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第5話 手下を獲得

 今回は残酷表現、流血描写があります。苦手な方はご注意ください。

 


 覚醒は波のさざめきのように穏やかで手放し難いものであった。

 はっきりとしない意識はぼんやりと視線を漂わせ、石造りの室内に唯一あった灯りであるランプを捉えた。

 何か、記憶がおぼろげだった。直前まで何をしていたかはっきりと思い出せない。

 それでも強く思い出そうと記憶の海を探る。


(確か、旦那様に呼ばれて。そこで紅茶をご馳走になって──)


 レーナは、給仕の最中に雇い主であるローベンから声をかけられた。言われた通りについていくと、そこで普段の礼と言う事で菓子と紅茶を出されたのだ。

 貴族と同じ席を共にする事に、流石に気が引けたレーナはこれを丁重に断ろうとした。しかし雇用者から、これは待遇の確認と労働状況の聞き取りのようなものだから、と言われてしまうと断る事も出来ず、結局レーナはローベンと同じ卓を囲った。しばらく何か話し込んだのは覚えているが、そこで記憶が途切れている。

 まずはこの寝ぼけた頭を何とかするべきだと思い、水を飲む為に体を起こそうとする。

 近くで何か金属が擦れるような音がした直後、己の体が何かに引っかかったように止まってしまった。

 首を持ち上げ、自分の手足を確認すると、ベッドの四隅に繋がれた鉄鎖が目に飛び込んできた。

 その鎖は両手両足に一つずつ繋がっていた。


 自分が縛り付けられている。これを脳が処理した瞬間、レーナの意識は微睡みの海中から一気に引き揚げられた。


「何……?」


 思わず口から出た疑問と共に、手足を動かす。がちゃがちゃと金属らしい音が響くも、女の身で非力なレーナの腕力では、鉄の鎖を壊せるわけもない。

 このままじゃまずい、逃げなければ。状況が全く理解できなかったレーナだったが、本能的に感じた危険に突き動かされながら脱出を試みる。唐突に訪れた謎の状況に半ば発狂しかけながら、力一杯四肢を動かし鎖の音を響かせる。

 部屋に備え付けられた扉が開いた。

 扉の向こう側も相当に暗いらしく、どこに繋がっているのか分からない。入ってきた人物が持っていたランタンの明かりによって、その人物が男であるという事は何とか把握できた。しかし、顔立ち全てが見えるわけではなく、口の辺りまでしかはっきり見る事ができない。その唇は愉悦に歪んでいた。

 レーナは反射的に体を動かした。今までよりも激しく音を鳴らし、手足の肌は擦れて赤く染まり始めた。


「起きていたのか」


 男がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 その言葉はレーナに向けたものというより自分に向けた独白だろう。

 男がレーナの拘束されたベッドの脇まで来たところで、彼女はようやくその者の顔をはっきりと見る事ができた。


「旦那様……?」


 その顔は、まさしくローベン・マルク・アッシュフォールド。彼女の仕える相手であった。

 一瞬、まさか平民である自分を貴族の旦那様が助けにきてくれたのかと考えたが、すぐに違うと気付く。彼の顔に貼り付いた笑顔。歪んだ口角は明らかに愉悦に満ちており、到底誰かを心配するそれではない。


「あの、これは一体どういう……」


 レーナは言いようのない焦燥感と共に身をよじりながら距離を取ろうとした。しかし、拘束された状態ではそれも大して意味をなさず、ただ鎖を鳴らすだけの結果となった。その様子を見て、何を言わず黙っていたローベンの口がさらに醜く歪んだ。


「君は選ばれたんだ」


 普段の彼から発せられる声色は、芯に響くようでありながらゆっくりと耳に入ってくる気品のあるものである。しかし今の彼はそれとは全く違った。獲物を前にした強姦魔のようなねばついた口調がレーナの耳に侵入してくる。


 辺りを確認し、何かこの状況を脱するためのものがないか確認する。部屋の中には窓すらなく、ベッドの脇には部屋を横断する布がかけられており、その向こうはどうなっているか視認できない。レーナの正面、つまりベッドの向かい側にはドアが付けられていて、部屋の中にある光源の数からそれほど大きくはない簡素な間取りの部屋だと分かる。

 ここがどこなのか。鼻腔に届くカビと泥の混じったような臭いから、何処かの地下室であろう事は把握できた。ただ、それ以上の情報は得られなかった。


「気になるか? ここは私のお気に入りの場所なんだ」

「旦那様。これはどういう事でしょうか? 何か、粗相をしてしまったのでしょうか。折檻だというのであれば……甘んじて受け入れます」


 内心ではそんな訳がないと思いながらも、一縷の望みに賭ける。貴族が使用人であるメイドに対して性的な行為をする事は往々にしてあった。珍しい話ではなく、それで済むのであればまだマシだというものだ。

 しかし、レーナはそうではないとほぼ確信していた。何故なら――部屋にたらされた布、向こう側を見えないように遮断したカーテンからは、とても濃厚な血の匂いがレーナの鼻にも届くほど染みついていたからだ。

 警戒と恐怖の目で睨まれたローベンは、それを受けくつくつと堪えきれない笑みを漏らした。


「いいや? 君は優秀だった。仕事もきちんとしていたと報告を受けている」

「ではなぜ……」

「君が、平民にしては美しいからだ。それでいて、能力も秀でている。だから――中身が見たくなる」


 嗜虐と興奮が混ざった顔。一瞬見えた表情はまるで子供のように輝いていた。しかし、すぐに元の表情に戻ると、彼は懐からナイフを取り出した。皮のホルダーから取り出された刃は、対象にできる限り苦痛を与えられるように加工されたものだ。

 それを見て、レーナの表情が曇る。自分がこれから何をされるかを明確に想像してしまったからだ。彼はその反応に満足したかのように頷くと、ゆっくりとナイフをレーナの顔に近づけていき、顔首筋、胸部、腹部、脚部と少しずつ下に向かって彼女の柔肌を撫でていった。今度は想像ではない、明確に肌から伝わる痛みの刺激に、思わず彼女の口から小さな悲鳴が漏れる。


「なぜ、と問うたな」


 ローベンはナイフを彼女の首筋に当てる。鋭利な刃先はその肌に食い込み、刃の上には血が垂れた。その一挙一動が愛おしいもの、繊細なガラス細工を扱うかのように丁寧であった。


「これが、理由だ。君たちの血は、赤い。これほどまでに。私たちのそれとは根本的に違う」

「ッ……! 血は赤いものでしょう……?」


 強い口調で返したのは、ささやかな抵抗。自分はまだ諦めていないと、相手というより自分に言い聞かせるような口調だった。レーナは拘束され、しかも相手は貴族。解放は絶望的な状況だったが、そんな事で心まで負けてたまるかという強い反抗心からの行動だった。

 ローベンの表情が変わる。初めて顔から笑みが消え、一瞬真顔になったと思うとすぐに物憂げな面持ちに変化した。


「違う。違うのだよ。貴族と平民とでは、全くそれは違うのだ」


 意味が分からない。話にならない。貴族には、それなりにこういう輩がいると聞いたことがある。血を重ねすぎて頭がイカれてしまった人間だ。まさかローベンがそうだったとは思わなかった。見た目にはそういう者特有の雰囲気は全くなかったからだ。しかし、レーナのような者が公爵閣下と直接会話する機会など在り得る筈がない。本質など見抜けるわけがなかっただろう。知ってさえいればこんな所に勤める事などしなかった。こうなってしまっては全てが遅い。

 まだ逃げるチャンスはある筈、と一瞬周囲に意識を向けた瞬間である。

 すく、と右手に何か変な感触がした。

 目を向けると、手の甲にナイフが突き刺さっていた。


「――!? ああああああああ!!」


 認識と同時に訪れる鋭い痛み。刺さったナイフを中心に、裾に広がるにつれじくじくとした痛みが右手を這い回る。

 相手は痛みに悶絶するレーナを待ってはくれなかった。手の甲に刺さったままのナイフの柄を握ると、それを思いきり指側に押し込んだ。右手が人差し指と中指からぱっくり裂ける。ベッドのシーツが右手を中心に真っ赤に染まっていった。


「ッ――――――――!!」


 もはや声にすらならない絶叫。人生で体感したことのない痛みともう使い物にならないだろう右手を見て、彼女の心に絶望が影を落とす。


「あぁ、可哀想に。とても痛そうだ」


 やった張本人だというのに、ローベンは悲しそうな顔をしていた。いや、それだけではない。歓喜、悲嘆、茫然、虚無。ころころと変わる表情は全て行動と合致しておらず、それなのに本当に心からそう思っているように見えた。まともな人間とは到底思えないその百面相は、見ていて嫌悪感しか感じない。


「君は――確か、実家に弟がいるようだな」

「!? それ、は……」

「そうそうに心が死んでは、つまらない。最後まで生きる意志を失わず、私を楽しませてくれたら何もしないと誓おう」


 彼はそういうと、カーテンの向こう側へ姿を消した。開かれたのは一瞬だと言うのに、むせ返りそうな程の死臭が漂ってきた。

 今しかない。

 レーナは今までにないほど全力で手足の拘束を解こうとする。先ほど裂かれ、面積が減ったおかげで右手のみ鎖を外すことができた。引き抜く瞬間、尋常ではない痛みが襲ってきたが、辞めるわけにはいかなかった。

 右手からあふれ出す血を左手に垂らし、血のぬめりで左手の鎖も外そうとする。だが血を流しすぎたのか、体にうまく力が入らない。動機も激しく、呼吸が苦しくなる。

 ようやく左手が抜けるという瞬間、思い切り体を抑えられた。


「いいぞ。その生きるという意思。その調子で私を楽しませてくれ」

「あっ……」


 間に合わなかった。彼の手には拷問器具が握られている。縦長で一部が膨らんだその形状の用途は、レーナでも知っている。もう無理だ。そう思った瞬間彼女の両目からは大粒の涙がこぼれ、股下は生暖かい感触に支配された。


「さぁ――()()()()()


 苦悶の声は、外に漏れる事はない。

 彼女は誰にも知られる事なく屋敷から姿を消した。

 貴族の屋敷では――それほど珍しくない事である。




 ☆★☆




「さぁ、こっちですレーナ」

「あのーお嬢様。今度はどこへ連れて行くおつもりですか?」


 アンネリーゼに連れられて、後ろを歩くメイドのレーナ。最近はこのような風景を見る事が屋敷では増えていた。使用人達の間では、あの我が儘お嬢様に振り回されて可哀想という同情と、最近は異常にお優しくなったのだから羨ましい。勝ち組だという羨望を向けられていた。


「え? ちょっとお嬢様? この先は旦那様の仕事部屋が……」

「大丈夫よ今の時間は外にいるから」


 そういう問題ではなくてですね。と独り言ちるもアンネリーゼ様は全く気にせず扉を開けた。だが、流石にこれは止めねばなるまい。雇い主の部屋に勝手に入る事と自分に命じられたお嬢様を見張れという命令を天秤にかける。出した結論は一瞬でお嬢様を引っ張り出して、なるべく部屋の滞在を短くするというものだった。


「お嬢様! いい加減にしてください。この間もつまみ食いを旦那様に咎められたばかりではありませんか。いたずらも度が過ぎると痛い目を見ますよ!」

「――レーナ」


 部屋に入ると、備え付けの本棚の前に立ったアンネリーゼが真剣なまなざしでレーナを見ていた。

 初めて見る表情に、一瞬たじろぐ。


「な、なんでしょうか。これに関しては脅されてもダメですよ。私の雇い主は旦那様なんですから」

「レーナ。こっちに来て」

「ですから……」

「いいから」


 強い意志を持ったその目に、レーナは何か尋常ではないものを感じた。その青い瞳は、いつものような何事にも億劫な感じではなく、12歳の少女には似つかわしくない重さと強さを持っていた。

 本能的にこれは決してお遊びなんかではないと気が付いた。

 意を決して、アンネリーゼの隣に並ぶ。彼女はレーナが近づいてきたのを確認すると、本棚の下から4段目、左から3番目の本を押し込んだ。

 重苦しい音を立てながら、本棚が横にずれる。現れたのは階段だった。


「これは……非常通路ですか?」


 身分が高い人間の屋敷には、ある程度の確率で隠し通路がある。信頼できる者だけに教えているそれらは、命を狙われ襲撃を受けた時の逃走通路である。

 だが、お嬢様はこれを見せて何だと言うのか。確かに物珍しく子供が遊ぶには面白いかもしれないが、あれほどの目で一使用人であるレーナに見せようとする理由がよく分からなかった。


「ついてきなさい。あなたに関係がある事ですよ」

「ちょっと……待ってください!」


 レーナの制止も空しく、アンネリーゼは躊躇なく階段を下りていく。

 普段のアンネリーゼと余りに違うその雰囲気に、戸惑いが絶えない。


(あーもう、しょうがない!)


 まさかお嬢様を置いて自分だけ帰る訳にもいかない。

 彼女は周囲をキョロキョロ確認し、思い切ってお嬢様の小さな背中を追いかけ階段を下りて行った。




 ☆★☆




 長く暗い階段を下りて行った先には、鉄製の扉があった。

 階段は結構な長さがあり、途中レーナは何度か転びそうになった。アンネリーゼにも転ばないよう注意しようとしたが、お嬢様は慣れた足取りでさっさと降りて行ってしまった。


「ここです」


 ぎい、と鉄がこすれる音と共に扉が開く。

 同時に、扉の奥から溢れだした悪臭に思わず口を覆った。

 耐え難い臭いだというのに、アンネリーゼは気にした様子もなく中に足を踏み入れた。

 仕方なくレーナも中に入る。


「ここは、何ですか……?」


 真っ暗で何も見えなかった室内が急に明るくなった。先に入ったアンネリーゼが明かりに火をつけたのだ。全く迷う事なく、明りを付けられる様子から彼女はここに入ったことがある事が察せられた。

 部屋は石造りで、扉の目の前にベッドが置いてあった。右側はすぐ壁であり、左側にはまだおそらく部屋が続いている雰囲気があった。恐らくなのはそこに布のカーテンがかけられており、奥を覗く事ができないからだ。

 その部屋を区切るカーテンを、アンネリーゼは勢いよく開いた。


「え――こ、これは……!」


 そこにあったのは、おびただしい数の拷問器具だった。大きいものから小さいもの、知っているものからどうやって使うのか分からないものまで。血が染みているものもあり、それがただの観賞用ではない事が見て取れる。奥の角には、おそらく切断された手足が無造作に突っ込まれた桶が置かれていた。悪臭の原因はこれだろう。


「ここは、父ローベンの趣味用の部屋ですわ」


 アンネリーゼが言った言葉は、衝撃的だった。レーナにとっての旦那様は、ここにある物を使うような人間には見えなかったからだ。ただ、それ以上に理解しがたい事が目の前にある。


「お嬢様は、これを見ても平気なのですか……?」


 彼女のふり絞るように呟いた疑問。

 ある種の恐怖すら含んだそれを受けても、アンネリーゼは飄々としていた。少しも動じていなかった。それが更にレーナの恐怖を煽った。


「お父さまは、実は少し下品な趣味を持つ人です。平民の方の身体を弄るのが楽しいらしくて。私にはよくわからないのですけど」


 何故そんな簡単にこんな親の拷問趣味を口に出せるのか。何故12歳の子供がこんな凄惨で死臭に満ちた光景を見ても平気な顔で息を吸えるのか。理解ができない目の前のお嬢様は、ある意味ここにはいない拷問官より恐ろしい。


「これ、ほんとは教えちゃダメなんですよ? でも、レーナは私にとって特別で、やっぱり失うのは悲しいから」

「それは、どういう……」

「――あなた、このままだとお父さまに殺されますわよ?」


 息が止まりそうになった。その青い双眸に見つめられながら、耳に届いたアンネリーゼの言葉は、レーナの精神を乱すには十分だった。


「この間の、深夜に出会ったときでしょうね。名前を尋ねられたでしょう? あれはお父さまの癖で、気に入った平民には名を聞くのです。あの様子だと、おそらく以前から目を付けられていたのでしょうね」

「そんな……! いったいどうすれば」


 メイドという身分も忘れて、喚き散らす。それほど彼女は混乱し、恐怖していた。家族は自分の仕送りで生活しており、この仕事を辞めると弟たちを食わせていけなくなる。アッシュフォールドの仕事を正当な理由なく投げ出したとあっては、もう支払いの良い貴族関係の職務には付けないかもしれない。自分の生まれ、身の回り、今までの人生といった彼女の記憶が次々に脳内を駆け回り、彼女を平静から遠ざけた。


「私なら、あなたを救えますよ?」


 だから、この悪魔のような少女の言葉に耳を傾けてしまうのも仕方がない。


「私がそれとなくお父さまに言えば、あなたは手を出されないでしょう。あなたは今まで通り、アッシュフォールドの仕事を続けられます。ただし――」

「ど、どうすれば! 何をしたらよいのですか!?」

「これからは、私に従いなさい。お父さまではなく、私の命令を第一として。それを約束するのなら、あなたの命は、私が保証しますわ」


 極限の精神状態に差し伸べられた手。あまりに白く、小さい手であったが、レーナにはまるで天上から舞い降りた天使のように見えた。


「お嬢様。分かりました。貴方の命令に従います。だから……殺さないでくださいぃ」


 泣きながら、鼻水を垂らしながら。

 彼女は、アンネリーゼと契約したのだ。




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