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5話 描かれた海(3)

 

 次の日、お父さんが東京へ帰った後、天蓋付きの豪華なベッドで横になっていたわたしに、伯母さんが素敵なお誘いをしてくれた。


「昨日言ってたアトリエ、見たくない?」


 ドアからひょいっと顔を覗かせた伯母さんは、昨日と同じイタズラな笑みを浮かべていた。


 わかっている。この誘いもきっと伯母さんの『カウンセリング』の一部なのだろう。でなければ、いきなりグイグイ来る理由がない。扱いづらいわたしを扱いやすいわたしに変えるための手段なのだ。伯母さんから出ている線は緩やかだけれど、ないわけではない。伯母さんもわたしを内側には入れてくれない。


 だけど、アトリエへの誘いは魅力的だった。


 あの部屋には何がある?


 気になって、仕方がなかった。だから、わたしは頷き、伯母さんの誘いに乗ったのだ。


 アトリエへの扉は鍵がかかっていた。その扉はまるで異世界にでも続いているようだ。金属製の回すタイプのドアノブに、前方後円墳の形をした鍵穴。いかにも、ファンタジーで出てきそうな扉である。


「それじゃあ、開けるね。ふふ、絵を見られるのって、自分の内側を見られるみたいで、なんだかちょっと緊張しちゃうね」


 ギギギギッと大袈裟に音を立てて、扉が開く。その瞬間、まばゆい光がわたしの目に直接飛び込んできた。出窓から夏の激しい光が存分に差し込み、室内を眩しいほどに照らす。


「あ、いけない! カーテン閉めるの忘れてた……!」


 伯母さんは慌てて薄手のカーテンを閉めると、少しずつ目が世界に馴染んでくる。わたしは薄っすらと目を開けた。


 細い視界に現れた景色に、心臓の鼓動が速くなる。ドグドグと身体中に血液が巡る。


 そこには海があった。


 どこまでも続く真っ青な海。澄んだ青空に、真っ白な雲。そして、潮の匂いと波の音。


 わたしは大きく目を見開き、瞬きをした。


「海だ……」


「そう、海。好きなんだ、海を描くの」


 激しく打ち付ける心臓を抑えるように深呼吸をして、辺りを見回す。よく見ると海ではなく、たくさんの海の絵が壁に立てかけられていた。


「本物かと思った……」


「本当? ふふ、嬉しい。そう言ってもらえると、頑張って描いた意味があるなぁ」


 声に出すつもりはなかったのに、言葉が口からこぼれていた。本当に、本物だと思った。この小さなアトリエに海を閉じ込めているのだと、本気で思ってしまった。そんなこと、絶対にできるはずがないのに。


「プロじゃないから、そんなに上手くないんだけどね。でも、無性に海の絵を描きたくなる時があるの。そういうときに、ここで絵を描くんだ」


 伯母さんが目を細め、優しくキャンパスの端を撫でる。


 この部屋も他の部屋と同じように何かコンセプトがあり、綺麗に整えられているのだとばっかり思っていたが、違った。絵画の並びなんて適当だし、床には絵の具があちこちに飛び散って、画材道具も乱雑に置かれている。どの部屋よりもごちゃごちゃで、汚い。


 どの部屋よりもシンプルで、汚れていた。


 伯母さんはキャンパスをガサゴソと綺麗に並べる。わたしに見てほしいのだと、言葉にしなくてもわかった。わたしは並んでいく絵画を見つめる。胸を張り、背筋をピンっと真っ直ぐに伸ばして、立ってみる。そうしないと、ここにある絵に失礼な気がしたのだ。


「ちょっと、珠海ちゃん。そんなに改まらないで。ほんと、ただの落書きなんだから」


 伯母さんが苦笑いする。だけど、この絵たちは落書きなんかじゃない。本物だ。


 全て海の絵なのに、全て海の顔が違う。浜辺からの海を描いているもの、海中を描いているもの、水平線を描いているもの、ロケーションにバリエーションがあるのはもちろん、海を表す色が全て違った。透明感のある青色と冴え渡るような水色と紺色と紺碧。すべて同じ『海』の風景なのに、キャンパスに映る海は、全て違う。


 目の前に並ぶ多種多様な海に目が釘付けになる。目が、離せないのだ。


「海って、いいよね」


 伯母さんがつぶやく。わたしは黙って頷いた。


「海って全てを包み込んでくれる気がしない? この海の広大さに比べたら、私の悩みなんてちっぽけだー、っていう気持ちになっちゃうの。……なんて、ちょっとありきたりだね」


 伯母さんは笑った。子供っぽい笑みだ。眼鏡越しに目尻の柔らかな皺が見える。


「ここの部屋はね、窓を開けると波の音が聞こえてくるの。ほら、耳をすましてみて」


 伯母さんが窓を開ける。ふわりとレースのカーテンが膨らんだ。生暖かい風が頬にあたる。わたしは目を瞑って、耳をすました。


 目を瞑って、神経が耳に集中させると、音の感覚が研ぎ澄まされる。先ほどまで意識していなかった空調の音、蝉の声、カーテンが擦れる音が耳の奥に届く。わたしの世界は音で溢れていることを実感するのだ。


 ざざー……、ざざー……。


 音が揺れる。風の動きに合わせて、波が引く音が聞こえる。


 ざざー……、ざざー……。


 今にも消えてしまいそうな音だけれど、確かにその音はあった。湿った穏やかな音楽がわたしを包む。


 海の音って、いいな。海が近いって、いいな。


 海には『いい』がたくさんある。うん、すごくいい感じだ。


 わたしは心地よい心持ちのまま、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


 あれっ?


 不自然に棚の奥に押し込められたキャンパスが目につく。他のキャンパスは全て床に置いてあるのに、一つだけ、無造作に棚に置かれているのだ。吸い込まれるように、わたしの手がキャンパスに伸びた。


「あっ……」


 息を呑んでいた。


 心臓が荒れる。その音が鼓膜に響き、うるさい。


 どくん、どくん、とわたしの心を乱す。


 イルカと少女の絵だった。


 夜の海で、灰色のイルカとキラキラと輝くショートカットの儚げな少女が見つめ合っている。紫、水色、藍色、黒と様々な色が混じったブルーが淡い光を弾き、点々と散りばめられた真っ白な絵の具が、星々と海と少女とイルカを光り輝かせている。


 美しい、絵が上手いという枠に当てはまらない。圧倒される。迫力がある。生命がある。この少女とイルカは生きている。


 少女はイルカを見つめているのに、わたしを見つめている気さえした。


 美しい。きれいだ。


 それ以上の言葉で表したいのに、この絵にぴったりな言葉が見当たらない。


 どうしてこんなに美しい作品なのに、奥にしまい込んでるの?ここにあるどの作品よりも素敵なのに。


「ああああ! これは駄作だから!」


 叔母さんの声が耳に滑り込んできた。キャンパスがひったくられる。


「あっ……」


「これは、ほんっとうに、駄作なの。人に見せられれるレベルじゃなくって!」


「えっ、でも……」


「あー、もう、恥ずかしいもの見せちゃったなぁ……。お目汚し、失礼しました」


 伯母さんがお辞儀をして、おどけて笑う。伯母さんの前にある線が初めてぴんっと張り詰めた。


 見ないで。


 伯母さんがキャンパスをしまう背中に、拒否が張り付いている。


 これ以上、この絵に踏み込まないで。


 拒まれた。「すごく、上手いです」「わたしはこの絵、好きです」という賛美の言葉が、しおしおになって、腹の奥へと沈んでいく。拒絶は、怖い。嫌いだ。


「海、見に行く?」


 それは唐突な問いだった。


「えっ?」


 言葉が詰まる。あんなにはっきりと拒絶をしていたのに、いきなり何を言っているんだろう。


「絵の海じゃなくて、本物の海」


 わたしと伯母さんを隔てる張り詰めていた線は、いつの間にか緩んでいた。伯母さんは優しい眼差しでわたしを見つめている。


「海、行こうよ」


 開いた窓から風と共に、熱気が入り込む。熱気にはほんのりと潮の匂いが混じっていた。


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