ある部屋の少女
せまく殺風景なアパートの一室で、その少女はぼんやりと目をさました。
薄いカーテンなど無いものかのように激しい日差しが部屋に差し込んでいる。体中が湿ってシーツが張り付いていた。髪の毛がうっとおしい。
重い体を引きずりながらキッチンに行くと、キャラクターが描いてあるプラスチックのコップで水道水を飲んだ。昼近い時刻。ふうと一息つくとまたずるずる布団に戻り、また目をつむる。
起きたところで少女には何もすることがなかった。学校にはいかず、親もいない。記憶にあるのは将来のために勉強しなさいという姿ではなく、女であればいくらでも生きていける道があるという実体験に基づく楽観視であった。その言葉に従い生きてきて、思ったようにはならなかったが、それであっても少女は自分の現状に満足していた。必要があれば働くが、そうでなければ家でぼんやりとしている。
1LDKの5畳の部屋で、子ども達の歓声や酔っ払いの咆哮を眼をつぶって聞くのが少女は好きだった。何もない部屋は何もない分汚れもしない。バランスの取れたよい生活。
それであっても、少女の部屋はあまりにも暑すぎた。すっかり汗でぬれたシーツは肌を取り込もうとするかのようにしつこく、伸ばしっぱなしの髪の毛はわずかな動作にも反応して首を絞めるかのように巻き付き、うっとおしかった。工場のラインだと風が通って多少涼しいが、ちょうどこのまえ辞めてきたところだ。図書館や公民館など金のかからない冷房の効いたスペースがいくつか頭をよぎったが、あまり気は進まない。
新しい手段を思いつこうとぼんやりした頭でのんびり考えていると、とんとんとんとん、と足音が聞こえてきた。古いアパートの廊下は人が歩くとすぐわかる。少女は思考を止めて、音に集中した。そのうち、少女の部屋のドアが、ガコン、と音を立てた。足音は同じリズムで遠ざかっていく。それが聞こえなくなると少女はドアの方に向かった。
その日届いたのは二通。水道管修理の宣伝チラシと市役所の月刊誌だった。宣伝チラシは丸めてゴミ箱に、月刊紙は布団にもっていきペラペラめくった。
特に面白いと感じている自覚は無いが、気づけば各ページの情報を眼で拾っていっている。うち一ページは求人に関するものだった。英会話教室のイベントの受付を募集するものが目に入った。なぜ目に入ったのかというと、その会場が、少し遠く、大きい図書館で、春ごろに行って一度職員に声を掛けられた覚えがあるからである。それから足は遠のいていた。見れば今月から週に二度行われ、その際午前10時から16時まで、やってくる子どもの確認と電話の受付をしていてほしいらしい。少女の避暑のためにあるような仕事だった。
少女は充電器に指しっぱなしの携帯電話を手に取り、さっそく電話をした。電話番号がなければ仕事がもらえないというわけでは無いが、いちいち「もっていない」と答える時に理由を考えるのが面倒で買ったものだ。
こういう求人が当てにしているのはボランティア精神でくるような年配かもしれない。平日の昼間から若い自分に受付をさせてくれるかどうか分からなかったが、それならそれで別に困ることはないと少女は思った。ところが電話にでた担当者は、住所と名前を聞いただけで「分かりました。では本日の16時に図書館まで。書類を書いていただくので。よろしくお願いしますね」と会話を終えてしまった。まだ若い新入社員でただぼんやりと仕事をしているのかもしれない。
疑いながら予定の時間に図書館に行くと、若い男性の職員が電話と同じ声で、「この度はありがとう。こちらで書類をご記入ください。印鑑は持っておられますか。」と中に通してくれた。人と話すことも久しぶりな少女は、言われるがままに書類に記入していき、最後に100均で買った印鑑を押そうとするところで声をかけた。
「あの、いいんですかね」
「何がですか。印鑑ならなんでもいいんですよ」
「そうじゃなくて、私、若いですけど」
「えっと、いいですよ」
「お客さんに変な目で見られるかもしれないですよ。私、頭悪いし、使えないかも」
「本当は、やりたくないんです?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「だったらお願いします。ずっと募集してて。全然来なかったから困ってたんです」
なんというか、抵抗感の無い男だった。経験が浅く、私を採用するのも一人で決めてしまったのかもしれない。何か問題が起きればすぐにまた新しく募集を開始するだろう。それまで三回でも暑さを免れればいいか。
結局そのまま印をして、少女は来週から働くことになった。
仕事は、月刊誌に書いてある通りだった。やってくる子どもの名前を確認して、ときどきかかってくる電話をうけ、問い合わせにはパンフレットに書かれてある情報を説明し、参加希望者には面談するスケジュールを立てる。接客の仕事にはついたことのない少女にもできるような簡単な内容だった。
それでも少女は時々ミスをした。名前とずれた欄をチェックして、既に参加している子どもの親に欠席の問い合わせの連絡をして混乱させたり、スケジュールを重複した時間に取ってしまったりした。そのたびに親や社員に説教をされたが、それすらも新鮮で、目論見通り涼しい居場所を確保したのもあって、少女は満足していた。
叱られ、苦情を受けながらも結局最終日まで受け付け業務をした。最後の日、手続きの時の若い男性がやってきた。
「ありがとうございました。いや、終わってよかった。駅前の本スクールに入ってくれる人も結構いたし、大成功だったなあ」
喜ぶ男性に曖昧に返事を返した。ずいぶんと涼しくなっていた。少女の頭はすでにあの殺風景なアパートの一室にあった。
「受けてくれて助かりました。ミスは多かったけどなんていうかな、やってくる親御さんたちと年が近いからかな、やっぱり安心感がありましたよ。僕の目論見どおりだったなあ」
男の顔を見上げた。よく見ると目尻にしわがある。
「またここでやる時には、よろしく」
握手を求める手には年季のはいった結婚指輪がはめられている。それに握手と曖昧な返事を返すと、少女は帰っていった。