これも嫌なの?」

「やー、やっ!」

「ふうん」


 思った通りぽい、と放り出されたけれど、幸い柔らかいベビーベッドの上だったから、衝撃はあったものの、変な痛みが走ることはなかった。


 それにしたって最低最悪である。魔女と人間の赤ちゃんなんてブルドーザーと蟻くらい力の差があるのだ。ほんの少し力加減を間違っただけで、あっけなく三度目の人生が終わりかねない。


「ねえ、私のこと好きになれそう? 一日何時間くらい一緒にいたら好きになるかしら」


 なれるか、ばか。


 好感度で言ったら、今の時点でマイナス地点を遥か上に越えている。魔女の上に乱暴だなんて最悪だ。いいところがひとつもない。


「話の通じない生き物と毎日何時間も過ごすなんて、面倒よねえ。はぁ……」


 マルグリットは完全にこっちの台詞だと言いたいような勝手なことを物憂げに黒髪を掻き上げて呟き、パチンと指を鳴らす。発動した空間魔法で一人用のソファを出すとそこに座る。ついでに一人分の小さなテーブルにティーセット、小皿の上にはクッキーを山ほど出して、けだるそうに姿勢を崩していた。


 ――クッキー食べてる。


 魔女が飲食を必要しないとはいえ、別に出来ないというわけではないので嗜好品を口にするのは珍しくないのだろうけれど、少なくとも私は初めてそれを見た。ラプンツェルを育てている時も娘の分の食事を買ってきたり、作ることはあったけれど、一緒に食事をしたことはない――正直その発想すらなかった。


「あなたも食べる?」


 視線に気づいてマルグリットがくるくると渦巻に絞ったクッキーを差し出してくるけれど、首を横に振る。アーデルハイドちゃんはようやく離乳食を卒業するかどうか、その時期についてマーゴが悩み始めた、そんな時期だ。


 ほんのちょっとなら大丈夫かもしれないけれど、バターやお砂糖をたっぷりと使ったお菓子はまだ少し早い。お腹を壊したらマーゴたちにとても心配をかけてしまう。


 マルグリットも無理矢理口に押し込んでくるようなことはせず、そのまま突然忍び込んだ魔女は口を閉じて、クッキーを食べていた。一つ食べたらまた次、それを呑みこんだらまた次と、何を考えているのか分からない顔で黙々とクッキーを食べている。


 変に音を立ててこちらに再び興味が湧いても困るのでじっとしていたけれど、赤ちゃんの体感時間で耐えきれないほどの時間が流れたあと、ようやく一日のノルマを終えたような様子でマルグリットはソファを消して、体を翻す。


「じゃあおチビちゃん、また明日ね」

「ぶぅ」


 明日も来るつもりなのか。

 まさか毎日来るつもりなのか。


 そんな疑問に答えてくれるわけもなく、マルグリットは長い髪を揺らしながら、当たり前のように育児室のドアをくぐって出て行った。


 ここに来るまでに、それなりの警備がいるはずなのだけれど、魔女の前には物の数ではないのだろう。


「あぶぅ……」


 完全にマルグリットの気配が消えたことで、へなへなと全身から力が抜けた。小さな手をぐっぱっしたりうねうねと体を動かしてみて、どこにも痛みがないことを改めて確認して、ほっと息が漏れる。


 ――クッキー、すごい食べてたな……。


 もりもりと食べていたわけではないけれど、数時間黙々と食べ続けていればそれなりの量だ。途中で追加も出していたし、乙女が一日に食べる甘い物の量は遥かに超えていただろう。


 何をしに来たんだという目的は、仲良くなりたいからだと言っていた。


 赤ちゃんと仲良くなってどうするのかといえば、アーデルハイドちゃんがママのように自分に懐けば、養子として迎えるハードルが一気になくなるからだろう。


 人間の赤ちゃんを育てようとする物好きの魔女が、自分以外にいることもびっくりだし、それがあの心底人間に興味がなさそうな黒髪の魔女であることもおかしな話だ。

 何か目的があるのだろうけれど、その目的がさっぱり理解できない。


「ふわあ……」


 あれこれと考えてみたものの、気が抜けたせいか一気に眠気が襲ってきて、あくびが出る。

 アーデルハイドちゃんは赤ん坊である。一日の半分から三分の二は睡眠時間なのだ。


 マルグリットが毎晩ここを訪れるつもりだとしたら、何をされなくても死活問題だ。あんな魔女の横ですやすやと眠れるわけがない。よしんば眠れたとしても、見るのは間違いなく悪夢だろう。


 アーデルハイドちゃんの成長に問題が出たら、どうしてくれる。


 腹立たしくも絶対に拒絶したいところではあるけれど、少し考えてあまりの絶望的な状況にごろごろとベビーベッドの上で転がる羽目になった。


 これについて、誰かに助けを求めるわけにはいかない。

 ……あれは本物の魔女だ。誰かと鉢合わせればその人の記憶をいじることに、全く躊躇はないだろう。


 繰り返せば思考や感情が壊れると分かっていても、頓着するとも思えない。悪意もなく、悪気もなく、ただ邪魔だからそうする。人間にはなす術もない。


 だからこそ怖い。


 ラプンツェル、パパ、マーゴ、テレサ、サラサ、カミラ、エリナ……今世で関わっている人間はまだまだ少ないけれど、みんなアーデルハイドちゃんを大事にしてくれる、アーデルハイドちゃんの大事な人たちだ。


 赤ちゃんでも、大事な人は守りたいのだ。


「姫様、あら、早起きですね」


 メイド服を着た専属メイド四人の最年長、お姉ちゃんのような落ち着きのあるテレサが育児室に入ってきた。

 無性にほっとして、思わずぶわっと涙があふれてしまう。


「ぶうう、うわーん!」

「あらあら、ご機嫌は良くなさそうですね」


 困ったようにそう言って、優しく抱っこされてゆらゆらされているうちにマーゴがやってきて、たっぷりお乳を貰った後は、ちょっとだけ離乳食も食べて、半ば気絶するように眠ってしまった。


 嵐の海に放り出された一本の藁しべの気分だけれど、自分と周囲の人間を守るために、なんとかしなければ。

 焦りばかりが募って、その日は一日中眠り続けて、マーゴとメイドたちを心配させる羽目になってしまったのだった。


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