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第15話 アンです


「……これも命令なので」


 どんっ、と。

 背中を押されて、アンネリーゼは地面に倒れこんだ。ぬかるんだ泥がドレスを汚す。

 朝から降っていた雨は、さらに勢いを増しており、アンネリーゼの身体を容赦なく打った。

 暫くの間、その姿勢でうずくまる。


 後ろを振り返ると、門は既に閉まっていた。

 門を動かした音は雨にかき消されたのだろう。

 雨粒が地面を叩く音が辺りを支配していた。


 いつまでもこうしてはいられない。

 アンネリーゼは立ち上がり、顔に泥を付けたまま、歩き始めた。



 ☆★☆



 しばらく歩く。

 ちょうど、屋敷が見えない場所まで来たところで、アンネリーゼの横に馬車が止まった。


「お、お嬢様!? どうしたのですかそのお姿は!?」


 驚愕の声と共に馬車から降りたのは、()アンネリーゼの付き人、レーナであった。

 彼女は差していた傘をアンネリーゼが雨に濡れないように差す。


「あらレーナ。久しぶりね。3日……いえ4日ですか?」

「そ、そうですけどそんな事より汚れをどうにかしないと! あぁ御髪にまで泥が……」

「事前に勘当されると言っておいたじゃないですか。それにもうお嬢様ではないですよ」

「こんな泥だらけのずぶ濡れだなんて聞いていません! 早く体を温めないと風邪をひいてしまいます!」


 体に着いた泥を落とすと、そのまま馬車の中へ連れられる。

 タオルで体中をレーナに拭かれ、汚れと水気を落とされた。


「レーナ。これから向かう場所は分かってるわよね?」

「メルティーズ様のお屋敷ですよね。地図も用意しています」


 レーナは地図を取り出した。

 目的地であるメルティーズ邸には印がついている。


「それにしても、まさか本当に貴族の地位をお捨てになるなんて……いまだに信じられませんよ私」


 半ば呆れたという様子でそう言うレーナ。

 思えば彼女とも結構長い間付き合ってきたな、とアンネリーゼは思った

 自然と顔も哀愁に満ちたものになる。


 それに対してレーナと言えば。


(あれ? なんかお嬢様が慈愛に満ちたお優しい顔をしている……。また変なこと言っちゃったのかしら私……そ、それともあなたはもう用済みだから処分よ! あぁでも、下僕とはいえ殺すとなると少し寂しいわ。的なアレですか!?)


 まだ結構内心びくびくとしていた。勿論、外には出さないが。


 そんな彼女の心を知ってか知らずか、アンネリーゼは軽く微笑んだ。


「ありがとうねレーナ。お礼にこれあげるわ。手を出して」

「え? はい」


 アンネリーゼが何かを取り出し、レーナの手に握らせた。


「何ですかこれ?」

「屋敷から盗ってきたネックレスとティアラよ。適当なところに持ち込めば平民が一生生きていくのには困らない値段で売れるわ」

「えぇ!? そ、そんな高価なもの……!」

「いいから受け取りなさい。今まで私の指示を聞いてくれた事への報酬です」


 う、嘘でしょ……お嬢様が、私に報酬なんて……。

 疑ってごめんなさい。と心の中で謝るレーナであった。



 ☆★☆



 数刻の間、馬車は揺れ続けた。

 雨は止まず、アッシュフォールド領を出ても降り続けていた。そのせいで行路の状態が悪く、当初の予定よりも時間をかけながらメルティーズ邸に辿り着いた。


 門前から少し離れたところに馬車は止まる。

 外に出てみれば、辺りは既に暗く、時刻は真夜中に差し込みつつある事が伺えた。


 アンネリーゼは馬車を振り返り、ちょうど馬から降り終わったレーナと向き合った。

 

「レーナ。今までよく仕えてくれました」

「は、はい!」


 その言葉にレーナの背筋が伸びる。

 アッシュフォールド家を辞めた彼女に、これ以上アンネリーゼの面倒を見る義務はない。

 ここまで彼女を送る事が彼女の最後の仕事だった。


 アンネリーゼの眼差しは、あの時あの拷問部屋で見たものと同じで。

 それがレーナに、本当にこれで最後だというのを実感させた。


「屋敷にある貴方関係の書類は処分したし、お父様の事だから平民である貴方の家族の事は、きっと細かく覚えていないわ。だから安心して実家に帰りなさい」

「お嬢様……」

「私はもうお嬢様じゃないと何度も言ったじゃないですか。これからは、同じ平民。同じ立場ですよ」


 一拍おいて、彼女は微笑み言葉を続けた。


「ですから――いつか機会があったら、友達としてお話ししましょう?」


 それを聞いた瞬間、レーナの顔がくしゃりと曲がった。

 そのまま俯き、しばらく静止した後、彼女は大きく頭を下げた。

 そして、アンネリーゼを見る事なく振り返り、馬に乗った。

 彼女はアンネリーゼを一瞥もする事なく、蹄の音と共にその場を去っていった。


 きっと、彼女は実家に戻り、そこで家族と暮らしていくのだろう。

 世話になった恩ぐらいは返せたかな? と思う。


(もう変な貴族に捕まる事がないようにね。レーナ……)



 ☆★☆



 メルティーズ邸の前に行くと、合図をするまでもなく門が開いた。

 門の内側に佇むシャルルと目が合った。肩が少し濡れているところを見ると、待たせてしまったのかもしれない。


「シャルル様。ごめんなさい。待たせてしまって」

「構わないよ。それより、別れは済ませられたのかい?」

「ええ、多分……ですけど」


 シャルルがそれを聞き、微笑んだ。

 それを見ると、何故か少し心が穏やかになった。


「そうか。それは良かった。さぁ早く家の中に」


 彼に背を押され、屋敷に入る。

 背中に感じるその手からは、緊張が感じられた。


 それもそうだろう。

 だってこれからアンネリーゼがどうなるかは、今からの方が重要なのだから。



 ☆★☆



 メルティーズ邸の執務室で、ジャン・メルティーズは書類の整理をしていた。

 格好は既に楽なもので、これは仕事というより、寝る前に少し気になる作業を終わらせておくという彼の習慣のようなものだった。


 と、そうして紙に目を通していた彼の耳に、扉を叩く音が入る。


「どうした?」


 この時間に執務室の扉を叩く者など息子のシャルルしかいない。

 事実扉を開け、入ってきたのは彼の想像通り、シャルルであった。

 だが、彼にとって想定外だったのは、その息子の後ろに、見覚えのある美しい銀髪を携えた女が居た事だ。


 二人は並んでジャンの前に立った。

 一瞬状況が呑み込めず、呆気にとられる。

 しかし、すぐに正気を取り戻し、息子を詰問する。


「シャルル。これはどういう事だ?」

「お父さん。彼女は、僕の婚約者です」


 今度こそ、本当に彼は口を開けて、呆けてしまった。

 脳がその言葉の意味を理解するのに、数秒の時間を費やした後、ジャンはゆっくりと口を開いた。


「お前、自分が何を言っているのか理解しているのか?」

「はい。これ以上なく」


 明らかにジャンの纏う雰囲気が怒気を含んだものに変わる。


「ジャン様。私から説明させてください」


 アンネリーゼが一歩前に出て、そう言った。


「アンネリーゼ様。どういう事でしょうか? 何故公爵閣下のご令嬢がこちらに……」

「私はもう、貴族ではありません。家からも勘当されました」

「なに……?」

「私にはもうアッシュフォールドの名も貴族としての身分もありません。今の私は平民の、ただのアンです」

「それは……本当なのですか?」

「はい、神に誓って」


 一度も目をそらさず、堂々とした口ぶりで彼女はそう答える。

 ここでようやく、ジャンには事態の概要が見えてきた。

 つまり、息子と彼女は隠れて恋仲になっていたという事だろう。

 そして、それがアッシュフォールドの当主にバレてしまったと。


「シャルル。とんでもない事をしでかしてくれたな。公爵閣下は激怒しているだろう。最悪、メルティーズの家が丸ごと訴えられる可能性もある」

「そ、それは……」


 シャルルが言い淀む。

 父ジャンの言う事は最もであり、それはシャルルも一番心配している事であった。

 故に反論する事が出来ない。


「お父様は、私の事を表沙汰にはしないでしょう。少なくとも、表向きな場で何かする事はないかと」


 アンネリーゼが彼に助け舟を出す。

 ジャンの視線が彼女に移った。その瞳は以前病気を診てもらった時の温和な色ではなく、一族を守る男としてのものだった。


 処刑人との婚約は、別に法で禁止されている訳ではない。

 何かしらで訴えられても、論じ勝つ事はできる。

 そもそも裁判所と深い関係にあるメルティーズは法律には深い知見が必要である。

 事実、今までもメルティーズ家は貴族からは些細な事で訴えられていたが、その全てを正当な主張で跳ね返してきた。

 ローベン殿は評判を非常に気にするお方だ。公爵の財があれば、判決を思い通りにできるかもしれないが、裁判にまでしてしまうと、身内から処刑人と睦んだ者を出したという事をおおやけにしてしまう。その点で言えば、安心と言っても良かった。


 だが、彼からの心証は間違いなく最悪を通り越しただろう。

 元々公爵家とパイプができると思い受けた仕事だったが、それがまさかこんな事になるとは。

 ジャンは頭を抱えたくなるのを抑え、彼女に尋ねた。


「アンネリーゼ様。貴方は、処刑人の妻になりたいと、そうおっしゃられるのですか? その意味を本当に理解しておられますか?」


 その覚悟があるのか? と。


 ジャンの言葉には、とてつもない重圧が含まれていた。

 これに半端な返事はしてはいけないとアンネリーゼは心に刻む。

 緊張からか、喉が張り付く。彼女は生唾を飲み込み、意を決して口を開いた。


「はい。――分かっています」


 アンネリーゼがそう言うと、ジャンはしばらく何も言わず彼女を見つめた後、口を開いた。


「そうですか。では貴方がメルティーズ家に入るにあたって、一つだけ条件があります」

「それは……何でしょうか?」


 ジャンが立ち上がり、執務室の扉まで移動した。


「まずはこちらに――ついてきてください」




 ☆★☆



 ジャンに連れられ、辿り着いた場所は本邸と別。敷地の端にある小さな建物だった。

 装飾も何もない、本当に機能だけを求めたという風なその建造物は、入り口に武骨な鉄の扉を抱えていた。

 ジャンが鍵を取り出し、扉を開いた。

 同時に、中からむせ返りそうなほどの薬品の臭いがアンネリーゼたちを迎える。

 中に入ると、四方の壁には棚が置かれ、そこにはびっしりと瓶詰の標本や薬品などが並べられていた。

 

「父さん。何故こっちに……」

「お前は口を出すな」


 シャルルの問いをそう言い捨てたジャンは、部屋の中央に向かった。

 彼が立ち止まった場所は、床の一部が鉄製であり何やら鍵穴のようなものが見える。

 先ほど入り口の扉を開けたものと同じ鍵を、彼はそこに差した。


 ガチャリという音と共に、鉄の部分が持ち上がる。

 その下に現れたのは、地下へ下りる階段だった。

 

 その階段を下りていくジャンの背中を追いかけ、アンネリーゼ達も続く。

 外に響く雨の音が聞こえなくなった頃、開けた場所に辿り着いた。ジャンが備え付けの灯りをつける。

 

「ここは……」


 部屋は、異様な雰囲気を持っていた。

 真ん中に大きな寝台のようなものが備え付けられ、壁には様々な形状の刃物が掛かっていた。その反対側には、四角で区切られた大きい引き出しのようなものが、いくつも壁に設置されていた。


 ぶるり、と。

 アンネリーゼは体を震わせた。

 地下だからか、随分と室内の気温は低いようだ。肌寒いというには少し冷たさが過ぎる程度の空気が、アンネリーゼの皮膚を撫でる。


(ここは……一体……)


 ジャンが奥へ進み、壁にある取っ手を引いた。四角の一つが飛び出すように前に出た。

 その中にあったのは、子供の死体だった。

 見た目には、五つか六つの年。

 頭が潰れ、眼球は片方飛び出している。露出した頭蓋は弾けており、その隙間から見える中身はかき回されていた。死体は体中が青痣に塗れており、全身に細かな裂傷も見て取れた。

 死体が露わになった瞬間、室内に死臭が広がる。

 

 それの傍らに立ったジャンが、アンネリーゼに向かって言った。


「アンネリーゼ様。本当にメルティーズとして生きる覚悟があるのならば――この亡骸を解剖台に乗せなさい。貴方自身の手で」

「なっ! 父さん、それは……」


 メルティーズ家では死体を保存し、埋葬まで管理する事も行っている。

 この死体は先日運び込まれたものだが、特に損傷がひどく、腐敗も進んでいた。湧いていた蛆などはあらかた取り除いているが、貴族として生きてきた女性が触れるようなものではない。

 

 死体を預かった時点で、薬品によってなるべく腐敗の進行を止め、死体特有の臭いはできる限り消している。しかし、それで完璧に無臭に出来る訳などなく、生物として本能的に遠忌する臭いはどうしても発生してしまう。

 特に、雨の日はまずかった。

 湿度の上昇と共に、悪臭は強さを増し、解剖室を満たす。

 父ジャンも、今まで雨の日は解剖室での勉強を行わなかった程だ。


 生まれながらにこれと向き合ってきたシャルルでさえも、思わず顔をしかめるほどの。本能的な拒否反応。

 こんなもの、アンネリーゼが触れる筈がない。


 シャルルは父を止めようと彼の腕を掴んだ。

 

「父さん。考え直してくれ。こんな事、何の意味があるんだ」


 ジャンは表情を変えず答える。


「意味? 意味だと? いいかシャルル。私たちは人を殺して生きている。この世の最後の正義を担っている。処刑執行人としての仕事は、正義の一部であると同時に、決して許されぬ事なのだ。何故、代々処刑人の家柄同士で婚約してきたか分かるか? この罪を、神が作りし人の全てを受け止められるものでないと、私たちの身体に流れる血を背負えないからだ」


 重く、重く響くその言葉に、シャルルの勢いが弱まる。

 

「だけど、それにしたってこんな残酷な死体を選ばなくても……」

「シャルル様。私は大丈夫ですわ」


 アンネリーゼがシャルルを制止した。

 二人の視線が彼女に集まる。


「この方を、台に乗せればよいのですよね?」


 アンネリーゼは前に出て、死体に近づいた。

 彼女の様を、周囲の二人は静かに見守っていた。

 彼女の手が死体に触れそうになり、俯いた顔から銀髪が垂れかかる。

 そこで、彼女の動きが止まった。

 

(やはり無理か)


 ジャンは目を伏せた。

 土台、無理な話なのだ。只人が処刑人に嫁ごうなどと。ましてや貴族として生きてきたものが、一時の感情でこの世界に入ってきても、不幸しかない。

 処刑人であるシャルルと恋仲になった事は驚いたが、所詮一時の熱。死体の触れもしない娘など、認める気はない。


「アンネリーゼ様、お考え直しを――」


 そう言おうとした時だった。


 アンネリーゼは急に顔を上げ、辺りを見渡した。

 そして、壁にかけられた刃物に目を止めると、そこに近寄りそれを手に取った。


「ごめんなさい。()()、借りてもよろしいですか?」


 彼女が手に取ったのは、開いた腹を閉じる時に用いる縫合用の糸、それを切断する為の鋏だった。


 いったい何を。

 そう口にしようとした瞬間。


 アンネリーゼは、自分の髪を左手でまとめ上げ、雑にその鋏で断ち切った。

 美しく腰まで伸びていた銀髪は、肩にも届かぬほどにざんばらに切られ、以前の見る影もない。


「な、何故……」

「いえ、これからこういう仕事を任されるなら髪が邪魔だなぁ~と」


 あっけらかんとそういう彼女は、全くその行為を気にした様子はない。

 そのまま死体の所まで戻り、躊躇なく腕に抱えた。

 そして真ん中の解剖台にゆっくりと死体を寝かせる。決して乱雑ではなく、とても丁寧に。柔らかく。

 ジャンもシャルルも、一連の動作を呆気にとられた様子で見つめていた。


「よいしょっと。あっ、中身が零れそう……ふぅ、危なかった」


 寝かせ終わると彼女は二人に向き返り、腰に手を当て少し自慢げな表情で言った。


「これで、私がメルティーズになる事を認めていただけるんでしたよね、()()()?」

 

 ジャンはまるで小悪魔のように笑う彼女に、何も言う事ができなかった。

 解剖室には静寂が満ちていく。


 ただ一つ言えるとしたら。

 この日、この瞬間に。

 アンネリーゼ・マルク・アッシュフォールドは――アン・メルティーズと成ったのだろう。



第一章完結です。

この後一つ閑話を挟んで、二章に入ります。内容としては本格的にアンネリーゼ改めアンが処刑に関わっていく事になると思います。

癖がある本作をブクマ、評価してくださった方々、本当にありがとうございます!

これからも応援していただけると幸いです。

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