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殉×愛×ハッピーエンド  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第一幕 江戸、下向
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第三章・第三話 明かされた過去

「……姉様」

 家茂いえもちたちと別れたあと、大奥のある本丸への道を迷いなく進む邦子の背に、和宮かずのみやずと声を掛けた。邦子が、顔だけ少しこちらへ振り向け、「はい、宮様」と答える。

「少しだけ……馬場に寄ってもいいかな」

 まっすぐ大奥へ戻るのも気が進まない。こんなに鬱屈した気分で、女中たちの陰口が渦巻く場所で耐える自信がなかった。

 もちろん、昼前には戻らなくてはならないが。

 すると、邦子は足を止めて和宮に向き直った。

「恐れながら、宮様」

「うん?」

「苛立った気持ちで馬に乗るのは賛成できません。弓も同様です。気持ちが落ち着いていなければ、怪我をします」

 和宮は反論できず、唇を噛んで俯いた。

 さすがに、幼い頃からずっと傍にいるだけあって、目的まで見抜かれている。憂さ晴らしついでだった。それも、先日のような、下へ向いた憂さではない。

 はっきり言って、暴走したい気分だったのだ。

(……あたしには、本当に価値なんてない)

 少なくとも、ここにいる意味はなきものになった。

『一言で纏めますと、洋学の研究施設ですね』

 今し方、かつ麟太郎りんたろうに聞いた言葉が、脳内を回っている。

『洋学とは、外国の学問です。蘭学を中心にした洋学教育を行っておりましたが、現在は外国書物の翻訳や欧米諸国との外交折衝も担当しております』

 官立、だとも言った。つまり、幕府が率先して、外国の学問を武士に習わせているということになる。

 この事実が示すところは明らかだ。

(……攘夷なんてもうするつもりが、幕府にはまったくないってことじゃない)

 顔を歪めて、拳を握り締める。

 攘夷を必ず実行する――つまりは、一部の貿易を認めていた国を除いて、鎖国の状態に戻す。その約束のもと、和宮は幕府に差し出されたのだ。どうしても公武合体政策を成したい幕府が、交換条件として提示し、それが叶うならばと、兄も和宮の降嫁を承諾した。

 なのに、それが口先だけだったと、こともあろうに自分の耳で聞いてしまった。

(……いいえ。分かってたわ)

 心のどこかでは、もう諦めていた。

 この江戸城に入ってから、自分は御所の常識でまったく扱われていない。だから、ほかの約定やくじょう反故ほごにされるのではないかと思っていた。

 ただ、兄に訴えれば改善される、もしくは幕府側が考えを改めて約束は守ってくれるのではないかと期待もしていた。それが、心底甘い期待だったと、今になって思い知らされる。

 だが、何よりも衝撃だったのは、家茂が、攘夷に対する幕府の考えが分かっていたらしいことだ。分かっていて、和宮には黙っていた。

 覚えたのは、失望だ。

(……失望?)

 思った直後、自問する。

 彼を、信じていたのだろうか。こんな短期間で、彼の何を分かった気になっていたのだろう。

(何考えてんだろ……別に、失望するようなことじゃないのに)

 寧ろ、これも分かっていた。いざとなれば、彼は幕閣と同じ考え方をする。そもそも、武家の出で、幕府のおさではないか。

 分かっていたはずなのに、この空虚感は何なのか。無意識に、和宮は自身を抱き締めるように上腕部を抱える。

(……あんただけは、違うと思ってたのに)

 この江戸城にあって、彼だけは『人間』だと。それなのに――

「……宮様」

 呼ばれて、いつしか俯けていた顔を上げる。

 邦子が、どこか怒ったような、強張った顔で言葉を継いだ。

「大丈夫です。すぐにも典侍ないしのすけ様に申し上げて、主上おかみふみをしたためていただくよう」

「だめ!」

 とっさに叫んでいた。

 自分でも驚いて、口を押さえる。

「……宮様……?」

「……だめ……だよ。そりゃ、幕府のやってることを庇う気なんてない、でも……でも」

 徐々に俯いて、手も下ろした。

 それ以上は、なぜか口に出せない。

(でも……もしかしたら、違うかも知れないのに)

 幕閣は、天皇家との約束など反故にするだろう。

 自分たちの欲しがっていたものが、今は手の中にあるのだ。遠く離れた京に棲む、天皇や公家との約束など、律儀に守る必要はないと思っているに違いない。

 だが、家茂個人が同じ考えかは分からない。

(だって、あいつだけは……言葉が通じたもの)

 早とちりで八つ当たりしてしまったことを、今になって後悔していた。すぐに引き返して謝るというのもどこかばつが悪いが、まだ家茂のことを信じていたい自分もいる。

 このまま邦子や嗣子に任せ、家茂諸共糾弾すれば、実質的にはまだ夫婦になっていない今なら、都へ戻れるかも知れない。

 けれども、そう分かっていても、それを望めなかった。

(……どうして?)

 自問しても、答えは出ない。

 江戸城に入ったばかりの頃は、無理と分かっていても懸命に都へ帰る方法を考えていたのに――そうできる手段が目の前にあったら、あの頃ならきっと躊躇ためらわなかったのに。

「……宮様。どう、なさったのですか?」

「……ごめんなさい」

 キュッと拳を握る。

「さっきの……勝の言ったこと。まだ、典侍には黙ってて。お願い」

 邦子の顔を見られなかった。

 この発言は、見ようによっては立派な裏切り行為だ。兄帝や皇室への。

(だけど……)

 きっと後悔する。

 今何も考えず、家茂まで糾弾の対象に巻き込めば、必ず後悔する。そんな予感がした。


***


 その翌々日から、唐突にまた総触れを再開すると、滝山を通して家茂から連絡があった。

 正直、逃げたい気分だった。家茂だけでなく、誰にも会いたくない。幕府方の人間とは特に。

 けれど、正式に沙汰があった以上、逃亡を実行するわけにもいかない。仮病を使うことも考えたが、すぐに打ち消した。

 今彼を避けたら、彼とのあいだにできたわだかまりを解消する機会を逸してしまうような気もする。

 第一、本当に挨拶するだけの儀式だ。型通りに頭を下げていれば、やり過ごせるだろう。

 そう、自身に言い聞かせ、和宮は御小座敷おこざしきへと向かった。


 しかし、その日に限って総触れの前の予定が長引きでもしたのか、の刻〔午前九時から十一時の間〕の半ばを過ぎても家茂は奥へ現れなかった。

「……ねぇ、何かあったと思う?」

「バカね、御台みだい様を懲らしめる為に決まってるでしょ? いくら皇女様(・・・)だからって、大奥のしきたりに従わなければどうなるか……」

 御小座敷に従って来た女中たちが、またも和宮に聞こえるようにヒソヒソ話を始める。

(……だっから、陰口は陰で叩けっつってんのよ!)

 苛立ちの勢いに任せて立ち上がった。

「宮様、どちらへ?」

「もう待ってられないわ。乳母ばあや。悪いんだけど、上様が来たら出掛けたって伝えて」

「どこに出掛けるんだ?」

 質問は部屋の外から飛んで来た。反射でそちらに視線を向けると、そこには家茂が立っている。

 背後には、滝山を先頭に奥女中たちが控えている。総触れは公式行事だから、そうなるのだろう。

 どこだっていいでしょ、と反射で返しそうになるが、辛うじて呑み込む。江戸城に来たばかりの頃なら、躊躇ためらいもなく実行していただろうけれど、今はなぜか、彼に冷たい言葉を浴びせる気持ちになれなかった。

「……別に……何でもありません」

 それでも余所余所しく敬語で答えると、そのまま腰を下ろす。必然、家茂が下座に着くことになった構図に、奥女中たちが眉をひそめた。

「……失礼ながら、御台様。上様に上座をお譲りください」

 口を開いたのは、滝山だ。

 すると、家茂が目の前にいるにも関わらず、和宮としては幕府方への意地がまさってしまう。

「何を言っているの? 先日、主上おかみからも厳重注意があったはずよ。わたくしを皇女として、御所の常識で相応に扱えと。わたくしは皇女です。将軍よりも立場は上。そのわたくしに、将軍のしもに着けとは、先代御台に倣って何と無礼な。その上、たかが奥女中の分際で、皇女のわたくしに物申すなど、非礼極まりない。わきまえなさい」

 滝山は、反射で何か言い掛けたが、兄帝からの通達があったのは知っているらしい。悔しげな表情で、唇を噛む。

「それと、ついでだから申しておく。今後、奥女中もわたくしを『御台』などという下賤な呼び名で呼ぶことを固く禁じます。滝山殿は皆にそう通達しなさい。追って主上にもわたくしから申し上げておくゆえ、そのつもりでいるように」

 今度こそ、女中たちがどよめく。

 だが、もう知ったことではない。家茂に目を戻すと、彼は立ったまま和宮を見ていた。

 責めるでもなく咎めるでもない、凪いだ湖面のような瞳は、却って和宮をいたたまれない気持ちにさせる。

 初めて会った時と同じ、静かな、綺麗な瞳から視線を無理矢理引き剥がす。彼に会釈し、立ち上がって彼の脇を通り過ぎようとした。だが、すり抜けようとした瞬間、彼に上腕部を捉えられる。

 思わず振り返ると、やはり変わらない静かな瞳と視線が噛み合う。

 何よ、と言う前に、そのまま引き寄せられた。

「ちょっと付き合え」

 口早に耳元で囁かれ、否も応も返すより早く、彼は和宮の腕を捉えたまま、部屋を出た。

「上様!?」

 追い縋って来た声は、滝山のものだ。それに邦子の声が、まるで援護のように続く。

「将軍、お待ちを! 宮様をどこへ――」

「桃の井だけは付いて来い。ほかの者は下がって、各自持ち場へ戻れ」

 足を止めた家茂は、凛とした声音で手短に落とす。

「しかし上様!」

 尚も言い募った滝山は、立ち上がると打ち掛けの裾を捌いて、近くへ膝を突いた。

「このあとのご予定が――」

「余にはなかったはずだな」

 冷ややかに返され、滝山が言葉を詰まらせる。

 彼女がそれ以上何も言わないと見て取ると、家茂は和宮の腕を放した。そして、握り直した手を引いて、歩みを再開した。


***


 無言のまま辿り着いたのは、吹上ふきあげだった。

 ちょうどここへ来ようと思っていたのを、まるで見透かされた気分で、和宮は顔をうつむける。

 ただ、逃げる気配を感じなかったからか、足を止めると、家茂は引いていた手を放した。早足でここまで来た所為で、和宮は肩で息をしている。

「……大丈夫か」

 一方の家茂は、少しも息も乱していない。気遣わしげな声で問われて、和宮は反射で反感を覚えた。

「……やめてくれる?」

「何を」

「そうやって、あたしを大事にする振り」

 言ってしまってから、また後悔する。胸元に手を当てて、視線を泳がせた。

(……ああ、違う。こんなこと、言いたいんじゃないのに)

 家茂に言いたいことがないわけではないが、どう言えば角を立てずに言えるのかが分からない。

「……何で振りだなんて思うんだよ」

 しかし、和宮の懊悩おうのうを余所に、家茂のほうは率直に疑問を投げてくる。言いたいことがうまく纏まらず、もうどうとでもなれという気分で「だって」と口を開いた。

「もう幕府としては、あたしを必要としてないでしょ?」

 細かく言わずとも、家茂なら意味は分かるはずだ。

「……いいえ、違う。必要は必要なのよね。あたしがただ『ここにいる』って事実だけが大事なのよ。あたしの意思は要らないし関係ない。ただ江戸城ここに在りさえすればいい、人形か飾りなのよね」

 家茂は、驚いた様子を見せなかった。

 ただ苦しげに、かすかに眉根を寄せている。それを見た途端、頭に血がのぼった。

「被害者振るのもやめてよ! 何なの!? 『皇女』が必要なんであってそれは『和宮あたし』である必要はなかったなら、寿万宮すまのみやでもよかったじゃない!!」

 幼い姪を犠牲にする後ろめたさなど、この時の和宮は感じていない。それに、寿万宮は生まれた翌年、つまり昨年の内に亡くなっている。

 皇宮で育つ者は、どうしたわけか大抵が短命で、和宮のきょうだいも兄帝と異母姉の敏宮ときのみやしか残っていない。

「すぐに死ぬのが心配なら、敏宮のお姉様でも問題なかったわ! 皇女でありさえすればよかったなら、何であたしだったの!? あたしには婚約者がいたって知ってたんでしょ!?」

 反射のように、熾仁たるひとを引き合いに出してしまって、それもまた後悔する。もう熾仁のことなんて何とも想ってないのに、責め立てる道具にするのはひどく後ろめたい。

 けれど、降嫁推進派が家族を脅迫の材料にしたことには、まだ憤りが残っている。

「子どもが産めるかが心配だったとか、今更言わないでよ? 正室が飾りなら、床を共にする必然性だってないじゃない。世継ぎが必要なら、いくらだって側室を置けばいい。あんたには恋人がいたはずよね。どうしてわざわざ別れたの? あたしの意思を無視するなら、そのまま側に置いてたってよかったはずじゃない」

 すると邦子が、「宮様」と不意に口を挟んだ。

「何よ、邦姉様」

「恐れながら、申し上げます。その方はすでにこの世にいらっしゃいません」

「は?」

 とっさに、意味が理解できなくて、和宮は邦子を振り返る。

「……え……何、それ。どういう意味?」

「言葉通りです」

「よせ、桃の井。そいつの耳に入れることじゃない」

 それまで沈黙していた家茂が、邦子を遮った。和宮はせわしく、今度は家茂に向き直る。

「どういうことなのよ」

 しかし、家茂は答えない。唇を、開き掛けては閉じるといった動作を長いこと繰り返し、端正な顔を歪めて目を泳がせるばかりだ。

「家茂!」

 れるように名を呼んだ和宮に答えたのは、やはり邦子だった。

「……その方は、お柊和ひなの方様とおっしゃる、ご内証ないしょうの方だったそうです」

「やめろ!」

「いい、聞かせて姉様! ご内証って何?」

 すると、邦子は急に目線をさまよわせる。家茂の制止に怯んだのかと思ったが、どうも違う。

 どこか薄赤く頬を染めて、口元に手を当てながら、ようやく言葉を継いだ。

「……それ、は……その、初めての、と……床の……中でのあれこれを指南する役目を負ったお中臈ちゅうろうを指すそうで……」

 内容を脳内で反芻した和宮の頬にも、徐々に朱が上る。

「……っあー……ごめんなさい。これは全面的にあたしが悪かったわ」

 緊迫感が急速に緩む。和宮は天をあおぎ、顔を両手で覆った。家茂のほうも再度沈黙したのは、先刻とは別の意味でだろう。

 邦子も、意味のない咳払いを挟んで「とにかく」と先を続けた。

「正式ではないですが、ご側室として認識されていたようです。ですが、公武合体の話が持ち上がって程なく、亡くなられたと」

「……そういうことだ。もういいだろう」

「……よくないわよ」

 ノロノロと、顔を覆っていた両手を下ろして、緩く握った拳を口に当てる。

「病や寿命で亡くなったとしても、時機がよすぎない?」

 自身の呟きで、ある可能性に思い当たり、ハッと顔を上げた。瞬時、目線が絡んだ家茂は、ばつが悪そうな表情で目を逸らす。

「まさか……そのお柊和さんて、いくつだったの」

 邦子に視線を向けると、彼女は淡々と答えた。

「亡くなられた時、十九だったと聞き及んでおります」

 唖然とする。とっさには言葉が出ない。

 家茂に目を戻すと、彼は自嘲するような微笑を浮かべて肩を竦めた。

「……ったく、きょうびの皇族の侍女兼護衛は諜報まで担当するのか。随分優秀だな」

「恐縮です」

「褒めてねぇから」

 投げるように言うと、家茂は腕組みする。

「家茂……まさか、だよね……お柊和さんは、だとしたら……」

「……悪い。聞かせるつもりは最初からなかったんだけどな」

「答えになってない!」

 和宮は思わず家茂の袖を掴んだ。

「……教えて。柊和さんは……なぜ亡くなったの」

「分かってんだろ?」

「答えてよ!」

 しっかりと、黒曜石の視線を捉える。

 家茂は、早々にその睨めっこに耐えられなくなったのか、視線を外した。

「……殺された。多分な」

 予想にたがわない答えが、短く落ちる。

「た、多分……て」

「証拠がない。犯人が殺す現場を見たわけでもない。俺は報告を受けて、彼女の遺体を確認しただけだ」

「だっ……だって、変死なら何かあるんじゃない!? 刺し傷があったとか、毒殺だったら皮膚がこう、変色してたりとか!」

 すると、それまで淡々とした表情だった家茂の目が、呆れたと言いたげに細くなった。

「……お前、箱入りのクセに、どこでそーゆー知識は仕入れるんだ?」

「ナメないでよ! 京にだって貸本屋くらいいるんだから! って今その点が重要なの!?」

「俺的には」

「あたしにはどうでもいいの! 殺されたって推測する根拠が何かあるんでしょ!?」

 話を強引に戻すと、家茂の顔から表情が元通り削げ落ちる。

「……まあな」

「だったら犯人を追及したんでしょうね!?」

 公式に側室ではなかったとは言え、仮にも将軍の想い人が変死したのだ。それなりに捜査などがあって然るべきだと、和宮は思ったのだが。

「……いや」

「してないの!? 何で!」

「……俺にも責任があったから」

「責任って……柊和さんの死のってこと!?」

「公武合体の為に縁談を申し入れているお相手がもんの凄くゴネてる、仮に降嫁が成ったとして、その場に愛人がいたら余計な騒動が起きるから彼女を追放しろって、当時の俺は幕閣のジジイどもから迫られてたんだよ」

 冷え切った声音で返されて、和宮は一瞬、息を呑んだ。

 もう隠し立てしても無駄だと腹を決めたのか、家茂は構わず続ける。

「彼女は……藩邸の近くにある寺の、住職の娘だった。乳母の浪江なみえの縁で知り合って、彼女とは幼馴染みってやつでな。年の近い異性がほかにいなかった所為もあったのか、ふと気付いたら彼女しか目に入ってなかった。俺が将軍職を継いで江戸城に入ることになった時、一緒に来て欲しいって言ったけど、一度は断られた。未来の将軍サマと、一介の住職の娘じゃ身分が違いすぎるって……言ったのは親父さんだったんだけど。最終的に浪江が行儀見習いの名目で柊和を城に呼んだから、そのままご内証の方として城に引き留めておけることになった」

 呼吸を置くように言葉を切った家茂の頬が、少しだけ緩む。

 公式に認められなくても正室にできなくても、当時の家茂は幸福の絶頂だったのだろう。

「でも結局、彼女と夫婦として過ごせた期間は一年なかった。彼女が大奥入りした年の冬には、もう彼女を追い出せって上奏が執務机にてんこ盛りになってたんだよ」

「……それで……どう、したの」

「俺にそのつもりはまったくなかった。望んでもねぇ将軍の座に就かされて、連中のお望み通り飾り人形やってんだから、好きな女くらい傍に置かせろって思ってたよ」

 深刻な話を聞いているのに、覚えず吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえる。

 しかし、その反応に気付いたのだろう。こちらへチラリと視線を投げた家茂は、苦笑を浮かべた。

「幕臣たちと同じ考えだったのか、その年末に滝山が独断で一度、柊和に暇を出したんだ。そのまま呼び戻さなければ、彼女は今も生きてたかも知れねぇけど」

「……かも知れないって」

「おとなしく追放したとしても、そのあと城外でひっそり始末されない保証もなかったってことさ」

 クッ、と投げるような笑いが漏れる。

「……本気で愛してたなら本気で守らなきゃいけなかったんだ。その気になれば方法はいくらでもあったはずなのに……俺は連中の執念をナメてた」

「……どういう、意味」

「あの頃の俺は、いざとなったら名ばかりだろうとこっちが将軍なんだから、正室として皇女が来ようが誰が来ようが、柊和といられるって信じてたんだ。俺がボケッとしててもな。けど、城に呼び戻して、ひと月もしない内に彼女は死んだ。数日、連続で奥に行けない日が続いて……久し振りに奥泊まりの通達を出したら、滝山があっさり言ったんだ。『その者はすでにこの世の者ではございません』ってな。今思えば、俺が連日表に引き留められてたのも全部仕込みだったのかも知れない。真相は分からねぇけど」

「……何で……調べなかったの」

「調査を命じたら、老中や後見人は何て言ったと思う?」

 クス、と彼は何度目かで何かを嘲るような笑いをこぼす。

「『徳川のお家の大事はお国の大事です。ご内証とは言え、正式の側室でもない身分低い女一人、死んだところで何ほどのこともございません。国の為、上様の為に犠牲になったことを、女も誇りに思うことでしょう。騒いではなりません』だとさ」

「そんな……! 人の命は駒じゃないしモノでもない!」

 だのに、そんな風に人の命を身分で計るなど、やはり幕閣は物の怪の集団だ。

 すると、家茂も首肯しゅこうした。

「まったく同感だ。でも、さっきも言ったが証拠はない。数日前まで元気だった柊和が唐突に死んだのはおかしいって、それこそバカでも分かるけど、見た目、遺体におかしな所もなかった。刺し傷も切り傷もなかったし、皮膚の様子も普通に見えた。ついでに言えば首に絞められた痕もなかったな。遺体の状態が普通に見えるように死なせる毒薬もあるのかも知れねぇけど、あくまでも推測の域を出ない」

 言いながら、彼はうなじの辺りに手をやった。

「じゃあ、その怪しい薬は?」

「こっそり調べさせたけど、出て来なかったな」

「信用できる人に頼んだんでしょうね?」

「当たり前だろ」

「じゃ、お医者様は何て? 検死とか、したんでしょ?」

「急な心臓発作としか言われなかったよ。ちなみにその医者、柊和の検死してからパッタリ登城しなくなった」

「って、あからさまに怪し過ぎじゃない! あたしでも分かるわよ!!」

 何度目かで噴火する和宮に、家茂はやはり苦笑を返す。

「だろうな。俺にだって分かるよ。更に付け加えると、あとで調べたらその医者、ポックリ逝ってた」

「……冗談でしょ」

 何という念の入ったことだろう。疑ってくれと言わんばかりの状況証拠が揃い過ぎている。

「……悔しくないの」

「ないって言ったら嘘だな」

「じゃあ、何でそんなに平然と語れるのよ。それに……それに」

 言葉が、続かなくなる。

 ――あたしが憎くないの。

 そう口に出し掛けて、唇を噛む。

(ああ、そうか……)

 やっと分かった。初夜の席で、彼が見せた敵意と憎悪の意味が。

(……あたしの、所為だったんだ)

 彼の愛しい女性ひとの命が絶たれたのは、和宮が幕府からの申し入れを断固拒否していた余波だったのだ。


©️神蔵 眞吹2024.

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