第6話 小脱走
朝の庭。はしゃぐ子犬。美しい少女。
朝日が照らす庭園での微笑ましいひと時。
「さぁパピー。とってきなさいな」
少女が投げたおもちゃを一心不乱に追いかけ、子犬は彼女のもとに戻ってくる。
はっはっと息を吐きながら、尻尾をぶんぶんと振るその様子は随分とかわいらしい。
少女もまた、その様子を見て微笑みながら、犬の頭を優しく撫でる。
まるで絵画の中であるような、優雅で気品がある光景だった。
「お嬢様。準備ができました」
「あらレーナ。しっかりと手筈は整えましたか?」
「はい。おっしゃられた通りに」
ローベンからの拷問から助かる為に、アンネリーゼの契約を呑んだレーナには、最早選択肢はない。彼女が望む要求、命令してくる内容を、ただ忠実に実行するのみである。
今回の彼女の指令は「家族にバレないように外出し、広場で行われる処刑を見学する」というものだった。現在のアンネリーゼは、自室での自殺未遂により、行動を制限されており、許可なく外出することができない状態である。密かに隠れて外出するためには協力者が不可欠だと考えたのだろう。彼女の世話役として最も近しい使用人であったレーナに目を付け、協力するよう説得したのだ。
ただ、そのおかげでレーナ自身は死の運命を回避することができたのであり、その点で言えば幸運といえなくもない。
隠し通路の先。凄惨で陰鬱な拷問部屋。その中でも平気な顔をしてレーナに微笑みかけてきたお嬢様は、なんと処刑が見たいと言う。レーナももうこの齢12の少女は普通ではないと気付いていたが、逆らう気にはなれなかった。今まで以上に、自分の運命を握っているのは彼女だからだ。
「お嬢様。途中で変装のために質の悪い服に着替えてもらいます。平民の少女が着るようなものですが、よろしいですね?」
「気にしないわ。それより、絶対にバレないようにね。今の私じゃ、お父様に警戒されるとどうしようもないから」
「――分かりました。では、こちらに」
そうして、レーナとアンネリーゼはひっそりと屋敷を出た。
☆★☆
レーナに連れられ、地味で古臭い馬車に揺られ。乗り心地の悪さに気分が悪くなってきたところで馬車が止まった。
「うぷっ……」
「お嬢様。大丈夫ですか?」
こみ上げてくる吐き気に思わず吐きそうになる。とっさに手で口を押えて留めた。流石に吐くのはプライドが許さなかった。
横で心配した様子で背中をさすってくるレーナを見る。まさか彼女が乗馬までできるとは思ってもいなかった。思っていた以上に使えそうで嬉しい限りだが、あんなに揺れるなんてもしかしてわざとやったのだろうか? 確かに半分脅して協力させたようなものだけれど、一応命は助けるのだからもうちょっと優しくしてくれてもいいだろう。そう心の中で恨み言を言う。
「お、お嬢様! 申し訳ありません。なるべく揺らさないように努力したのですが、私が無能なばかりに!」
アンネリーゼの顔色を見て、レーナの顔が絶望と恐怖に変わる。地面に額をぶつけそうな勢いで頭を下げ続ける彼女を見て、もしかして表情に出ていたのかと気付いた。
まるで命乞いをするように何度も何度もぺこぺこする彼女を見ていると、さらに吐き気が増す。
「あの、怒ってませんから頭を下げるのはやめてくれませんか? 本当に吐きそうになるのです……」
「あっす、すみません!」
アンネリーゼがお願いすると彼女はやっと頭を下げる事を止めた。しかし彼女の所作の節々にアンネリーゼへの怯えが見て取れる。
いや、あんなショッキングな映像を見せたのは確かに悪かったかもしれないけれど、そんなに怖がらなくてもいいじゃありませんか。私でもちょっとは傷つきますよ。と傷心気分のお嬢様である。
「まぁ平民らしくなるために、服に吐くというのはありかもしれませんわね」
「いえ、それは流石に……」
アンネリーゼお嬢様の渾身のジョークである。場の雰囲気を和ませるために言ったのだが、どうやらドン引きされてしまったらしい。レーナは信じられないものを見る目でこっちを見てくる。なんで。
「そ、それで! ここはどこですか?」
いつまでも喋っている訳にはいかない。
辺りを見渡してみると、ここは路地裏のようだった。ある程度の広さはあるが、全体的に暗くカビ臭い。人が来るような場所ではなさそうだ。
「ローマンド広場の近くの路地です。すでに下調べは住んでいて、ここには人が来ることはありません。ここに馬車を隠しておいて、少し歩けば処刑場に着きます」
レーナはそういうと、馬車からフード付きのローブを取り出した。
「お嬢様は今から平民の姉妹という設定で行動してもらいます。私が姉で、妹と共に処刑場に通りがかったという態度を見せてください。私を呼ぶときはお姉ちゃんと呼んでください。お嬢様は、そうですね……。リーゼとお呼びします。お嬢様の髪は、少し目立つのでこのローブを羽織って隠すようにしてくださいますか?」
「分かったわ。ほかに気を付ける事は?」
「基本、誰かに話しかけられたら私の後ろに隠れて人見知りの振りをしてもらえますか? 会話は私が行います。そちらの方がお嬢様が話すより自然だと思うので」
理知整然と説明する彼女の姿は、先ほどのビビり散らかしていた時とはまるで別人だった。やっぱり彼女を選んでよかったとアンネリーゼは確信した。こういう切り替えができる人間は有能だ。
「大丈夫よ。それにしても、平民の服って着心地が悪いのね。肌がチクチクして痛いわ」
「そんなものですよ。さぁ、行きましょう。リーゼ」
「――うん、お姉ちゃん!」