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殉×愛×ハッピーエンド  作者: 神蔵(旧・和倉)眞吹
第一幕 江戸、下向
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第二章・第三話 角目立つ初夜

 最悪な江戸城初日から、明けて翌日。

 和宮かずのみやは、朝の手水ちょうずと食事を終えると、憤然と居室の外へ出た。

 昨日は悔し泣きに忙しくて気付かなかったが、約定やくじょうが守られていないのは、何も扱いに限ったことでないのが分かったからだ。

 まずは、居室として与えられたこの部屋が、ちっとも御所風ではない。武家の建物様式そのままだ。

 江戸に着いてからひと月も清水邸にめ置かれていたのは、事務手続きに手間取っている所為だと乳母めのとの藤から聞いていた。けれども、そうではなかったらしいことを、今朝になって邦子から聞かされた。

 どうやら、和宮の居所を御所風に改装するしないで揉めていただけらしい。

 まったく、どうなっているのか。そう、問いただしに向かう途中の和宮の足を、品のない黄色い声が止めた。

「――やだぁ、ホントにぃ?」

「そうなのよ。でね、下座しもざに着くようにって指示された和宮様ってば、何て言ったと思う?」

 庭に面した廊下を歩いていたら、通り道にある部屋の一つに奥女中たちが集まって、何やら話をしていたのに出会でくわしたのだ。

 五人ほどの奥女中たちが、開け放たれた障子から部屋の外まではみ出して、輪になって話し込んでいる。これが、庭の井戸の側でのことなら、まさしく井戸端会議というやつだ。

「ええっ? まさか、言い返したの?」

「そのまさかよ。『婚約者と別れさせられて無理矢理ここに来させられたんだから、こっちの要求はすべて受け入れるべきだ。そちらこそ、態度を改めるがよい』だってぇ」

 和宮の言い様を真似ているのか、円の中心にいる女中がおどけたように言った途端、どこか品のない笑い声がはじける。

「あっはははは! うっそぉー! 信じらんない、そんなコト言ったのぉ?」

「言ったのよ、あり得ないけど!」

「ねねっ、それって天璋院てんしょういん様に向かって、よね?」

「もちろん。でね、とどめが、『兄帝にしっかり報告する。勅命ある前に改めたほうが身の為よ』って!」

「それって、脅しじゃなーい」

「やだぁ、怖ーい」

 口調からすると、怯えるというよりは面白がっているように聞こえる。そんなことができるわけがない、と思っているのは一目瞭然だ。同僚たちに対して、輪の中心と思える女中が更に口を開く。

「降嫁してくる条件の一つにあったでしょ。『大奥でも万事御所風に』って。あれって、和宮様を皇女としてそれなりに扱えって意味も含まれてるらしいわよ」

 当然だ。

 それでなくても、繰り返すようだが、来たくて来たわけではない。むしろ、どうしてもと幕府が言うから、嫌々来てやった(・・・・・)のだ。それくらい、当たり前ではないか。

 けれど、和宮が何か言うより先に、まだ悪口の対象である本人が傍で聞いているのに気付かないらしい女中の一人が言葉を継ぐ。

「図々しいわねー」

(なっ、誰が図々しいのよ)

 図々しいのはどっちだ、と脳内で続ける内に、女中たちの話は続く。

「嫁いで来る身のクセに、しゅうとめしもが嫌だなんて、何様のつもりかしら。呆れちゃうわ」

「やっだー、そんなの決まってるじゃない。皇女様(・・・)よ」

 最後に発言した女中が言い終えるなり、縁側は再度笑い声に包まれた。嘲りを含んだその笑いは、暖かいの射す縁側には、ひどく不釣り合いだ。

(……何で、こんなはしたの女中ごときにここまで言われなきゃなんないの?)

 思うけれど、それも口には出せなかった。

 言い返せば、相手と同じ水準にまで落ちることも分かり切っていたからだ。

 衣擦れの音をわざと立ててきびすを返すと、ようやくこちらの存在に気付いたのか、笑い声がピタリとやむ。

 言わない和宮の代わりに、京から随行して来た女官が何やら言い返していたが、それに構うことなく居室へと戻った。


 その日から、和宮は居室内に籠城を決め込んだ。

 政治的行事の前に、個人感情なんて配慮はされない。それを、二日連続で再確認させられたのだ。到底、室外に出る気持ちにはなれなくなった。

 けれども、使用人のほうはそうはいかない。

 主人であり、皇女でもある和宮と違い、侍女たちは、都と江戸との温度差に、驚こうが失望しようが、放心して引きこもっていては仕事にならないからだ。

 否応なく部屋の外へ出ることを余儀なくされているわけだが、部屋の外へ出れば当然、江戸城内に以前からいた女中たちと顔を合わせる折りもある。

 一日が終わるごとに、侍女たちからやれ今日は何をされたの、こんな侮辱を受けたのと報告を受ける――というよりもグチを聞かされていれば、いかに幕府側にこちらの言い分が通っていないか分かろうと言うものだ。

 江戸城に入ってから婚礼までおよそ二ヶ月のがあったが、そのかん、もちろん夫となる家茂いえもちと顔を合わせることはなく、気分は順調に下降の一途を辿っていた。


「……宮様」

 一つ、声を掛けて、目の前にお茶と菓子を置いてくれたのは、邦子だ。

 大丈夫ですか、とその顔は言っていたが、それを彼女は口には出さない。大丈夫じゃないのが分かっているからだろう。

 分かり切っていることを訊くことは、時にもっと人を追い詰める。

 ただ、それを理解してくれるというところで、和宮の気持ちは若干和んだ。

「……ありがと、姉様」

 苦笑を返して、菓子を口に入れる。金平糖だ。

「美味しい」

 すると邦子も、少しだけホッとしたように微笑する。

「本当に、どうしたことでありましょうや」

 直後、憤然と言いながら入室して来た女性を見て、和宮は微かに眉根を寄せた。庭田にわた嗣子つぐこ典侍ないしのすけだ。

「奥女中どもと来たらまったく……! こちらに流儀を合わせるどころか、何もかもを否定して! 挙げ句、将軍も女たちをいさめに来ぬていたらく!」

「典侍様」

 邦子が、やや非難するような声音で黙るように促すが、嗣子はそんな遠回しなことで黙る女性ではない。

「先日、主上おかみには子細をお知らせしました。すぐに何か謝罪の動きがございましょう。ご安心召されませ、宮様」

「……ありがとう」

 おざなりに礼を言って、和宮はまた一つ、金平糖を口に入れる。

 確かに、自分も先日はそう啖呵を切った。だが、今は実際に兄に訴えても、無駄だとも思える。

 家茂が機嫌伺いに来ないのも、不満というわけではない。

 今の武家社会に皇族への礼儀がないのは、残念ながら一日も経たない内に嫌というほど思い知らされた。今更、常識は期待しない。謝罪も、待遇の改善も、だ。

 憂鬱なのは、この調子で、自分が本当にどうしても嫁いで来る必要があったのか、という疑問が、日増しに大きくなることだ。

 絶対嫌だと、はっきりと断った。だというのに、身内を全部人質に取る形で脅迫され、どうしても何が何でも嫁に来いと言うから、都からわざわざこんな遠いド田舎まで来てやったのだ。

 最低限、これだけは守れという、五項目の条件付きで、である。

 だが、すでにその内の一条、『江戸城内に於いても和宮の身辺は万事御所風のこと』――つまり、『御所の常識』で和宮は扱われなければならないのにそれがもう守られていない。

 この分では、残りの四ヶ条も守られるかどうかかなり怪しい。というより守られることはないと思っていいだろう。女中にまでからかいのネタにされるくらいだから、絵に描いた餅と一緒だ。

(……まあ、あたしのことだけならまだいいわよ。あたしが我慢すれば済むんだから)

 けれども、兄と幕府が交わした攘夷の約束までたがえられては、それと引き換えに、こんな所までノコノコやって来た和宮の立つ瀬がない。

 『必ず攘夷を実行します』という約束のもとに、自分は言わば『お礼』として、どうしても自分を欲しいという幕府に差し出されたのだ。兄だけはそう考えていないと思いたかったが、最早兄のことも信用できなくなっている。

 最終的に、兄も『攘夷が叶うのなら』と和宮の降嫁を承諾したらしいのだから。

 ともあれ、必ず約束は果たして貰わないと、割に合わないのは確かだ。嗣子に言われるまでもない。

(……見てなさいよ、野蛮人ども。このまま泣き寝入りすると思ったら大間違いなんだからね)


***


 明けて、文久ぶんきゅう二年二月十一日〔一八六二年三月十一日〕。和宮が江戸城に入ってからちょうど二ヶ月後。

 皇妹こうまい・和宮親子(ちかこ)内親王と将軍・徳川家茂の婚儀が江戸城内にて執り行われた。


 家茂と顔を合わせるのも二ヶ月振りになるわけだが、この男は式の間中、隣に座っていてさえ、やはり目を合わせようとしなかった。

 本当になんて嫌味な男なんだろう。

(こんな男と一生添い遂げなきゃなんないなんて……)

 内心で深々と嘆く。

 あのまま何事もなければ、去年の冬には、有栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王妃になっていたはずなのだ。

 愛する――いや、愛していると思い込んでいた男性ひとと、それに気付かないことによって穏やかに暮らす毎日。それはそれで幸せだっただろう。

 少なくとも理不尽な脅迫で崩れることのなかった日常だったに違いない。そう思うと、式の途中だというのに、満座で危うく物憂げな溜息を吐きそうになるのを、何とかこらえた。


 しかし、堪えていた溜息は、一番避けたい儀式を前には抑えようもなかった。

 夜着に着替えさせられ、「では、お休みなさいませ」と言って女中が部屋を出て行ったあと、頼りなげな明かりが揺れる薄暗い部屋の中で家茂と二人きりになった時、『ああもう本当に逃げられないんだ』という思いに、反射で溜息が出た。

「……いきなり盛大な溜息だな」

 苦笑混じりに掛けられた声に、和宮は思わず顔を上げる。

「まぁこの結婚にはあんた、相当ゴネたらしいからな。溜息の一つや二つ、吐きたくなって当たり前か」

 初めて聞く声は、彼の持つ瞳と同じように澄んでいて、顔と同じように中性的だった。少し低い少女の声とも、声変わりの来ていない少年のものとも付かない。

 対面の儀や、婚儀の時には烏帽子えぼしをかぶっていたから気付かなかったが、剥き出しになった頭部は、武家には珍しく総髪だ。

 対面の儀の時から和宮を避けていた目線が、今は正面から和宮を捉えている。

 あの時、状況も忘れて吸い寄せられた綺麗な瞳に、何もかも見透かされたような気がして、ムッと唇をヘの字に曲げてしまった。

「そっちこそいきなりタメ口なんて。やっぱり所詮、武家の人間よね」

 フイと顔ごと視線を外すと、痛みを感じない程度に軽く髪を引っ張られる。

「これは、ご無礼を致しました」

 引っ張られた髪に否応なく視線を元に戻されると、手に取った髪に口づけながら、家茂が揶揄混じりの口調で言った。

「ご機嫌を直して頂けますか? 姫宮様」

 こちらを見上げる瞳には、からかいの色が混ざっているのが分かる。

 それを悟った途端、カァッと頭に血がのぼった。

「――~~~……っっ、きっ……き、き、気安く触らないでよね! そりゃっ……そりゃ、婚儀は済んでるけど、誰が……誰があんたとなんか!」

 家茂の手から髪の毛を奪い返しながら、口が動くのに任せてまくし立てる。

「こ、この際だからあんたにもはっきり言っとくけど、あたしは好きでこんな所に来たんじゃないんだから! あんたたちが家族人質に取って脅迫したりしなきゃ」

「はい、そこまでだ」

 家茂は、皆まで言わせず、和宮の言葉を遮った。その指先が、和宮の目と鼻の先に、鋭く突き付けられている。

 先刻まで好意的、とまではいかなくとも普通だったはずの瞳には、明らかな敵意が剥き出しになっていた。

「お前が『スキでこんな所まで来たわけじゃない』ことくらい、よーく知ってるよ。わざわざ言われなくてもな」

 ズイ、と顔を寄せて来られて、和宮の身体は自然に後ろへ下がった。

 和宮を射抜く鋭い瞳に宿っているのは、もはや『敵意』なんて生易しい言葉では片付けられないものに変貌している。

 身体の芯から震えが来る――家茂の瞳に映されている感情は、憎悪に近い。

「ただ、ここまで来たからには、そーゆー甘ったれた考えは捨てとけよ」

(憎、悪……? って、待ってよ。何であたしが、この男に恨まれなきゃなんないの?)

俺たち(・・・)には選ぶ権利なんてない。そういうモンだろ」

 和宮の疑問を余所に、言うだけ言ってしまうと、家茂は和宮に肉薄させていた身体を引いた。そして、二つ並べて敷かれた布団の片方へゴロリと転がる。

 向けられた敵意の意味が、さっぱり分からない。家茂の瞳の呪縛から逃れて自然と脱力しながら、和宮は必死に声を絞り出した。

「『そういうモン』……ですって? 選択権をなくしたのはあんたたちじゃないの。あんたたちさえ余計な横槍入れなきゃ、あたしは今頃好きな男性ひとと一緒になれてたのに」

 『好きな男性』と思うたび、口にする度に思い浮かぶ熾仁と、その言葉とはもう完全に懸け離れている。けれど、一番分かり易い責め文句だし、相手には所詮複雑な事情は分かるまい。

「そりゃ、その時までの運がよかっただけだろ」

 しかし、冷え切った声音には心底腹が立って、思わず声を荒らげる。

「あんたなんかに何が分かるのよ!!」

「分からねぇな。さも自分だけ(・・)が、無理矢理政略結婚させられた、みたいな顔してる人間の気持ちなんか」

 静かな、それでいて明らかに芯からの怒りをはらんだ声に息を呑んだ直後、家茂は跳ね起きる勢いで立ち上がった。

 平手が飛んで来るような気がして、思わず身を縮めて瞼を固く閉じる。

 だが、いつまで経っても、覚悟した痛みは頬に与えられなかった。

 襖が開く乾いた音に振り向くと、家茂の姿は開かれた襖の奥に消えたところだった。

 初夜だというのに、一人取り残されたのだと理解するのに少し時間が掛かる。

 冷たい夜気が背筋を這い上がって来て、和宮は仕方なく、用意された夜具に一人で潜り込んだ。

 混乱して何が何だか分からなくなっていた頭も、横になってからしばらく経つと、徐々に冷えて来る。

『さも自分だけが、無理矢理政略結婚させられた、みたいな顔してる人間の気持ちなんか』

 不意に去り際の家茂の台詞が甦って、あたしは目を瞬いた。

『自分だけが』

(……まさか……)

 いた(・・)んだろうか、あの男にも。将来を誓い合った、婚約者が。

 確かめようにも、もう本人は今ここにいないけれど、もしもそうだとしたら和宮と同じように、家茂にとってもこの結婚は絶対に、何が何でも嫌だったに違いない。

 だが、それだけでは和宮に向けられた憎悪の意味の説明は付かない。

 ほかに、何かあったのだろうか。婚約者と無理矢理別れさせられたというだけの出来事以上の『何か』が。


 その夜はちょっとした自己嫌悪と、家茂の過去のことで頭が一杯で、中々寝付けなかった。


***


 翌日は、色んな意味で最悪だった。


 昨夜は結局、明け方にようやくウトウトしただけで、ほとんど眠れなかった。

 翌日から、朝夕の総触れがあると聞いていたので、殊更気は重い。

 ちなみに、総触れというのは、将軍が妻である御台所みだいどころに挨拶に来る儀式らしい。その言葉から、何か大勢が集まって会議のようなことをするのかと漠然と思っていたが、違うようだ。

 とは言え、昨日の今日で家茂と顔を合わせるのも何やら気まずい。と思っていたら、総触れが行われるというの刻〔午前九時から十一時の間〕を過ぎても、家茂は大奥に現れず、代わりに滝山と名乗る女性が挨拶に来た。

「上様におかれましては、当分こちらでの総触れはなきものとする旨、言付かって参りました」

 簡潔に言うと、滝山は一礼して下がっていった。

 唖然とする内に、加えて昨夜、家茂と和宮との間に『何もなかった』のを知っている女中たちが、好奇と憐れみの視線をくれたのには、素晴らしく居心地が悪い思いをした。だけならまだしも、こちらへわざわざ聞こえるようにヒソヒソ話が始まる始末だ。

「――ねぇねぇ。結局、昨夜ゆうべはお床入りがなかったんでしょう?」

「そうなの。言い争う声が丸聞こえ」

「で、そのあと、上様が寝所から出ていらして」

「『宮様はお疲れのご様子だから』なんて言ってらしたけど、あんな言い争いのあとじゃ、お床入りなんて無理よねぇ」

「ね、どんな言い争いだったの?」

「それがね、扉を閉じたあと、まず宮様が思いっ切り溜息を吐かれてね――……」

(……あぁ――、もぉ――……陰口は本人に聞こえないよーに、きっっちり陰で叩きやがれ、この暇人どもがっっ!)

 彼女らの陰口大会に対し、脳裏でだけ口汚い罵り文句を吐く。

 よっぽど口に出して言おうかと思った。しかし、武家の人間と同じ水準に堕ちるのはもっと耐えられないので、理性を総動員して踏み留まる。

(大体『床入り』なんてはっきり口にする辺りホントに下品なんだから。お里が知れるってこのことね) 

 だが、結婚二日目にして、早くもこの調子だ。本当にこの先が思いやられる。

 いくら初対面での印象が悪くて、その上武家の人間が無礼千万だとは言え、返す返すも初夜の場でいきなり感情的に衝突したのは少々まずかった。しかも、それを女中にすべて聞かれていたなんて。

(……そりゃ、あたしだって小さな頃から女房がいつも――それこそ手水ちょうずの最中にも傍にいるのなんか普通だったけど……)

 だから、江戸城に入ってからも、女中が寝所までついて来るのなど気にも止めなかった。けれど、まさか夫婦の寝所のアレコレにまで聞き耳を立ていたとは、予想の斜め上だ。

(どうにかして、本当に二人きりになれないもんかしら。ちゃんと謝りたいし……)

 それに、話がしたい。

 あの男にも心に決めた女性がいたのかどうか、本人に訊いてみたい。

(訊いてどうするかまで決めてるわけじゃないけど、このままじゃ何だかすっきりしないし……)

 気になって仕方がない。

 はあ、と溜息を吐いた時、「宮様」と声を掛けられる。声のぬしは、邦子だ。

「何をお考えですか」

「うん……」

 答えにならない答えを返して、脇息にもたれて頬杖を突き、また吐息を漏らす。その間に邦子は、部屋の襖をピッチリと閉じて、和宮の前へ座った。

「ねえ、邦姉様」

「はい」

あいつ(・・・)に……その、好きな人……とか、婚約者とか……いたと思う?」

あいつ(・・・)?」

 鸚鵡返おうむがえしに言って、邦子は首を傾げる。

「どなたのことですか?」

「……だから……その、……家茂」

 名を言われても、すぐにはピンとこなかったのだろう。一拍のののち、「もしかして、将軍のことですか?」と確認される。

「そう」

 これが、相手が嗣子辺りだったら、「まさか、もうお心変わりにっっ!?」という一言を皮切りに、明後日の方向の説教が始まって、話にならないだろう。

 だが、それこそ物心付く前から傍で仕えてくれた邦子は、実の姉妹も同然だ。気心も知れているからか、余計なことは一切言わなかった。

「よろしければ調べましょうか?」

 そう訊かれて、和宮ははじかれたように顔を上げる。

「できるのっ?」

「多分。ただ、時間が掛かると思いますが」

「どういうこと?」

「情報収集は、たとえばそこに住んでいる地元民と親しくなって話すことが一番簡単です。ですが、わたくしも含め、女官たちはここのお女中と初手からかなり激しくぶつかりましたから、そう簡単に欲しい情報を漏らしてくれないと思います。そうなると、収集の方法が限られて来るので」

「そっか……だよねぇ……」

 初手からかなり激しくぶつかったのは、和宮も同様だ。後々こんなことになるなら、せめて普通に話せばよかった、と思うも、まさしくあとの祭りというやつだ。

「……それでも、お願いできる?」

 普段、勝ち気そうに上がっている眉尻が、今は情けなく下がっている。

 上目遣いに邦子を見ると、彼女はいつもと変わらぬ微笑で、「分かりました」と頭を下げた。

「いつまでに……とは、お約束致し兼ねますが、やってみます」

「ありがとう。お願いね」

「はい、宮様。承知いたしました」

 邦子は、いつものように凛と言って、もう一度頭を下げる。

「ところで宮様。つかぬことを伺いますが」

「うん?」

「昨夜、将軍と何事があったか、訊いてもよろしいですか?」

「うっ……」

 途端、和宮は言葉を詰まらせた。

「そっ……それはその……そ、その辺に出れば全部聞けるから、立ち聞きすれば!」

 事細かく話すなんて、何だか気恥ずかしい。しかし、邦子はからかっているのではなさそうな真顔で言葉を継いだ。

「恐れながら、噂話では真実は分かりません。結局、当事者本人に聞くのが一番確かです。もっとも、ご本人も嘘をく可能性もございますが」

「そこらでされてる下世話な噂話で大体合ってるよ! ちょっと嫌味な揶揄が入ってるってだけで」

「今、宮様からうけたまわった職務を果たすための一端です、と申し上げても?」

「ううっ……」

 桜の花のような唇が、とんでもなくひん曲がる。

 昔からそうだ。この()を論破できたことなど、一度もない。

 和宮は深々と溜息を吐きながら、早々に白旗を揚げた。


©️神蔵 眞吹2024.

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