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10. 桃参保育園は夜討ち朝駆け(前編)

 奈々は文字通り、夜討ち朝駆けを実践した。

 夜討ちは昨晩に実行済で、今はその朝駆け中である。

 まだ日は登ったばかりで、昼間の白い月が溌剌と急ぐ制服姿の奈々を追いかけて応援する。

 土夏屋敷に着くや否や、慎重に玄関のドアを開けると忍び足でキッチンへと向かう。

 荷物を置くと、傍と思い出して、まずは天女に挨拶だと仏間に向かった。

 入って直ぐに違和感を覚えた。焼香の残り香が強すぎる。透達は毎朝一回の筈だとの認識だった。奈々はたまたまかと気にせずに焼香を済ませる。

 キッチンに戻って洗い物がちゃんと終わっているかを点検する。内心で透を褒める。

 食器棚に収納する時、また違和感を覚える。奈々が卸していない湯飲み茶碗が四つ多い。

 奈々は昨晩の来客を確信した。透の分を入れて四つなら、客は多分三人だ。奈々の勘で与音の顔が浮かぶ。

 奈々は嫉妬程ではない集躁を感じた。

 気にしても仕様がないと朝食の準備へと体を動かす。

 納豆、焼き海苔、白菜の浅漬け等は買ったものを盛り付けるだけだ。

 手間が掛かるものは前日に調理済みでタッパーを並べると、適量を皿に移す。

 味噌汁を作り終えた頃だった。

 突然、二階から鈴の歓喜が漏れた。少しして、階段を降りる二人の足音が聞こえ始める。鈴の足音が急に走った。

「ななちゃ~~ん!」鈴が叫んで駆け込んできた。

 迎える奈々に飛び込む。

「すずねー! おねしょしなかったよ~! すごいー! えらいー!!」

「え~! ほんとに~! すごいすごい! えらいえらい!!」頭をがしがしと撫でる。

 鈴がくしゃくしゃの髪で満面に笑う。

 奈々が天使の歓喜に天女てんにょの祝福で答える。

 奈々が綺麗に梳いた髪で満面に笑う。

「鈴ちゃんは、偉いなあ~ 奈々ちゃんが今度、ご褒美あげるね」

「うん、でも、ごほうびなら、おとおさんにあげてよ」

「え! なんで」

「すずのおねしょ、なおしてくれたの、おとおさんだから~」

「え! それはどういうことなの?」

 透が現れた。

「おはよう、奈々」

「おはよう、透くん」

「あっ! 鈴ちゃんもおはよう」

「ななちゃん、おはよう」

「味噌汁の匂いで飛んできたよ。朝早くからありがとう、奈々」

「いいえぇ、それより透くん! 奈々ちゃんがおねしょ治ったって、お父さんのお陰だって言ってるけど、どういうことなの?」

「それは、長くなりそうだから、朝御飯食べながら話すよ」

「え~ すっごくすっごく気になるんだけど! 仕方ないなぁ~ ごはんはもう少しで出来るから、早く準備してきちゃってよ」

 透と鈴が終わりかけてる食卓を見る。

「おおぉ~」父娘で唸る。

 立派な和食膳に目を輝かせると、颯爽と消えた。

 追い払う様に去らせた後、二人の好感触に期待以上の手応えを感じた奈々は、押し寄せる多幸感に恍惚の表情を浮かべた。

 奈々の綺麗な黒髪に天使の輪が輝き、昇天する。

 やる気がみるみる湧き上がり身震いさせると、背中から羽を生やす。

「よ~し! がんばるぞ~~」天使の号令を放つ。

 軽くなった体は迅速に奈々を動かし、瞬く間に終わらせてしまった。

 後は目玉焼きに余熱で火が通るのを待つばかりだ。

 待ちきれない奈々は、洗面所へ飛ぶ。

「透くん? 鈴ちゃんの準備、わたしがやるから、鈴ちゃんちょうだい?」

 隣で丁度、洗面が終わった鈴を奈々が掴む。

 鈴のみだれ髪を梳きながら奈々が言う。 

「あれ? 鈴ちゃん、昨日、お風呂入ってないの?」

 鈴が気まずい表情をする。

 隣の透が答える。

「昨日、奈々が帰った後、寂しがって少しぐずってね、そのまま寝ちゃったんだよ」

「え! やっぱり……わたしのせいだ。ごめんね、鈴ちゃん」奈々の手が止まる。

 鈴が寂しい表情をする。

 透が案じて言う。

「それも、おねしょが治った事と少し関係があるんだよ、後でゆっくり話すから」

「そうなの? 透くんにも、迷惑かけてごめんね」

 奈々の少し俯いた顔が丁度、鈴の髪に鼻が近づく。

 奈々が鈴の髪の匂いを嗅ぐ。

「別に、一日ぐらい大丈夫か?」

 鈴が恥ずかしい表情をする。

「臭くなんかないからね~ 気にしなくてもいいよ~」

 奈々の手が慌てて動き、鈴の髪を編んでいく。

「ありがとう、奈々。俺、鈴の髪、編めないから」

「別にいいんじゃない、出来なくても。これからもわたしがやるから、逆に、出来たら、なんか気持ち悪いよ」

「うん、それもそうだな」

 奈々はせっせと編んでいく。

 透は洗面が既に終わり、奈々の仕事を眺めて鈴を待つ。

 奈々がちらりと透に横目を向けると言った。

「ねえ、透くん? 昨日、夜、誰か来たでしょ? それも三人?」

「え! 何で知ってるの?」

「覚えのない湯呑が四つあったから」

「ほ~ 結構、目敏いんだな。その通り三人来たよ。別に隠す事じゃないから正直に言うけど、一人は与音ちゃんだ」

「やっぱり!」

「やっぱりの意味が解んないけど、その件で、奈々にちょっと相談が、否、お願いがあるんだけど、詳しい話はそれも後で」

「も~ 後で後でばっかし、そんなにヤキモキさせないでよぉ~」

 しゃべりながらも手を止めなかった奈々が髪結いを終わらせる。

 鈴が問いかける様な目を透へ向ける。

 透が父親の目で娘を見据える。

「それじゃあ、お着替えに行くよ~」奈々の号令、二号発動。

 透はしばし悩んで一人で自分の部屋へ、奈々は選択の結果で鈴の部屋へ、鈴は奈々に拾われ自分の部屋へ、それぞれ支度の退治に向かう。

「ななちゃん? すず、じぶんでできるよぉ?」別にもたもたしてる訳でもないのにと言う。

「いいのよ鈴ちゃん。今日は、奈々ちゃんにお着替えさせてよ。今日だけは特別なんだからさぁ」

 鈴の了解なく、強引に着替えを進める。

「おとうさんねぇ~ おんなのこ、いじめたんだって~」突然、鈴が告げ口を始めた。

「へぇ~ その子は誰だか判る?」

「うん、しょこなちゃんていうんだって」

「そうなんだ~」

「ななちゃんも、いじめられたら、おとうさんに、めってしてあげる」

「ありがとう、鈴ちゃん。それより、今晩は、鈴ちゃんのおねしょが治ったお祝い、しないとねぇ。鈴ちゃんは何が食べたい~」

「うんとぉ~ ハンバーグぅ」

「え~ 今日は別のにしようよ~」

「じゃあ~…… ななちゃんが、とくいなのがいい~」

「そっかぁ~ じゃあ、夜までに奈々ちゃんが考えておくねぇ」

「うん、わかったぁ」

「それで、鈴ちゃん。お父さんはどうやっておねしょを治してくれたの?」

「え~とね、おとおさんのせいなんだって、おとおさんがきがついたから、もうおねしょしないよっていったの」

「ん? わかんないよぉ」奈々の口が蕾む。

「え~とぉ~ すずもよくわかんない」鈴の口も蕾み、首を傾げる。

 透が入って来る。

「支度、終わったか?」

「ちょうど、今、終わりました~」

「保育園の準備はその鞄に纏まってるから、そのまま持って行って」

「わかった」奈々が、透が指す鞄を見る。

 奈々より先に鈴が走り寄り、鞄を抱える。

 鈴がにこりと笑う。

「じゃあ、ご飯にしよっかぁ」奈々が微笑み返す。

 階段を下りると透が言った。

「先に天女の挨拶を済ませちゃうね」

「わたしは済んでるから先に行ってる」

 透と鈴が仏間へ消える。

 キッチンで待ち焦がれる奈々は、フライパンの目玉焼きの加減を確認する。

 三つに切り分け皿に盛るとそれぞれの席へ配る。

 味噌汁とご飯をよそって配膳する。

 食卓に湯気が立ち込める。

 二人が帰ってきた。

 父娘が食卓の暖かさと明るさと優しさに目を輝かせる。

「やっぱり、ちゃんとした朝御飯って、大切だな。俺の用意した味気ない朝食とは雲泥の差だよ。なんか今日一日が楽しくなりそうだ。ありがとう、奈々」透がそう言って、席に着く。

「すご~い、おいしそ~」鈴がわくわくと席に着く。

 奈々が謙虚に照れる。

 透が詠う。

「いただきます」いつにも増して元気な唱和。

「ん~~! やっぱり炊きたてご飯は最高だな。奈々ありがとう。とっても美味しいよ」

「ななちゃん、おいし~い! ありがとう」

 奈々の目にみるみる歓喜が湧き上がる。

 二人に必要とされる、しあわせ。

 二人に感謝をされる、しあわせ。

 二人と一緒にいられる―――しあわせ!

 奈々の親愛がでれでれに溶けていく。

 奈々が透へ視線を向ける。

 何となくこの幸福が、透への恋愛とは別物だとの認識が悲しく過ぎる。

「奈々、早く食べないと、時間がなくなるぞ」

「はい」奈々が慌てて口に運ぶ。

「そういえば、目玉焼きは半熟だけど、半熟は嫌い? ダメだったら火を入れ直そうと思ったんだけど?」

「いいね、半熟。やっぱり目玉焼きは、片面半熟だろ」

「すずも、はんじゅくぅ~」

「よかったぁ。結構、半熟が嫌いな人っているんだよね。嗜好が一緒で良かった~ 作る時が楽だもん」

「あと、目玉焼きに掛けるのは、醤油? ソース? それともマヨネーズ? 一応、醤油は用意したけど、訊いてから出そうと思って」

 丁度、透が暖かご飯の上に目玉焼きを載せ黄身を割る。黄金色の黄身がとろりと広がった。

「醤油だな」透はそこに醤油を垂らし頬張る。

「すずも、おしょうゆ~」

「半熟ならではの、この独特な甘味と旨みが最高だよな~ 後、白身のプリプリ感もたまらないぞ」 透の顔が幸福に緩む。

 奈々はその笑顔に微笑み返す。

「あと、今日は出してないけど、生卵は大丈夫?」

「すず、たまごかけごはん、だいすき~」鈴が食い付く。

「俺は、普通かな」

「結構、人は家庭環境によって好みが別れるからね。これからもどんどん好みは覚えていくからね」

「ありがとう。奈々の気配りがすっごく伝わってくるよ」

「でも、よく考えたら、わたしって、和食のレパートリー余りないのよね」

「あ~ それね、別にご飯と味噌汁があれば後はなんでもいいんだよ。そんなに拘わりはないから。只、パンだとさ、胸焼けがしたり、腹持ちが悪くて直ぐお腹が減ったりするんだ。なんか体質に合わないんだよな」

「わかった。よ~く頭の隅に入れておくね」

 奈々は話に夢中で食事が捗っていない。

「奈々、箸が動いてないぞ」

 透の言葉に奈々が慌てて食事を再開する。

 透がその隙を突いて訊く。

 透が食卓を見回すと言った。

「レパートリーが少ないって、これだけあれば充分だろ。これ全部、奈々が今、作ったのか?」

「金平とお浸しと胡麻和えは、家で朝作って持ってきたの。それ以外は昨日作っておいたの」

 奈々は自慢気にはにかむ。

「奈々は何時から起きてるんだよ?」

「ん~ 四時かな」

本気まじか……」透が驚愕に固まる。

 みるみるとその表情が優しく綻んでいく。

「ありがとう、奈々。そこまでしてくれて感謝もしきれないよ。本当に、ありがとう」

 奈々の目がじわじわと潤む。

 奈々にまた、歓喜が巻き起こる。

「何かで今度、お礼しないとな」

「それじゃ~……」

 奈々が真に欲しいのは、透の愛情。

 その気持ちをぶつけて、叶えて欲しいと云う甘えが湧いてくる。

 けど、透の時間をくれと言う言葉が伸し掛かった。

 自分の我儘で、もう、これ以上、透を困らせたくはないと云う気持ちに置き換わると、昨日みたいな事はつとに慎もうと心に誓う。

 奈々は、今のままでも充分だと、自分を戒める。

「じゃあ、いっぱい、いっぱい、色んな所に連れてってよ」

「解ったよ。鈴にも一杯、色んな所に連れてって上げたいしな」

「やった~ 奈々ちゃん、ありがとう」

 既に食べ終わった透が立ち上がる。

「奈々、鈴、時間がないから、早く食べろ」

 奈々はおしゃべりを止め、食事に集中する。

 鈴は急いでる仕草だが、余り変わらない。

 透がお茶を淹れて持ってきた。

 奈々の前にも一つ、湯飲み茶碗を置く。

 奈々が傍と、湯飲み茶碗で思い出す。

 奈々は、後で話す話題の件を脇に置いやる程、楽しい朝食に夢中になっていた。

「おかわり~!」鈴が茶碗を突き出す。

「つぎは、たまごかけごはんがいい~」

 奈々が嬉しそうに手を伸ばす。

 透の手が奈々の手より先に茶碗を掴む。

「鈴、残念ながら、時間切れだ。もう行く時間だ」

「うぅ~うん」口を尖らせる。

 鈴が奈々を見る。

「鈴ちゃん、ごめんね。次からはもっと余裕を持って、ご飯にするね」

 鈴の不満の表情は変わらない。

 奈々には子供らしい甘えを見せる。

 透が聞き分けのいい鈴にいぶかしむ。 

「鈴ちゃん。これ見て~」

 奈々が鞄から箱を三つ取り出した。

「はい、お弁当。透くんと鈴ちゃんのお弁当箱、勝手に使っちゃったけど、大丈夫だった?」

「わ~い」鈴の顔が綻ぶ。

「弁当まで作ってくれたのかよ。ありがとう、奈々」

「ななちゃん、ありがとう」

 奈々は、弁当箱を配らずに自分の鞄に戻す。

「それじゃあ、合掌」

 透が唄を詠む。

「ごちそうさまでした」

 一斉に全員が立ち上がると食器を片付ける。

「時間無いから、洗い物は帰ってからにしよう」

「解ったわ」

 奈々が鈴と透の運んだ食器を次々受け取る。

 自分一人で世話を焼くのも良いが、こうやって共同作業に拠る一体感も堪らないものがある―――と益々、奈々の機嫌が良くなる。

 にこにこ顔の奈々が最後に着席すると、透の淹れた茶で一時の落ち着きを取り戻す。

 奈々が至福の吐息を吐くと透を見詰める。

「透くんが淹れたお茶は、相変わらず美味しいね」

「どういたしまして」

 透が時計を気にする。

 奈々が頷く。

「それじゃあ、今日も元気に行くよ~」奈々が両拳を握り構える。

「それでは~ しゅっぱ~つ!」勢いよく右手を突き上げる。

「しゅっぱ~つ!」鈴も拳を突き上げる。

「おー」透も釣られて、握った拳を小さく突き出す。

 奈々の号令、三号発動と共に、装い改まった三人での新生活が始まった。


 鈴の保育園は徒歩三十分程の所にある。両脇を透と奈々に挟まれた鈴の歩速で丁度、三十分で到着する。

 保育士志望の奈々は興味津々と目を輝かせて[桃参とうしん保育園]の門を潜る。

 透と鈴にくっついて辿り着いたのは[桃組]の教室。

「おはようございます」透が先に進む。

「おはようございます!」鈴が元気にご挨拶。

「おはよう、ございます」奈々がたどたどしく続く。

「リンちゃ~ん!」銀髪少年が駆け寄る。

 寺見先生にそっくりな少年が鈴の前に辿り着いた。 

「レンくん」鈴が赤面しながら手を差し伸べる。

「リンちゃん」いきなり抱きついた。

 透と奈々が唖然と見詰める。

「助清くん、おはよう」透が引き剥がす。

 レンくんこと寺見助清君が透の存在に気が付いた。

「あっ! おはようございます、リンちゃんのおとうさん」

 お行儀良くお辞儀をすると隣にいた奈々にも気付く。

 奈々を不思議な顔で見詰める。

 奈々が言いたい事を察知して自己紹介をする。

「はじめましてスケキヨくん。千横場奈々です。奈々おねえちゃんって呼んでね。わたしは鈴ちゃんのお母さんの……妹なの、よろしくね」奈々が屈んで微笑む。

 奈々の微笑みに突然、赤面して照れ始めた。

「て、てぇ、てらみすけぇきよ、で、すぅ……」どもりながらもちゃんとお辞儀をする。

 鈴が脇で頬を膨らます。

 奈々が慌てて鞄から弁当箱を取り出す。

「はい、鈴ちゃん。お弁当よ」

「ありがとう、ななちゃん」

 忽ち鈴の機嫌が直る。

 奈々が助清君に視線を移す。

「スケキヨくん? 鈴ちゃんはね、この間お母さんを亡くしたばかりなの。だから、できるだけ気にしてあげてくれないかな?」

「は、はい。おそうしきにもいったんで、しってるよ」

「じゃあ、スケキヨくんは鈴ちゃんと仲良しだよね。だから、お願いね、優しくしてあげてね」

「うん、もちろん。おかあさんにいわれて、どんだけつらいかわかったから……」

「そうなの、すでに気にかけてくれてたんだぁ。ありがとうね」

「……おかあさんがいったんだ。いまおかあさんがしんじゃっていなくなったら、どうするって。ぼくだったら、ぜったいがまんできないよ。そんなのイヤだよ。だから、リンちゃんは、ぼくがまもるんだ!」

「うふふ。そう、じゃあ~ 鈴のこと、お願いね。レンくん?」

「うん、まかせてよ、リンちゃんのおかあさん」

「え!!」

「だって、おべんとうつくるのはおかあさんでしょ」

 レンくんはリンちゃんの手を引いて友達の輪の中に消えていった。

 奈々は驚愕の表情から陶酔の表情に変わると、その場に立ち尽くす。





トトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトト





 奈々の保護者面を眺めていた透が奈々の手を引く。

「ここが鈴の場所だよ」

[どなつすず]と書かれた棚にある籠の中に鞄を格納しまう。

「帰りにはもう一つの鞄に使用済みのタオルや洋服が入ってくるから、それを洗濯物として持って帰るって塩梅だ。聞いてるのか、奈々?」

「うん、聞いてるよ」奈々が虚ろな表情にもちゃんと応える。

 透が半信半疑に見詰めていると、機会を伺っていた様に職員が近づいてきた。

「おはようございます、土夏さん。この度は奥様がお亡くなりになりご愁傷様でした。お悔やみ申し上げます」中年に差し掛かった女性職員が透に丁寧な挨拶をする。

 天女情報では、この浅場あさば先生は早番専任の臨時職員でかなりのベテラン保育士だそうだ。

「おはようございます。この度は天女の件で色々お世話になりました。初七日も終わってやっと落ち着きましたので、今日からまたお願いします」透も丁寧な挨拶を返す。

「はい、お願いされました。それで……そちらの方は?」

 浅場先生が奈々を見ると奈々が一歩前に出る。

「はじめまして、千横場奈々です。鈴ちゃんのあ母さんとは親戚で妹のようなものです。これから度々、鈴ちゃんの送り迎えをする事になりますので、よろしくお願いします」

「まぁ~ ナナ? 私も菜々って云うのよ。はじめまして、浅場菜々(あさばなな)です」

 挨拶を返すと慌てて透を向く。

「土夏さん、そう云えば、今回の件で色々手続きが必要になったので事務室までご足労願えますか。お時間は取らせませんので」

 浅場先生が単刀直入に要件を切り出した様は、色々訊きたい事はあるが忙しい朝には不躾だと云う気遣いが伺える。

 透が頷くと浅場先生が事務室に向かう。

 付いて行く透に奈々も連なる。

「浅野さん、土夏さんをお連れしました。後はお願いします」

 事務室の扉を開くと透達を誘う。

 入口近くの席に赤ら顔の初老男性が居た。

 不機嫌な仏頂面でこちらを向く。

 もう一人の早番専任職員は、浅野右近あさのうこんさんと言い、保育士ではなく事務員だ。浅場先生とは天女が朝番の浅浅コンビと呼んでいた、お馴染みの面々である。

 天女情報では、浅野さんの赤ら顔の原因はアルコール依存症ではないかとの事だった。朝はいつも機嫌が悪いが、午後になると赤みが溶け柔和なお爺ちゃんに変わるそうだ。何故、朝の弱い人を早番にしているのかは未だに謎だ。既に定年退職していて嘱託社員だそうだが、色々な事ができる用務員さんの様な役割をしているとの事だった。

 そんな何時もの仏頂面の浅野さんが封筒を一通取り出すと透へ突き出す。

「ここに必要書類が入ってる。近いうちに提出してくれ」

 透も仏頂面で受け取る。

 浅野さんの表情が急に緩む。

「俺も、五年前に妻を亡くしてな。それ以来、酒が手放せなくてなっちまった。君も辛いと思うが、まあ、頑張れや」赤ら顔の目に悲しみが漂っていた。

 珍しい表情に透が驚く。

 透の表情も打ち解けた。

「浅野さんは、あの日はここにいらっしゃいましたか?」

「うん? あの日? ああ、奥さんが倒れた日か――― あの日は、花笛かふえ先生がすごい剣幕で俺の所に駆け込んできてな。俺が駆けつけた時にはもう、意識は無かった。慌てて救急車を呼ぶ事しか出来なかったよ。何も力になれなくて申し訳ないな」

「いいえ、とんでもないです。それなら倒れる前の事とかは、全然解らないんですね」

「そうだな。当日は、たまたま何時もの浅場先生がお休みで、花笛先生だったから、彼女に訊くといい」

 透は勤務状況を知ろうとホワイトボードに目を向ける。



  桃参とうしん保育園


 園長   はやし 頼修らいしゅう

 副    はやし 千由佳ちゆか

      小村おむら 維主いしゅ      

      根津ねず 真代まよ

      浅野あさの 右近うこん

 保育士  浅場あさば 菜々(なな)     

  担任  花笛かふえ 百華もか

  担任  米山よねやま 和実なごみ

      出米でまい 一葉いちよう

      江戸村えどむら さき

 英語担任 ハリー 堀田ほった

      マシュー まる



 桃組担任の花笛先生は通常勤務の様だ。帰りには会えるだろう。

 透は事務室を退出する。

 鈴が助清君だけでなく、いつもの仲良し四人組に囲まれていた。

 序でだからと奈々へ透が遠目から解説する。

「今、鈴と一緒にいる五人は預ける時間が同じ早朝組だからとっても仲が良いんだ」

「おともだち、なのね」

「最初に、一番目立つ褐色の肌の男の子が、逸屋いつや 瑠乃るのくん」

「どっちかが黒人なの?」

「ああ、お母さんがフランス出身の黒人で、ルンダさんって言うんだ」

「ふ~ん」

「その隣の活発そうな男の子が、今出いまで しょうくん」

「うん」

「その隣の大きい方の女の子が、須玖屋すぐや 流花るかちゃん」

「うん」

「それで、小さい方の女の子が、宗田そうだ 依音よねちゃん」

「うん}

「それで、助清くんを入れたこの五人が、特に仲のいいお友達かな」

「うん、追々覚えておくよ」

「それじゃあ、もう行くか」

「うん、解った」

 奈々が鈴に手を振って呼び掛ける。

「鈴ちゃん! じゃあね~ 行ってくるよ~」

 鈴が直ぐに声に振り向く。

「いってらっしゃ~い」

 透も手を振ると二人が撤収を始める。

 出口で透がふと止まった。

[保護者送迎登録者]と書かれた一覧表で顔写真が一面に貼られている。

 そこの[土夏 鈴]欄を透が見詰める。

 天女の写真と隣に透の写真。

 透の頭に、鈴の手を引き闊達と生きていた天女の姿が浮かぶ。

 そしてその写真―――透がある決意を秘めた時に透が撮った天女の写真。

 透は天女の写真を勢いよく剥がした。

 悲哀の目で隣の奈々に言う。

「なりすまし防止で、送迎者は写真を貼っておく事になっているんだ。代わりに奈々の写真を貼らないとな」

「うん! 用意する」奈々が力強く頷く。

 いつの間にか隣にいた浅場先生がその様子をじっと見詰める。

「それじゃあ、浅場先生、鈴の事をお願いします」

「はい、お願いされました。がんばっていってらっしゃい」

 同じ制服姿の高校生カップルに微笑ましい笑顔を送る。


 二人きりで登校路を進む。

「ねぇ、透くん。助清くんってかっこよかったね。鈴ちゃんが惚れるわけだ」

「保育園児にはまだ恋なんか解ってないだろ、只、仲がいいだけだよ」

「そうかな~ こういう事は結構個人差があるもんだよ。幼稚園で初恋なんて子もいるみたいだし。高校生で初恋のわたしが言うのもなんだけど、鈴ちゃんは何となくそうだと思うな~」

本気まじか!? 女の奈々からはそう見えるんだ。別に初恋でもいいけど、どっちにしろ初恋は実らないから問題はないな」

「え~ そんな事ないよ、初恋だって実る場合もあるよ。全部が全部ダメってことはないよ。わたしの初恋は絶対大丈夫だもん!」

「え~と、俺は一般論であって、況してや小さい頃の初恋は実らないって言いたかったんだ」

「あっ、そうなの?」

「だって、鈴の話をしてるんだろ?」

「うっ、そうなんだけど…… そうだとしても、鈴ちゃんに対して、かわいそうなこと言わないでよ」

「可哀想? 鈴はそう簡単に嫁には出さないから、いいんだよ」

「え~ なにその、父親バカは」

 奈々が軽蔑の視線を送る。

 透は何食わぬ顔で動じない。

「それより、助清くんはなんでレンくんって呼ばれてるのかな? 鈴ちゃんのリンちゃんはすぐ判るんだけどさ」

「その謂れは天女から聞いたんだけど、アリスさんが結婚前に今の旦那さんと隣町にある大池の公園でデートをした時にね、発掘された縄文時代の種を発芽させた大賀ハスを知って酷く感動したらしいんだ」

「ああ、あのピンクで綺麗な花の大きい蓮ね」

「それで、子供が出来た時に蓮の華に清いって書いてスケキヨって付けたかったらしいんだけど、旦那さんが仏教経典の蓮華経みたいだから普通の助清に変えさせられたらしいんだ。あの家はクリスチャンだからね。だから蓮のレンで渾名にしてミドルネームみたいに使ってるんだってさ」

「ふ~ん、説明されないと全く判らないね」

「そうだな」

「それじゃあ、お待たせしました。鈴ちゃんのおねしょの件と夜中に与音ちゃんと何をしていたのかを伺いましょうか」

 奈々が疑惑の視線を送る。

 透が淡々と応える。

 透は昨日、奈々が帰ってからの事を時系列順に話した。

 間際の天女の仕打ちが原因で鈴のおねしょが始まった事に奈々は絶句した。

 透の説得と起点の効いた暗示でおねしょが治った事に奈々は目を潤ませて喜んだ。

 土夏家の呪いの話ではまた絶句した。

 奈々は非科学的だと頭ごなしに否定はしなかった。表情からも少し怖がっている様でもあった。

 鈴の為に提案を受けたと言うと表情が急変する。

 その鎮魂祭で巫女を演じる事に奈々は快諾してくれた。

 真音とのメールの件は省いた。

 気が付くと周りに同じ制服姿の生徒が目立ち始めた。

 千横場奈々と土夏透の揃っての登校に興味津々な視線を送っている。

 透は努めて気にしない素振りをしていた。

 奈々は話に夢中で気が付いていないのか、それとも気にしていないのか、透しか見ていない。 

「わたし、今、気が付いた! 透くんは大人っぽいんじゃない、大人なんだ! 凄いよ透くん。立派な父親だね!」

「千横場さん、そろそろ離れようか?」

「え? なんでよ透くん。付き合ってるってことで、いいって言ったじゃん」

「それは、バレたらって事じゃなかったっけ?」

「そうだった…… 解ったよ、土夏くん。でも下駄箱の場所とか判らないでしょ? だから、しょうがないよ……」

「う~ん、仕様がないか……」

 奈々の顔がぱっと輝く。

 その後の奈々は気分上々で、いつにも増して意気揚々と話しかける。

「ねえねぇ~ 透くん! 今晩は鈴ちゃんの快気祝いするんだけど、何の料理がいいかな~ 鈴ちゃん、ハンバーグ以外で何が好きなのぉ~」

「オムライスだな」

「解った。でもやっぱり、オムライスでお祝いって、いつもと全然変わらないみたいじゃない、だってそんなにご馳走って程でもないじゃない。だからさ、今度、動物公園のお出掛け用に、鈴ちゃんにお洋服買ってあげたいの、透くん、いいでしょ?」

「別にいいけど」

「鈴ちゃん、あんなに早くおねしょが治るなんて思わなかったよ。オムツまだたっぷり残ってるのに、まあぁ、治ったんだから良かったんだけど、あれどうしようか?」

「そうだな、保育園にでも寄付するか?」

「……でも……将来、必要になるかもよ?」

「え! 誰が?」

「誰がって……」奈々が赤面する。

 透も黙ると話が途切れた。

 気が付くと校門が見えてきた。


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